昼寝ネコの雑記帳

連載小説「函館日吉町・下宿屋繁盛記」(その3)

 窓越しの遠景を見つめながら、K子は寡黙だった。他人には容易に話せることではないのだろう。何をどこまで話していいのか逡巡している表情だった。
 心の重い蓋が徐々に開かれるように、K子は言葉を選びながら話し始めた。
「断片的でしたが、母や叔父・叔母たちから、祖父に関するお話しを聞いたことがあります。祖父に対する気持ちがなかなか消え去らず、そのうち修道院の歴史を調べるようになりました。ときどきこうして修道院の高台に独りで来るようになり、思いを巡らすうちに『ああ、こうだったんだ』と、納得のいく結論になったんです。もちろん、わたしの推測ですから何の確証もないんですが、でもわたしは当時の祖父母の会話を聞き、二人の姿が見えるような気持ちになりました。・・・誰も来ないここの冬景色は綺麗ですが、夏もとてもいいんですよ。春も秋も」
 彼女はおそらく、今まで誰にも話したことのない領域に私を招き入れようとしているのだろう。話しを遮って話題を変えることもできたが、そうすべきではないと感じた。
「祖母は熱心なクリスチャンだったんです。ある日、看護婦として勤めていた病院に、修道院から入院患者がありました。それが祖父だったのだと思います。同じキリスト教ということもあり、祖母は献身的に看病したはずです。二人とも高潔な人格で、おそらく最初は深い理解と尊敬の気持ちを感じ、やがて親近感に変わったのでしょう。その修道僧は、遠い異国の地へ来て、慣れない環境の中での病気でしたから、母の親切さに深い感謝の気持ちを抱いたんだと思います。」
 不思議なことに、私にもK子の語る祖父母の姿がイメージできるような気になっていた。
 なぜ、彼女はそこまで祖父母のことに、強いこだわりを持ち続けているのだろうか。私にはその方が興味深かった。
「結果的に、祖母のお腹の中には母が宿りました。教会や世間の人たちからは、非難と好奇の目で見られたことでしょう。その事実が知れると、祖父は祖国のフランスに帰還させられたようです。残された母は、想像できないほどの苦しみを味わったと思います。祖母の短歌を読み、そう感じました。
 教会では表面的に赦されたとはいうものの、罪悪感をぬぐい去ることは簡単ではなかったようです。周りの人たちの無言の視線にさらされ、お腹の子どもも心配でした。産む決心をしたものの、心労と孤立感で絶えず流産の心配をしていたんです」
 話しを聞きながら、私はダビデ王の晩年を思い浮かべていた。祭司ウリヤの妻・バテシバに子どもを作り、ウリヤを戦いの最前線に送って殺してしまったダビデ。その子は生まれてすぐ病に撃たれ、ダビデの断食と祈りの甲斐なく死んでしまった。K子の祖母もおそらく、ダビデのことを思ったのではないだろうか。
「今ではわたし、祖母の人間としての純粋な気持ちを、受け入れられるようになりました。狭い街のできごとでしたから、母の結婚にまで影がつきまとったんです。・・・ごめんなさいね。なんか愚痴話になってしまいました」
 そこでK子は言いよどんだ。少しの間が長く感じられた。吐き出してしまいたいけれどためらっている彼女の心中を察し、その先を促すことにした。
「わたしの結婚もそうだったんです。結婚が決まっていたのに、突然破談になりました。理由を尋ねても言ってくれなくて。やはり狭い街ですから祖母の件がどこからともなく耳に入ったんだと思います。その当時は大きな話題だったようですから」
 なるほど。そこが彼女の核心部分なのだろう。
「それは残念でしたね」
 私は月並みな慰めを口にしてしまったことを後悔した。
「いつか祖父に会えるような気がして、フランス語を勉強しました。とうとう行く機会はありませんでしたけどね。・・・結局、わたしには恋愛や結婚ができない血が流れているんだと思います。もちろん祖父母を恨んだりしていません。独りで生きるのがわたしの運命なんだと、今では素直に受け入れられるようになりました」
「世間は、人の一部だけを見て全体を見ませんからね。でも、そんなに結論を急ぐことはないのではないですか?」

 K子は話し過ぎたと感じたのかもしれない。私は私で、適切な慰めを言えないもどかしさを感じていた。気まずい雰囲気になったと思ったとき、彼女は私の横をすり抜け、小部屋から外へ出て鉄製の正門のすぐ前に立った。私の存在が視野に入らないかのように、見慣れているであろう景観と向かい合っていた。
 ずっと辛く寂しい思いを抱えてきたK子に対し、急に感情が高ぶった。自分と同じような濃い孤立感を見たせいかもしれない。またしても適切な言葉が思い浮かばず、どちらからともなく「帰りましょう」と、目の前の雪に埋もれた坂道を下っていった。遙か彼方の津軽海峡は、超然として冬色だった。

