昼寝ネコの雑記帳

カテゴリ:創作への道( 308 )

過去を消された男、過去を失った男・・・単なるドジ


astor piazzola/gary burton-milonga is coming
いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 過去を消され、過去を失ったものの、単なるドジだという話である。

 ことの発端は、iMacのタイムマシンとして使っていた、3テラバイトの外付けハードディスクが認識されなくなったことから始まる。新たに同容量のディスクを購入し、念のためAppleサポートに電話して設定の細かいところを教えてもらった。その際、過去十数年に渡るデータを保存していた外付けの2テラバイトのディスクを誤って選択し、初期化してしまった。見事に過去を消され、過去を失ってしまった。注意力が散漫になってしまった、単なるドジな失敗にすぎない。

 今日、メーカーのバッファローに電話して、復旧方法について相談した。どうやら有料で対応してくれそうなので、とりあえずはお願いしようと思っている。そこまで注意力が低下しチェいるのかと、正直言って愕然としてしまった。

 と同時に、過去の記憶を失うのも、ある意味では心の重荷を下ろすことになるのではないだろうか、という解放感も感じた。

 昨日は午後から、約12時間のデスクワークが続いた。途中から、左足の薬指の根本辺りに激痛が走るようになった。歩けば治るかなと思ったのだが、結局その時間を確保することはできなかった。布団に入ってからも、数分おきに激痛が走り、寝るどころではなく、朝を迎えた。さすがに途中である程度は寝たようだが、今日は徐々に治まったのでほっとしている。

 ここ数日、短編作品の創作と、多言語出版に向き合った。改めて、翻訳の難しさについて考えている。鍵は、私の描く世界と文体を感覚的に捉え、さらにはそれぞれの原語を話す人たちの心に伝わる翻訳ができる人との出会いだろう。微妙なニュアンスを持つ表現を、どのような文章に訳すかは、なかなか難しいことだと実感している。

 日本語で、「私は昨日までの私を捨てました」と表現したとき、その人の心の変化や生き方に影響を与えた出来事、あるいは人間を視野に入れないと、無味乾燥な逐語訳になってしまうと思う。そこが、翻訳の分岐点なのではないだろうか。

・日本語:私は昨日までの私を捨てました。
・英 語:I threw myself up until yesterday.
・スペイン語:Me vomité hasta ayer.
・ポルトガル語:Eu me joguei até ontem.
・フランス語:Je me suis jeté jusqu'à hier.
・フィンランド語:Heitin itseni vasta eilen.
・ポーランド語:Rzuciłem się aż do wczoraj.
・ベトナム語:Tôi đã ném mình lên cho đến ngày hôm qua.
・ヒンディー語:मैंने कल तक खुद को ऊपर फेंका।
・ヘブライ語:זרקתי את עצמי עד אתמול.
・アラビア語:ألقيت بنفسي حتى أمس.
・中国語:我把自己推到了昨天。
・韓国語:어제까지의 나를 버렸습니다
・ロシア語:Я бросился до вчерашнего дня.
 
 いやあ、実に壮観である。これらはすべてGoogle翻訳によるものだ。いずれも文法的には正しいのだと思う。しかし、短編作品を丸ごとGoogle翻訳したのでは、おそらく体温が感じられず、息づかいも聞こえてこないだろうと思う。

 結論として思うのは、いかにいい感性と表現能力を持つ、ネイティブの翻訳家と知り合いになれるかが、鍵だと思っている。

 判断に迷うのは、紙の本、電子書籍のいずれを重要視するかだ。常識的には、単行本出版の場合は、印刷代、紙代、加工費、製本費、在庫費、送料の発生しない電子書籍を選択すべきだと思う。しかし、名入り絵本のような、思い出と記念の本ならば、やはりいつでも手に取れる、紙に印刷した本の方が、付加価値が高いのではないのだろうか。

 ・・・とまあ、あれやこれや病的にイメージが膨らんでしまっている。妄想もここに至れりである。

 ようやく、足先の痛みが治まってきたので、明日からはまた健全な生活を目指す努力を再開したい。

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2019-01-21 23:10 | 創作への道 | Comments(0)

スペイン語とポルトガル語にも翻訳されることになった

Astor Piazzolla, Aconcagua, II. Moderato
いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 昨日の記事に書いたように、昨晩、唐突に心に促しを感じ、南米出身の男性に、ニュージーランド人女性によって英訳された作品を見せ、感想と意見をお願いしようと思った。そこで、国際コンクール用に作成した日本語投稿原稿3作品と、英訳してもらった2作品を印刷した。

 たまたま今日、ある会合で会えたので、お願いして少し時間を割いてもらい、これまでの経緯と今後の多言語出版構想について説明した。言語学を学び、母国語のスペイン語以外に、ポルトガル語、英語を使い分ける彼には、鋭い感性が具わっていることを感じていた。

 勿論、私には多言語出版の経験はなく、初めてのチャレンジである。しかし、まずは日本語を英語に翻訳し、英訳文を起点として多言語化するのが、最も現実的だと考えている。

 状況を把握した彼は、その場ですぐに翻訳を引き受ける、と申し出てくれた。確認したところ、スペイン語とポルトガル語の両方にに翻訳し、1週間後には渡してくれると言う。さすがに、私には翻訳のクオリティを判断する能力はないが、楽しみである。

 帰宅して、改めて英訳された2作品に目を通してみた。おめでたい自画自賛になってしまうが、舞台がアメリカ東部や北欧であることもあり、他言語で読まれる皆さんの心にも伝わるのではないかと、少し自信が湧いた。

 さらに、まだ英訳されていない日本語作品にも目を通してみた。この作品を翻訳依頼しなかった理由は、他の2作品と較べると、多少難解な漢熟語が多く、余程の日本語力がないと、誤訳する危険性が高いと判断したからだ。この作品の主題は、亡き国王の跡を継いだ新国王が、市井で貧しい生活を送る一般女性と出会い、結ばれるまでの数奇なストーリーである。