 最近の教室で、K子のアクセントからは、フランス人訛りが消えてきている。

 こうして行く先々でいろいろな人生との出会いがある。この函館にいつまで滞在することになるのか。あくまで自然の流れに逆らわず、このまま生きて行くのだろうと思う。

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# by hirune-neko | 2008-02-27 19:00 | 創作への道 | Comments(4)

連載小説「函館日吉町・下宿屋繁盛記」(その2)

 歓迎会は、一通り新任講師の紹介と生徒の自己紹介を終えて、歓談の場となっていた。寒気で曇った窓からは、五稜郭タワーの明かりがぼんやりと見える。
 気がつくと、彼女は壁に身を預け、人の輪に入ろうとはしていなかった。化粧品会社の営業ウーマンだというから人慣れしていると思ったので、少し意外だった。授業時間以外に生徒にサービスする義務はなかったが、私の歓迎会に来てくれたことだし、話しかけてみることにした。
「K子さん、ちょっといいですか?」
 彼女は少し驚いたようだった。
「一度訊いてみようと思っていたんですが、K子さんの英語、フランス人訛りがあるんですよ。不思議ですね」
「そうですか?以前、キャシー先生にもそう言われたことがあるんです。・・・わたし少しフランス語を習っていた時期があって、多分そのせいではないでしょうか」
「なるほど、そうでしたか。アンシャンテ。ジュマペル・ケント」
「アンシャンテ。ジュマペル・K子」
 日本人らしからぬ彼女のアクセントから、話題はフランス映画やシャンソンに移り、やがてためらいがちに彼女は祖父がフランス人だと、ぽつりと言った。彼女の祖母がフランスに行っていたのか、祖父が日本に来ていたのか・・・詮索はしないことにした。

 数日後の昼過ぎ、その日はオフだったので元町を散策することにした。ロシア風の大きな洋館は、今は公会堂として使用されているらしいが、建築デザインよりも外装の色遣いが珍しかったので、正面からしばらく眺めていた。
 背後で車の止まる音がした。観光客を乗せたタクシーなのだろう。
「ケント先生」
 振り返ると、運転席に座っていたのは、にこやかに微笑むK子だった。取引先の化粧品店との打ち合わせが早く終わり、もともと有休の日だったので時間があるという。市内を案内してくれるというので、申し出に甘えることにした。行きたい場所を尋ねられたので、大沼国定公園までの所要時間を訊いたら、是非行きましょうということになった。
 車は函館の市街地をしばらく走り、やがて5号線から函館新道に移った。小樽の2月は雪深いが、函館はそれに較べると少なかった。大沼の周囲を少し歩いたが、観光客がパラパラ歩いているだけで、今はシーズンオフだという。その観光客は中国語を話していた。台湾なのか中国本土からなのか、見分けることも聞き分けることもできなかった。
 クロフォード・インというプチホテルがあるというので、行ってみた。ホテル前の沼は氷で覆われ、何人かがワカサギ釣りをしていた。全体がヨーロッパ風で、ロビーの奥にあるティーラウンジは、落ち着いた雰囲気だった。私はハーブティーとミルクレープを注文した。

 とりとめのない話しから、話題はまたフランス訛りに移った。私はずいぶん以前だけれど、パリ郊外に住んでいたことがあるという話しをした。しばらくためらっていたようだが、彼女は自分の祖父のことについて話し始めた。
 函館の街で、彼女の母は私生児として生まれた。祖母は最後まで祖父のことを明かさなかったが、それは祖父が厳格な信仰をもってフランスから渡来した、修道僧だったからで、祖母は祖父の名誉のために、真実を隠し、かばったのだろうと・・・あくまでも推測だが、おそらく間違いないと思う、そう彼女は語った。なんとなく想像できる話しだと思った。凍土の下に眠る深い人間愛と純粋な恋愛感情が、長い時間に風化してしまっているのだろう。しかし、顔も名前も知らない祖父のことを思い、今も彼女はときどき独りで当別の修道院を訪れると言った。
「まだ明るいから、これから修道院に行ってみましょうか?」
 K子は吹っ切れた表情で言った。
「いいですね。是非お願いします」

 途中、大野平野を眼下に見て海岸線沿いの道路に出た頃、不覚にも睡魔に襲われ、しばらく夢の中をさまよった。

 トラピスト修道院は、長い並木道の先にある上り坂を上り切ったところに鉄製の正門があり、その門のさらにずっと奥に、赤茶色の煉瓦造りの建物本体が見えた。
 坂道の下に車を置いて、私たちは雪深い坂道を上ることにした。雪に足をとられ、ときどきよろけながら一気に上ろうとしたが、無理だった。途中で苦しそうに深呼吸する私を見て、K子はおかしそうに笑った。でも、見栄を張れるような年齢ではない。もう半世紀以上も生きてきているのだから。