 なかなか悪くないと、再び自画自賛したのだが、ラストシーンでの、二人が結ばれたことを表現する描写が、日本人の感性だと理解してもらえると思うのだが、ニュアンスが微妙すぎて、外国人にも明確に理解してもらえるような表現に書き換えた方がいいと思った。この作品は2015年の6月に書かれており、当時は日本国内での出版しか視野に入れていなかった。そこで、最後のシーンだけを手直しすることにした。

 以下が、改訂版の作品である。最後の部分だけの手直しなので、すでにお読みくださった方は、最後だけ目を通してくだされば十分である。


創作短編 改訂版「王家の憂鬱とネコの欠伸(あくび)」 

 かつて、東ヨーロッパの東端に、王政の国がひっそりと存在していた。ヨーロッパ列強諸国による、長期にわたっての領土拡張政策の影響を受けずに、文字通り、目立たずに存在し領土を侵されることはなかった。地政学的には、周りを軍事的強国に囲まれており、常に侵略・支配される可能性が高い国だった。  

 王家は世襲制だったが、代々の国王は皆、人格者であり知恵に富んでいると同時に有能な戦略家でもあった。入り組んだ峡谷が、天然の要塞にもなっていたが、何よりも、国民の王家に対する敬愛の情が強く、有事の際には、全国民が一致結束して戦った。なのでいつしか、周辺の列強国はこの王国に畏怖の念を持つようになり、どんな武将でも敢えて戦いを挑むようなことはしなかった。  

 その高齢の国王が、原因不明の病に倒れた。王家や臣民、国民の願いも空しく、国王は還らぬ人となった。国全体が、何日も喪に服したが、悲痛な悲しみはいつまでも空しく国全体を覆っていた。  

 王国では、国王にもしものときは、第一子の男児が王位を継ぐ習わしになっていた。すでに五十歳を過ぎて間もない新国王は、幼少の頃から病弱であり、国の政には関心が薄く、ずっと独り身で過ごしていた。音楽の才能を有し、楽を奏で作曲にも秀でていた。後継者の、およそ統治者らしからぬ姿は、亡き国王と王妃にとっての、唯一の心配であり続け、国の先行きを思う、家臣たちにとっても暗黙の憂鬱となっていた。  

 亡き国王には、何人もの忠実で有能・勇猛な家臣が仕えていた。彼等は、この隙に乗じて他国の軍隊が攻め入ってくることを懸念し、王妃に進言することになった。新国王は幸いに、頭脳明晰であり直感力も鋭かった。なので、家臣達は進言を受け容れた王妃の勅命により連日、国の統治、諸外国との交易、国の防御などについて新国王に進講することになった。  

 新国王の隠れた才覚に期待し、家臣達は心血を注いだ。代々の国王の血筋である新国王には、やはり受け継いだ才覚があり、徐々に頭角を現し始めた。国内外の情勢を的確に把握し始め、ときに発する鋭い問いかけに、家臣達が返答に窮することもあった。いつしか新国王には威厳が具わるようになっていた。  
 進講を受けるとき、王座に座る新国王のヒザの上にはいつもネコがねそべっていた。ネコはときどき退屈そうに欠伸した。全身を白毛に覆われているのだが、両眼の周りだけが真っ黒という、非常に特長ある顔立ちだった。緊迫した内容の進講を受ける、威厳ある新国王と、悪戯描きしたようなネコの顔つきは、いかにも不釣り合いだったが、人との接触を好まない新国王が、生まれたての頃から気を許し、可愛がっていたネコであることをよく知る家臣達に、違和感はなかった。家臣達の努力の甲斐もあり、王国は平和裡に年月を重ねた。  

 ある日、新国王は家臣を集めて問い質した。亡き国王に対する国民の、敬愛の情が深いことは実感していたのだが、経験も浅く非力な自分に対して国民がどのような気持ちを抱いているの知りたい、ついては何か名案はないのか、と問い質したのである。  

 どの家臣の進言も、新国王が得心できる内容ではなかった。  

 現存する記録によれば、王国の起源はかなり古く、紀元前の時代、ネブカデネザル王の捕囚を逃れた人々が東へ東へと流浪の旅を続け、今の地域に定住することで国を興したとされている。

 古代イスラエルの時代に倣い、王国には代々世襲の知恵者が仕えていた。新国王はある日、その知恵者に謁見を許した。新国王は、家臣と同じように問い質してみた。すると知恵者は、このように答えた。  

 「王よ、この先、末永く国を治めるためには、身分を隠し、誰にも悟られぬよう姿を変えて民の中で3日の間、お過ごしになるといいでしょう。その3日の間に、王はご自分にとって最も貴重で得がたい宝物を得ることになるでしょう」  

 知恵者の言葉を、新国王は由とした。

    *  *  *  *  *  *  *  

 その翌日、市場の外れにある古井戸の近くにみすぼらしい身なりで、すり切れた布袋を担ぎ、力尽きて座り込んだ男の姿があった。道を行き交う人々は皆、せわしなく通り過ぎ、誰も男に関心を払う人間はいなかった。  

 突然、小さな男の子が叫んだ。  
 「見て見て、このネコ。面白い顔だよ」  
 同じぐらいの年格好の女の子が続けた。  
 「ほんとだ。なにこの顔?ねえおじさん、このネコの名前はなんていうの?」  無邪気な子どもたちの言葉に苦笑しながら男は答えた。  
 「この子はね、アヒトペルという名前なんだよ」  

 アヒトペルは眼を開いて子どもたちを見たが、迷惑そうな表情で大きく欠伸すると、また寝入ってしまった。余程ネコの顔が滑稽に思えたらしく、子どもたちは男の側を離れなかった。その時、男は視線を感じ顔を上げた。女は観察するような視線を男に向けていた。意志の強さが瞳に現れていた。男の子も女の存在に気づき、言った。  
 「お母さん、このネコの顔、見て・・・」  
 「子どもたちが失礼をしました」  
 女は男に詫びの言葉を述べた。  