 なんとか正門に辿り着いた。門の左手には、寒さを避けられるような小部屋があり、壁一面に修道院の歴史や写真などが貼られていた。
 私たちは窓から眼下に広がる景観を共有した。今上ってきた雪の坂道。ポプラなのか杉の木なのか見落としたが、長く続く常緑樹の並木道。そしてずっと先には、冬色に凍る津軽海峡の水平線。

 K子は、長いことずっと心の底深くに溜めていた思いを話し始めた。

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# by hirune-neko | 2008-02-24 08:53 | 創作への道 | Comments(6)

連載予定小説「函館日吉町・下宿屋繁盛記」(その1)

*あまり長いとお読みいただくのがご負担でしょうし、書く方としても完成させるまでかかりきるわけにもいかず、そこで連載予定小説として、気ままに・・・気の向いたときに書き足す方式で思い浮かんだストーリーを、実験的に書いてみようという気になりました。不評でしたら途中で連載打ち切り、という至極気楽なスタンスで書き始めてみます。辛辣なご批評をちょうだいできれば幸甚です。

 では、第1作をお届けします。


 函館は初めての街だった。室蘭や小樽と較べるとどうだろうか。商業活動が活況であり、店舗には生気が感じられた。

 産業道路沿いの花園バス停で降り、コンビニの手前を斜めに左手に折れると、長いだらだらとした上り坂が続く。あたり一帯は住宅街で、つい先には函館ラ・サールがあるらしい。ほとんど行き止まりの手前まで歩き、私道を左に曲がると普通の民家があって、そこが下宿屋だった。看板も何も出ていないが、呼び鈴を押すと下宿屋の女主人が出迎えてくれた。
「あんた、ケントさんかい?キャシーから聞いてるよ。さあ、入いんなさい」
 玄関は広く、通された居間も日本の住宅としては大きい方で、天井も高かった。窓は南向きで眩しいぐらい陽が入っている。
「キャシーはアメリカに帰るって言ってたけど。そうかい、もう帰ったのかい」
 女主人はすでに六十を超えているのだろう。ほとんど白髪だが眼はまだまだ鋭く、何か知的な職業に従事していたのではないだろうか。
「いやあ、空いてるのがほれ、そこの部屋だけなんだけど。誰も使ってないからさ。お線香だけはあげさせてもらうけどね。そこでいいかい?」
 視線の先を見ると、居間に続く広めの和室があり、仏壇がしつらえてあった。尋ねてみたら、二階には二部屋あるものの、一部屋は地元の病院に勤める看護師さんが借りており、もう一部屋は東京に行っているという、看護師さんの息子さんのために空けているらしい。まあいうなれば、下宿というよりは同居という表現の方が適切かもしれない形態だ。とにかくなんでもいい。眠れて生活できる空間なのだから。

 小樽の英語教室で、キャシーは同僚だった。彼女は生粋のアメリカ人だが、私は違う。父はアメリカ人だが母は日本人のハーフだ。日本に来ていた父と知り合った母は、国際結婚をして私をアメリカで産んだ。父の家は、カナダ国境に近いワイオミング州で牧場を営み、肉牛を飼っていた。朝早くから肉体労働のきつい生活に、母が音を上げるのも時間の問題だった。離婚し、まだ三歳にならない私を連れて横浜の実家に帰ってきた。なんとかいう法律のせいで、私は成人と同時にアメリカ国籍を取得したのだが、外見はちょっと外人っぽい日本人に見えるのだと思う。
 小さい頃からほとんど日本暮らしなのだが、血は争えず、英語の吸収力は強かったようだ。何度か父の家にホームステイしたせいもあり、バイリンガルとはいえないが、まずまずの語学力だと思っている・・・「日本人」にしては。

 函館の教室は、五稜郭公園近くの新しいビルに設置されていた。私は午後から夜までのクラスを受け持ち、主婦や社会人を中心に教えることになった。
 教えるというより、英語に対するコンプレックスを薄めて自信を持たせ、とにかく英語で話すことに慣れることを主眼とした。だから、英語といってもアメリカ西部と東部、あるいは南部ではアクセントが違うし、ましてや英国に行ったらまったく別物に聞こえるので、学校の英語の先生だって立ち往生するすること必定である、そんな前段を入れることにしていた。 
 例えば、「The rain in Spain mainly stays in the plain」という文章を引き合いに出し、米国人は「ザ・レイン・イン・スペイン・メインリイ・ステイズ・イン・ザ・プレイン」と発音するが、英国人は「ザ・ライン・イン・スパイン・マインリイ・スタイズ・イン・ザ・プライン」と発音する・・・この出典はオードリー・ヘップバーンが主演した映画「マイ・フェア・レディ」であることも付け加える。つまり、英語の世界をできるだけ広く感じてもらうことを心掛けた。