 最初は迷惑そうだったアヒトペルも、諦めたように子どもたちの相手をしていた。  
 「この辺りではお見かけしませんが、旅の方ですか?」  
 「ええ、旅はまだ始まったばかりなんです」  
 「お疲れのようですね」  
 「馴れない旅を続けていますので、まだまだ馴染んでいないようです」  

 明らかにみずぼらしい格好の男に対し、意外にも女は、自分の家で休むように勧めた。思いがけない申し出に男は驚いたが、素直に従うことにした。  

 女と子どもたちの住む家は、質素で小さかった。女は手際よく小麦をこねて瓶の油を混ぜ、パンを焼いてくれた。一緒に出された干しイチジクと一緒に、焼きたてのパンを存分に食することができた。様子を見ていたが、カメの粉は残り僅かであり瓶の油も少なかった。  

 「ご親切にお礼を申し上げます。このような身なりの私に、ご厚意を示してくださり、感謝の気持ちをお伝えします」  
 男は本心からそう言った。  
 「この国では、寄留の人と旅人には親切を施すことが昔からの伝統になっているんです。国王や王家の方々も、率先してそのようにしています」  
 「ほう、国王ご自身も?」  
 「数年前に国王はお隠れになりました。ご立派な方でした」  
 「国王が亡くなられたのですか?」  
 「ええ。今は新国王がこの国を治めておられます」  
 「新国王が?」  
 「王家の血筋のご子息ですから、立派に統治されると誰しもが期待しています」  
 陽が傾いてきたので、男は礼を言い旅を続けようとした。ところが女は制止した。  
 「失礼ながら、体力が弱っていらっしゃるようです。亡くなった兄の部屋が使えますので、今晩ひと晩ゆっくり休んでから出発なさい」  
 男は一瞬戸惑ったが、女に促されその厚意に従うことにした。

    *  *  *  *  *  *  *  

 翌朝、男は礼をいい旅立とうとした。どういうわけか、女はまた引き留めた。余程不健康そうに見えるらしく、しきりに体力を案じせめてもう一日だけ休むよう強く勧められた。本心から心配してくれる女の言葉に従うことにした。

 女は少し出かけると言い、小さな包みを持って家を出た。

 アヒトペルは、子どもたちにすっかりなついてしまい、かわいがられていた。

 しばらくして女は戻ってきた。野菜や果物、粉や油、肉が入った包みを抱えていた。自分の大切な何かを売り払い、市場で買ってきたのは明らかだった。  

 女は決して多くは語らなかった。しかし、兄が戦死してしまい、残された義理の姉が失意と育児の疲れが元で伝染病に負け、亡くなったこと。そして、残された小さな子どもたちを自分が引き取り、育てていることを、ぽつりぽつりと語った。国のために戦死したのだが、国王に対する不満は言わず、かえって、国民のために犠牲になれたことを誇りに思うと語った。  

 やがてまた陽が傾いた。水浴を勧められ、亡くなった兄のものだがといいながら、着替えを用意してくれた。素直に従うことにした。明日の朝は早くから仕事に出てしまうので、ゆっくりしてお好きな時間に出発なさい、と女は言った。旅の途中で食べられるものを用意して、テーブルの上に置いていきますから、ともいった。

    *  *  *  *  *  *  *  

 朝起きると、すでに女の姿はなかった。子どもたちはまだ寝ているようだった。テーブルの上には、女が言ったように食べ物が置いてあった。男は紙を取りだし、お礼の言葉を書き留め銀貨3枚を一緒に置いた。すり切れた布袋を肩にかけ、ネコを抱き上げるとその家を後にした。  

 しばらく歩くと、男は振り返り、しばしその家を懐かしんだ。

    *  *  *  *  *  *  *  

 その夜、新国王は寝所の窓から明かりが点在する街並みを見下ろし、何やら思案していた。なかなか寝付かれず、早朝になり空が白み始めた頃ようやく眠気に包まれた。  

 新国王は、数日前の知恵者の言葉を反芻した。  

 「王よ、この先、末永く国を治めるためには、身分を隠し、誰にも悟られぬよう姿を変えて民の中で3日の間、お過ごしになるといいでしょう。その3日の間に、王はご自分にとって最も貴重で得がたい宝物を得ることになるでしょう」  

 最も貴重で得がたい宝物・・・。  

 新国王はその瞬間、珍しく非理性的な行動に出た。使いの者を、あの女の家に向かわせ、子どもと一緒に謁見しに来るよう命じる手紙を持たせたのだ。いきなり国王からの使者がやって来て、謁見するよう言われたら、さぞかし驚くだろうが新国王は論理的に考えられず、このときばかりは直感的な行動に出てしまっていた。女が謁見に来たとして、果たして何を言おうというのか、自分でも判断がつかない状態だった。  

 やがてしばらくして、女が子どもたちを連れて謁見に来たとの報せがあった。女と子どもたちは、緊張の表情で謁見の部屋の床に跪いていた。国の習わしで、国王に謁見する時は決して国王に対し視線を向けてはならなかった。なので三人とも、顔を下に向けたまま新国王の到着を待っていた。  

 新国王は、謁見の部屋に向かいながら、依然として何を伝えたらいいのか決めかねていた。  

 新国王の到着を待って、謁見の部屋の扉が開けられた。新国王は、女と子どもたちの姿を認め、謁見の椅子に向かった。彼が席に着くと、侍従の者が声を発し、女と子どもたちは深々と頭を下げた。新国王は家臣たちが見守る中、一体自分が国王として目の前の国民に対し、何をいうべきなのか、まだ逡巡していた。  

 そのとき、いつものように新国王の膝の上で眼を閉じて寝そべっていたネコが、突然予想外の行動に出た。新国王の膝から飛び降りると、そのまま駆けだして、床に跪き頭を下げている二人の子どもたちに向かったのだ。さらには子どもたちに擦り寄り、甘えた声を上げた。家臣たちはすっかり驚き、一瞬どのように対応していいか我を失ってしまった。子どもたちも何が起きたのか、分からなかったのだが、全身が白い毛で覆われ、両眼の周りが真っ黒の特長あるネコを見て、思わす声を上げてしまった。  
 「お前はアヒトペル!」  
 男の子が叫んだ。  
 「どうしてお前がここにいるの?」  
 女の子も叫んだ。  
 さすがに女は視線を新国王に向けた。あのみずぼらしい男の姿と、謁見の椅子に座す新国王の姿を重ね見て、ようやく得心がいった。どのような理由で、なんのために身分を偽り、姿を変えて街中に現れたのか、その理由は分かろう筈もなかったが、今、目の前で何が起きているのかは理解することができた。

    *  *  *  *  *  *  *  

 「その3日の間に、王はご自分にとって最も貴重で得がたい宝物を得ることになるでしょう」という知恵者の言葉どおり、新国王は国を治めるという難事業の佳き助け手と出会うことができた。
 国を統べるという難事業を遂行する上で、信頼し心を許せ、親身に接してくれる強い信念の伴侶の必要性を、新国王は認識した。驚愕の表情を浮かべながらも、女は新国王に寄り添い、国と国民のために生涯を捧げる決心をした。

 長い間続いていた、王家と家臣の憂鬱はいつしか雲散霧消し、王国は今もなお、東ヨーロッパの東の外れでひっそりと、しかし平和な国として存続している。  

 それと、ネコのアヒトペルは未だに長寿健在であり、日に何度も欠伸をしながら、新国王夫妻の子どもたちの遊び相手をしている。・・・決まって迷惑そうな顔をしながら。 完 (2019年1月20日改訂)

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2019-01-21 00:55 | 創作への道 | Comments(0)

応募作品第2作目の英訳原稿初稿

Doble Concerto para Bandoneón y Guitarra Astor Piazzolla II. Milonga
いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 福岡に住む、ニュージーランド人の女性に、短編作品2編の英訳を依頼していた。世界中から創作短編作品を募集していると聞いて、応募しようと思ったからだ。応募は日本語のままで良かったのだが、かなり以前から自分の作品を、海外で出版したいという願望があったため、英語でどのような作品に変貌するか試してみたかった。

 翻訳してくれている女性は、アメリカ在住の作家の方に英訳文を見せ、意見を聞きながら仕上げてくれている。第2作目は、サンタクロースの起源についての、私の妄想である。

 ブログには字数制限があるので、欲張って和文と英文の両方を掲載できるかどうか分からない。試してみるが、字数制限にひっかかった場合は、英文だけにして最後部には、オリジナルの作品にリンクを張るようにしたい。


【子どもの夢を壊す物語

「ニューヨーク・サン新聞の記者様、サンタクロースって本当にいるんでしょうか?」

 ・・・たくさんの大人たちが子どもの無邪気なこの質問で始まる作品を読んだことがあると思います。誰だって子どもには夢を持ち続けてほしいと願うものです。なので、子どもの夢を壊さないよう、決まっていうのです。「ああ、サンタクロースは本当にいるんだよ」って。

 サンタクロースについては、いろいろな伝説があります。ですが、誰も本当のことなど知りはしないのです。
 私は知ってるんですよ。でもね、本当のことをいうと、新聞社の記者様がやれ、子どもの夢を壊しただのと書き立てて、悪者扱いするに決まっていますから、黙っていました。

 人間は歳を重ねると、だんだん秘密を持ち続けるのが苦痛に思えるものなんです。私は、紀元前からかれこれ三千年近く生きていますので忘れたくても忘れられないことや、いいたくてもいえないことが実に多くなってしまいました。なので、少しずつ人にいえないような真実を公開しようと決心したのです。

 今日はとりあえず、サンタクロースの発祥の本当のお話をしたいと思います。私のお話を聞けば、子どもの夢を壊すだなんていう非難がましいことはいえないだろうとも思うからです。

 前置きはこれぐらいにしましょう。

 とてもとても古い時代のお話しです。北欧の、しかも北極圏に近い雪深い地方に
赤茶色の石でできた小さな建物がありました。正確なつづりは忘れましたが「サン(聖)・クロース」という名前の学校でした。

 その学校に入学できるのは、先祖代々、ある一族の血統の子どもたちだけだったんです。伝統と格式を重んじ、厳格な教育方針でした。学校制度でいえば、小学校1年生から6年間の授業を受けます。
 いくつもの外国語、いろいろな国の歴史、世界中の地理、植物学その他、大人でも大変と思えるようなカリキュラムでした。しかも、6年目の冬には卒業試験があったんです。

 子どもたちは、それぞれの家から歩いて30分ほどの試験会場に集められました。
試験会場といっても、着いてみたら子どもたちなら誰もが欲しがるようなトナカイの毛で編んだセーター、北極熊の毛皮で作った温かい靴、焼きたてのお菓子、オーロラを凍らせたような飴菓子、白樺の木の皮で作った防寒ジャケットなどがずらりと並んでいたのです。ですから集まった子どもたちは目をみはりました。

 さて、当時の卒業試験の様子をお教えしましょう。まず、試験を受ける子どもたち全員に大きな袋が渡されるのです。麻で編んだ袋で頑丈なのですが少し重いんです。試験官の先生は、欲しいものを袋に入るだけ詰めるように命じます。そして、それを自分の家に持ち帰り、自分のものにしていいといいます。大喜びの子どもたちは、歓声を上げ、ひとつひとつ選んでは袋に入れました。袋が大きくふくらんだことはいうまでもありません。そこで試験官は卒業試験の内容を告げます。

1.村まで歩いて約30分の距離ですが、袋が重いので
 休み休み歩き、きっかり1時間以内に家に戻るように。
 そうすれば、袋の中に入れたものは全て自分のものになる。
2.家に帰る時間が、1時間をちょっとでも過ぎてしまったら
 袋の中身はあっという間に空になってしまう。
3.ソリやスキーを使わずに、必ず自分の力で
 家まで歩いて帰ること。

 たったそれだけの試験内容だったのです。あまりにも簡単すぎて、子どもたちはあっけにとられました。6年間、頑張って勉強したごほうびなのだろうと誰しもがそう考えました。その日は12人の子どもたちが、試験を受けました。