 生徒の一人に、四十歳代の少しエキゾチックな女性がいた。昼間は化粧品会社の営業で走り回り、夜は週に2回受講しているとのことだ。プライバシーには立ち入らない主義なのだが、新人講師歓迎会のときに立ち話をし、少し彼女の生い立ちを知ることができた。
(次回に続く・・・かもしれない。締め切りを設定せず、気楽に構えないと無理です)

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# by hirune-neko | 2008-02-22 14:18 | 創作への道 | Comments(6)

長き不在から戻りました

お帰りなさい・・・ただいま帰りました。
営業の旅行でしたが、その成果はまずまずで
いずれにしても即日即決ということのあり得ない
今後のフォローが必要な状況です。

今回は函館が長く、最初は
カーナビを離せずにいましたが
徐々に土地勘が育ちました。
函館の印象を一言でいうと・・・原色の無い街。
それと歴史を感じさせる街でもあります。
仕事の合間に、市内の主立った場所を巡り歩き、
大沼とトラピスト修道院にも行きました。
トラピストにはある種の畏敬の念を感じました。
長い並木道を通り抜け、車を降りると
その先は雪に埋もれて長く続く上り坂。
途中で息を整えてまた上り始め、
上り切った正門の前で振り向くと、
並木道のはるか向こうには
津軽海峡の水平線が見え、
修道院の敷地一帯の景観は、まるで異国の地でした。
100年以上前にフランスから渡来して
開墾した苦労を思い、ふと、かつて観た
「薔薇の名前」という映画を思い起こしました。

路面電車のある街、函館。
人生の終わりを見つめて生きる女の住む街、
大沼のクロフォード・インや元町の洋館・・・
小樽や室蘭、横浜・神戸とは
また違った景観の港町でした。

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# by hirune-neko | 2008-02-21 21:53 | Comments(8)

札幌から函館、青森へ

昨日は国道5号線を走り、小樽、余市、ニセコを
経由して函館に着きました。途中2回の
コンビニタイムを入れても5時間ちょっとの
所要時間でしたから、まずまずでした。
香雪園、湯の川温泉にほど近い
親戚宅に泊まらせてもらい、
今日は、お昼近くの特急列車に乗り、
青森駅に着きました。昔の面影を残す
プラットフォームと連絡通路が残っています。
ああ、むこうの端から青函連絡船に乗ったなと、
記憶を辿ることもできました。

レンタカーを借りて、目指す産婦人科の住所を
入力・・・したはずなのに、1行間違えてしまい
別の病院に行ってしまいました。
なんとか数分遅れで到着し、やれやれ。
院長夫人がお話しを聴いてくれて
反応はまずまず。まあ7割程度の可能性でしょうか。

青森駅の近くにチェックイン。
母が昔・・・といっても何十年前のことやら・・・
青森駅の近くの市場で買った「乾し餅」が食べたい。
そういわれていましたので、フロントに尋ねました。
たまたまとなりの商業ビルの地下に市場があり
そこの乾物屋さんで売っているとのこと。
外見は普通のファッションビルなのですが
エレベーターで地下に下りて驚きました。
文字通り、市場が再現されているのです。
まるで映画のセットのように、昔ながらの
アメ横風の店がずらりと・・・。
いやあ、壮観でした。懐かしくもありました。
目指す乾し餅もちゃんと昔のブランドのままだそうです。
で、駄菓子屋さんを覗いたら、あんドーナツがあるんです。
あのう、こしあん・つぶあんどっちですか?
ぎゃっ、こしあんだ・・・私の決意はあっけなく崩れ、
丸ドーナツ8個入りを買ってしまいました。
でも、全部は食べていません。申し訳程度に
1個は残しました。それ以外に、郷土銘菓というか
昔からの作りの珍しい和菓子もありました。
ひらもちという、すあま風のもの。
餅米から作ったという雲山だったか・・・ぐぐぐ
さっきまで覚えていたのですが忘れました。
それと江戸時代から伝わっている
「こぎんざし」とかいう伝統刺繍の素朴なのも見つけました。

日本はかなり高度に中央集権が進んでおり
文化も東京に一極集中しています。
でも、フランスのように・・・この辺りは
romarinさんにフォローしていただければ
助かるのですが・・・
パリだけに全てが集中しているのではなく、
地方都市それぞれに、独自の文化圏が発達しているそうです。

気候・風土、言語・習慣の異なる
その地方独自の文化が大事にされて
育っていくといいなと、食べ物だけでなく、たまには
文化的なことも考えてみました。
今日はたまたまインターネット環境がありますが
明日はまた、オフライン状態です。

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# by hirune-neko | 2008-02-12 22:24 | Comments(10)



妄想から始まり、脳内人格を与えられた不思議な存在
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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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