 さて、やがて号令がかかり、子どもたちは喜び勇んで家に向かいました。でも、12月のその時期は雪が深く積もっておりなおも降り続く雪が、子どもたちの足をさらに重くしました。誰もが5分も歩かないうちに、息が切れ手がかじかみ、足の感覚もなくなってきたのです。休み休み、時間を気にしながら家に向かいました。

 村に帰る途中、道ばたに座り込んだおばあさんがいました。歩けなくなったようで、あまりの寒さのために目を閉じていました。 サローヤンという男の子が、そのおばあさんの前を通りました。1時間以内に家に帰らないと、袋の中のものは空になる。そう思ったので、黙って通り過ぎました。 でも気になって振り返ると、雪がおばあさんの肩や頭を覆い始めていました。サローヤンは、その様子を見て引き返しました。そして袋の中から、トナカイの毛で編んだセーターを取り出すと、おばあさんが着られるように手を貸しました。さらに、森でとれた乾燥果実をたっぷり入れて焼いた、まだ温かいフルーツケーキをおばあさんに手渡しました。おばあさんは何もいわず、でもサローヤンを笑顔で見つめました。

 さあ時間がない。サローヤンは雪道を家に向かいました。吐く息が白くなって見えました。雪で視界も遮られました。少し歩くと、小さな男の子と女の子が泣いており、そのそばには、お母さんらしき人が子どもたちを抱きかかえるようにしているのが見えました。お母さんは、すぐそばのお店で買った木彫りのリスを手に抱えていました。三人とも何か悲しそうだなとサローヤンは思いましたが、家まではまだ距離があります。重い袋を背中に担ぎ、三人の前を通りかかりました。

 そのとき、お母さんが子どもたちにいうのが聞こえました。
 「ごめんね。お父さんの薬を買ったので、木彫りのリスはひとつ分しかお金が残っていないんだよ」
 サローヤンの耳には、お母さんの言葉がはっきりと聞こえました。と同時に、袋の中に入っている木彫りのリスのことを思い出しました。一瞬、いくつかの考えが頭の中を駆け巡りました。時間が無い、袋の中が空っぽになってしまう、木彫りのリスをふたつ買ってあげるって約束してたんだろうな、お父さんは病気なんだ。
 ・・・ほんの一瞬のためらいはありましたがサローヤンは袋を足許に下ろし、中からリスを取り出しました。そして三人に近づき何もいわず、お母さんに手渡しました。三人は驚いたまま、感謝の言葉をいうこともできませんでした。

 サローヤンは複雑な気持ちでした。自分の弟や妹、それに父親や母親にあげようと楽しみにしていた袋の中の品物を、すでにいくつか見知らぬ人にあげてしまったからです。

 村に向かって歩くサローヤンに、さらなる試練が何度も待ち受けていました。どういう訳か、見過ごすことのできない人たちが、次々とサローヤンの前に現れるのです。その都度、サローヤンは袋を開けてその中から、その人たちが必要とするものを差し出したのです。子どもでしたから、自分のものがどんどん減っていくことを実感し、徐々に心が重くなりました。でも、その分、背中の麻袋はどんどん軽くなりました。当たり前ですよね。

 やがて自分の家が見えるところまでやって来ました。サローヤンの背中には、空っぽの麻袋がだけがありました。出会う人たちのために時間を使い果たしので、約束の1時間はもうすでに過ぎてしまっていました。
 時間には遅れてしまい、家には何も持ち帰ることができなかったのです。卒業試験は大失敗でした。そう考えると、悲しくて悔しくて、サローヤンは泣きながら家に入りました。

 お父さんもお母さんも、何もいわずサローヤンを迎え入れました。お母さんは背中をさすってくれました。
 「ごめんなさい、みんなに何も持って帰れなくて」
 そこまでいうのが精一杯で、サローヤンは声を上げて泣き出してしまいました。妹が、残念そうに、麻袋の中をのぞきこみました。そして手を入れ、袋の中から何かを取り出すとお父さんに手渡しました。小さな封筒でした。
 お父さんは中を確かめず、サローヤンに手渡しました。怪訝な表情でサローヤンが封筒を開けると、中には小さなカードと一緒に、純金のプレートが入っていました。プレートには文字が刻まれていました。

 「サン・クロース基礎コース修了証」

 そしてカードには、このように印刷されていました。

 「自分のことだけを考える人は自分を失い人のことを思いやる人は自分を見いだす」

 サローヤンは、何が何だか分かりませんでした。でも、お父さんとお母さんは卒業試験の本当の目的をちゃんと分かっていました。サローヤンが、道ばたで出会った人たちを無視するかあるいは自分の大切なものを、その人たちに分けてあげるかをテストされていたのです。

 これで、卒業試験のお話しを終わります。他のほとんどの子どもたちは、袋の中の宝物を時間内に家に持ち帰ろうとして、途中で出会う人たちの困苦を視野の外に追い出しました。でも、重い袋を背負い、降りしきる雪の中を、時間内に家に辿り着くことなどとてもできないことだったのです。ですから時間を過ぎて家に入った途端、袋の中は空っぽになりました。もちろん、袋の中のどこを探しても純金の修了証を見つけることはできませんでした。

 クリスマスにプレゼントを持って来てくれるサンタクロースは、商魂たくましい百貨店の企画部の人たちがたくさんの人がプレゼントを買いに来てほしいと考え、
上手に創り上げた存在なのであって、トナカイのそりに乗った、赤い帽子と洋服のサンタさんなんて、もともと存在していないのです。

 サローヤンはその後、「サン(聖)・クロース」という名の学校で学び続け、無事に高等部まで卒業しました。世界の何カ国かで実地訓練を受けて、正式な資格の認定を受けました。なんの資格か知りたいですか?

 世界中で、苦難に遭い苦しむ人や、弱り果てた人たちが一番必要とする大切なものを無料で届けているんです。12月のクリスマスの時期だけではありません。
真夏の酷暑のときだって、早朝や深夜だって、いつでも人が望むときには、駆けつけてくれるんです。

 世界中でたくさんの「サン(聖)・クロース」卒業生が今でも毎日、熱心に働いているんです。

 これが本当のサンタ・クロースの姿なんですよ。でも、彼らは人には見えないように、そっと訪れてそっと帰ってしまうので、誰も見たことがありません。でも確かにサンタ・クロースは存在しているんです。

 さて、事実を語ることで私は子どもたちの夢を壊してしまったでしょうか?今どきの子どもたちは、大人よりずっと世の中の仕組みをよく知っているようですよ。

 もしかしたら、皆さんの周りで普通に暮らしている人の中に「サン(聖)・クロース」卒業生がいるかもしれません。私?私のような寒がり、暑がりのねぼすけが
そんな厳しい卒業試験に合格する訳がないでしょう? (2014-01-13 01:42


Translation -Short Stories- タイトルは未訳

“Dear Editor of the New York Sun, Is there a Santa Claus?”

…I am sure many adults have read the story that starts with this innocent question from a child. Everyone hopes that children will hold on to their dreams, so there is almost a conspiracy not to destroy the dreams of children. “Yes, there is a Santa Claus”.

There are many legends about Santa Claus. However, no one knows the truth. I know. I have kept quiet because I know I’ll be treated as the bad guy and written up by newspaper reporters as the person who destroyed the dreams of children.
As people get older, it gradually becomes painful to hold on to secrets. I have been alive since before the time of Christ, for nearly 3000 years, so there are things that I can’t forget even if I wanted to, and so many that I can’t talk about even if I wanted to. So I have decided to gradually tell people the truth.
Today, to start with, I think I want to tell you the real story behind the origins of Santa Claus. Because, I think, if you listen to me you won’t be accusing me of destroying the dreams of children.

That’s enough of a preface.


It is a story from a very, very old time. In Northern Europe, actually close to the deep snowy regions of the Arctic Circle, there stood a little reddish brown stone building. I forget the correct spelling, but it was a school named “Saint Claus”. The only pupils who were allowed to enter were those whose ancestors were of a certain bloodline. The education policy was very strict, with heavy emphasis on tradition and social status. The school system was the equivalent of grades 1 to 6 of elementary school. The curriculum would have been hard for an adult – several foreign languages, the history of various countries, the geography of the world, study of plants etc. And in the winter of the 6th year, there was a graduation examination.

The children walked about 30 minutes from their homes to gather at the examination place. When they got there it was full of things that any child would want – sweaters knitted out of reindeer fur, boots made of polar bear hide, freshly baked cookies and cakes, candy that looked like the aurora had frozen, warm jackets made of silver birch bark, and much, much more. The children couldn’t take their eyes away.
Now, let me tell you about the graduation examination. First, each child who was to sit it was given a large sack made of heavy linen. The teacher who was the examiner told them to fill their sacks with whatever they liked from the things there. And they could take it home and it would be theirs to keep. The children gave great shouts of delight and started choosing things to put in their sacks. The sacks gradually grew fuller and fuller. Then the examiner explained the content of the test.
  1. Although they were about 30 minutes’ walk from the village, no doubt with heavy laden sacks they would take rests of the way back. Even so, they only had one hour to get to their homes. If they succeeded in that, the contents of the sacks were theirs to keep.
  2. If they took even a little longer than the one hour, the contents of the sacks would disappear in to thin air.
  3. The use of a sleigh or skis was forbidden. They must walk home by themselves.
That was the test. It seemed so simple and easy that the children were taken aback. They thought it must be a reward for having studied so hard for 6 years.
That day 6 children were taking the examination.
The start signal sounded and the children started for home, full of joy, However, in December, the snow is deep, and was still falling. The children’s feet got heavier and heavier. Everyone was out of breath after just a few minutes, and their hands were numb. And they started to lose feeling in their feet. Worrying about the time, they took short breaks as they headed for home.

On the way back to the village, an old woman was sitting by the side of the road. It was so cold she had closed her eyes. A boy named Saroyan passed by in front of her. “I must get home within the hour, otherwise everything in the sack will disappear”. His mind was full of these thoughts, so he walked past the old woman. But, worried, he glanced back at her and saw the snow starting to build up on her shoulders and head. When he saw that, Saroyan turned back. From his sack he pulled out a sweater knitted from reindeer fur, and helped the old woman to put it on. Next he gave her a cake still warm from the oven, baked with dried fruits gathered in the woods. She didn’t say anything, but smiled up at Saroyan.

Time was running out. Saroyan started off again along the snowy road to his house. His breath was white. The snow blocked his field of vision. After walking a short distance he saw a small boy and girl crying, while someone who appeared to be their mother hugged them. The mother was holding a squirrel carved of wood she had bought at the shop there. Saroyan thought how sad they looked, but he still had a way to go before his home. He lifted up the heavy sack onto his back again and walked past them. As he did so, he heard the mother say to the children “I’m sorry. We had to buy medicine for your father, so there was only enough money left over to buy one carved squirrel.”

Saroyan could hear clearly what the mother said. At the same time he remembered the carved wooden squirrel in his sack. In that instant, many thoughts went through his head. There’s no time, the sack will be empty, she must have promised to buy two squirrels, their father is sick. After only a brief hesitation, Saroyan put his sack down, and took out the squirrel. He approached the family and silently handed it to the mother. The three of them were so surprised that they couldn't even say thank you.

Saroyan’s feelings were complicated. Already many of the things in his sack that he had been looking forward to giving to his parents and younger brothers and sisters had been given away to strangers. As he continued to walk towards the village, many further challenges awaited Saroyan. For some reason, he kept meeting people he couldn’t ignore. Each time he opened his sack and gave them what they needed. He was still a child, so his heart grew heavier and heavier as he realized that he was giving away his things. Which also meant that the heavy linen sack on his back was of course getting lighter too.
Finally he got to the place where he could see his home. On Saroyan’s back the linen sack hung empty. He had used up the time with each person that he met, and he was over the one hour limit. Not only was he late, but he wasn’t able to bring anything home. He had failed his graduation examination badly. When he thought about that he was sad and disappointed, and Saroyan started crying as he entered his house.

His mother and father welcomed him without saying anything. “I’m sorry, I wasn’t able to bring you anything”. That was all he was able to say before he started crying in earnest. His younger sister looked sadly into the sack. Then she put her hand in and pulled out something and handed it to her father. It was a small envelope. Her father handed it to Saroyan without opening it.
Saroyan opened the envelope with a wary expression. Inside there was a small card along with a pure gold plate. Some letters were etched on the plate. “Certificate of Completion for the Saint Claus Basic Course”. And on the card it said; “People who only think of themselves will lose themselves. People who think of others will find themselves”.

Saroyan didn’t understand what was going on. But his mother and father knew the real purpose of the graduation examination. They knew that he was being tested to see if he would ignore the people he met by the roadside, or if he would be willing to share his precious things with them.
Here end the story of the graduation examination. Most of the other children tried to take all the treasures in their sacks home within the time limit, and so ignored the people they came across on the way home. But to carry such heavy sacks within the time limit was not possible, so the instant they entered their homes everything in the sacks vanished. Of course no matter how hard they searched they couldn’t find any gold certificate plates.

The Santa Claus who brings lots of presents is of course a clever creation of the aggressive salesmanship of department stores, trying to get lots of people to come in and buy presents, and the Santa in red clothes and hat, riding on a sleigh pulled by reindeer never existed in reality.

After that, Saroyan continued to study at the school called “Saint Claus”, and graduated the high school division. After receiving training in many countries around the world, he was awarded the official qualification certification. And do you want to know what that qualification is?

It is to deliver to people who are weak or suffering anywhere in the world the thing they need the most at the time they need it most. This is not only at Christmas in December. Even in the extreme heat of summer, or in the early morning or in the middle of the night, wherever people need help they will help. Throughout the world there are many graduates of “Saint Claus” school working hard every day even now.

This is the true form of Santa Claus. But they visit and go home again quietly so that no one notices them, which is why no one has ever seen them. But Santa Claus is real.

Maybe there is someone around you living a normal life who is actually a “Saint Claus” graduate. Me? I hate the cold, and the heat, and always want to sleep in. There`s no way I could possibly pass that graduation examination, is there?

 おお、なんとか和文と英訳文の両方を保存できたようだ。やれやれであるが、こんな長文を目の前に突きつけられる読者の方には、とんだ災難で申し訳なく思っている。
いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


by hirune-neko | 2018-12-28 01:01 | 創作への道 | Comments(2)

さらにもう一歩前進・・・まだ懲りずに多言語出版

Astor Piazzolla " Tristeza De Un Doble A "

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 今日は朝からちょっとしたアクシデントに見舞われた。同居している95歳の義母の銀行口座を確認したところ、厚生年金は振り込まれているものの、遺族年金が入金していない。あちこちに電話したのだが要領を得ず、最終的にやっとつながった年金ダイヤルで、以前の古い口座に振り込まれていることが判明した。年金ダイヤルの担当者の方が、本人確認をしたいというので、ベッドの中の義母と電話を代わった。名前や生年月日、住所などを訊かれたが、意外なことに義母はすらすらと答えた。頭はまだまだしっかりしているようだ。それにしても、やれやれの午前中だった。

 夕方から外出したが、途中から雨が降り出し、ファミリーマートでビニール傘を買う羽目になった。結局合計で1万歩以上を歩くことになった。体力を消耗したせいなのか、雨に濡れたせいなのか分からないが、またクシャミが止まらなくなってしまった。やれやれである。

 帰宅したら、私の短編作品「彼方から甦る記憶」を英訳してくれている、ニュージーランド人女性からメールが届いていた。文章全体の主語を「I」に統一して修正し、さらにアメリカの作家(氏名・年齢・性別不詳)が、細かく手直ししてくれた文章が出来上がったのでファイルを送る、という内容だった。

 残念なことに、翻訳された英文のクォリティの善し悪しは判断できない。しかし、オリジナルの日本語文章を作成した者として、整合性の無い訳と思われる部分は指摘できると思う。いずれにしても、文章としては、おそらくかなり作品レベルになっているのではないかと思っている。

 じっくり読んで、指摘したい部分をメールで送り、確認をお願いしようと思っている。

 以下は、推敲して修正してもらった第3稿である。前回掲載した第1稿よりは違和感が少なくなっていると感じている。以下に、その第3稿を紹介させていただくので、興味がおありになる方は、ご一読をお願いしたい。

 多言語出版だなんて、最終的に一体何を目指しているのか私自身にも判然としない部分である。しかし、チャレンジするようにという促しを心に感じるので、いつかその意味が理解できる日が来るのだろうと思っている、実に呑気な話ではある。

 少々長い文章だが、多言語出版に向けての第一歩の記録として、掲載させていただく。(オリジナル日本文:創作イメージ「彼方から甦る記憶」 2013/10/12創作  https://hiruneneko.exblog.jp/20831208/



英訳原稿:第3稿
Translation for Mr. Hirune-Neko –Short Stories-

彼方から甦る記憶 A Memory from Long, Long Ago

In the early morning, I awoke from a shallow sleep, and as I opened my eyes, a small sigh escaped me at the thought of another day starting. Recently I had begun to feel that every day was just a dull, monotonous repetition of the one before and I wondered how long this would continue.

Several years ago I had already passed the average life span for a woman. Other than official letters from the city office, there were never any personal letters delivered, never anything in the mail box other than the occasional catalogue. Other than wrong numbers, the phone never rang, and it had been a long time since a card had arrived on my birthday.

In the distance the faint sounds of the city could be heard. Even my morning walks had become rare, and I could feel the distance between the world and I widening. There was no one to pay any attention to a useless old lady.

After retiring from primary school, I had thought about moving outside the city. But I was involved in volunteer work so there was transportation to take in to consideration, and before I realized it, I was still living in the centre of town.

More and more I was remembering things that had happened a long time ago. Even as a child, I had no memories of my father. What I remembered was how tired my mother looked after working long hours…then I was studying education at the university…and how happy my mother had looked when I landed a job at a private primary school in the city. That moment must have been the reward for the hard work of raising me alone, I thought.

Few chances for love, and then a marriage that was cut short by my husband`s death. My mother never showed her worry for me with words, only by her expression. Even as she was drawing her last breath, she gripped my hand tightly and looked at me with tears in her eyes but never said a word as she passed away. I wondered what she had been trying to tell me. Sometimes I think about that even now, but I still don`t know. Maybe I can`t understand my mother`s feelings because I have no children of my own.

Forcing my tired body to move, I went down to the mail box by the entrance and was surprised to see a letter there. It had “Invitation” written on the envelope. Going back up in the elevator I turned the envelope over to see the sender, but didn`t recognize the name. Opening it I saw that it was an invitation to an award party. I knew well the name of the award that was given by the country to people who had excelled in the field of education. Why would such an invitation come to me, so many years after retiring? Someone must have made a guest list from an old list of names, and my name got mixed in by mistake, I decided.

There was a single handwritten card in the envelope too. It said, “I really hope you can attend”, and was signed by the awardee who was also going to be giving a lecture after the presentation. It certainly wasn`t the name of someone I had taught. However, strangely enough, I felt compelled to accept the invitation.

* * * * * *
The early autumn day was sunny. It was the first time to go out somewhere in a long time, and it felt good.

The ceremony was being held in a concert hall in the city. When I showed my invitation at the reception, the person there showed me to my seat – right in the middle of the very front row! Even though I can still see well and I don`t use a hearing aid…

The speaker went up on the stand. He looked like a true educator, with a kind expression. “Intellectual Training and Character in Modern Education” was the title of the lecture, but he didn`t seem to be an elite scholar. Rather I could feel something that suggested he had struggled in his life. The big hall had maybe 2000 seats or more, and when I turned round, it seemed that most of them were occupied.

Towards the end of the lecture, there were several seconds of silence. It may have been my imagination but it seemed he was looking to see if I was present, before starting to talk again.

“When I was a child, my mother and I were very poor. Because my mother was often sick, I wasn`t able to attend school. But I wanted to know what kind of a place school was, and sometimes went to the local primary school grounds. I would peep in the windows of the classrooms. I could see the children around my age looking at the teacher and listening to the lessons.

One day as I was watching a class from outside the window, the teacher`s eyes met mine. I froze and couldn`t move, but rather than getting angry, the teacher smiled at me. Then she directed the students in the back to open the window. It was a cold day at the beginning of winter, so the students looked dubious, but thanks to that I was able to not only watch the lesson, but listen to it too.

As you might expect, I found it hard to go to the school after that, but I really wanted to listen to that teacher`s class again, so a few days later I was back under the window. It was a very cold day, but at the teacher`s directions the window was opened a little. Gradually, while talking to the students, the teacher moved to the back of the classroom. And, when she got to the open window, she smiled at me, and unnoticed by the students, slipped out to me a paper bag she had prepared ready.

When I got home and opened the bag, inside I found several textbooks, as well as some chocolate, candies, and homemade cookies. There was a card as well. This is what it said:
`Tribulation worketh patience; and patience, experience; and experience, hope. (From the Bible)
From your teacher, Hannah Wenz`”.

As I was listening, I slowly lowered my face. I wasn`t able to see the people for my tears. During the talk I had been thinking, “Maybe…?” Now I was sure. That little boy under the window had grown up to be a great educator. I had no way of knowing how he had accomplished it. I could easily imagine how not giving up due to troubles would have taken extraordinary effort.

“I`d like to introduce you to a true educator – my teacher, Hannah Wenz”.

I heard my name and came back to myself. As I was guided to the stand to loud applause, he stood and came to meet me. We couldn`t hold our emotions back and hugged each other hard.

“These are the textbooks that were in that paper bag”. With an arm around my shoulder, he held up several tattered and worn textbooks to show the audience.
“The chocolate and cookies only remain in my memory”. Laughter from the audience.

Thinking it was too bright for my age, I now regretted choosing a plain dress over a brighter one.

Beyond my tears, I felt I could see a rare smile from my mother.


いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2018-10-16 00:12 | 創作への道 | Comments(0)

多言語出版Part2〜最初の関門で日本語の奥深さを再認識した

Bill Evans - The Peacocks

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 一昨日、短編作品の英訳第1稿をブログで紹介させていただいた。私自身はバイリンガルでもないし、英語を深く勉強した訳でもない。したがって、十分に読解はできない。しかし、オリジナルの日本文は自分で作ったので、それがどのように英語に訳されているかは、なんとなく理解できるという程度だ。

 一番気になったのは、英訳文の主語が「I」と「She」の混在で訳されている点だった。作者の意図としては、孤独な老女の内面に去来する様々な心情を、独白の形で文章化し、読者に直接その心象風景と対峙してほしかった。したがって「私は・・・」という表現で、主体者を特定せず、主語の無い文章を多用することにより、自然に主人公である老女の内面世界を訪れてほしかった。

 しかし、文章には必ず主語が含まれているラテン語系の人たちにとっては、無理矢理でも主語を付け加える必要性を感じてしまうのだろう。老女の独白、感情の吐露全てに「She」という主語を追加して翻訳した。勿論、中には明確に主人公が意思を表現している部分があり、そこでは「I」が使用されている。
 そこで今日、私は翻訳者に以下の内容のメールを送った。本件に関するやりとりをご紹介するので英語あるいは多言語出版に興味のある方は、是非参考にしていただきたい。


【昼寝ネコ→翻訳者】
翻訳してくださった文章を何度か読みました。

ひとつ意見を伺いたい点があります。
日本語の文章には、主語が無い場合が多いのですが、
英語や諸外国の言語には、主語が明確に存在します。

今回翻訳していただいた作品は、主人公の老女の
独白というスタイルで書かれていますので、
大部分で主語が省略されています。
英訳文では、「she」を主語にしてほとんどの
文章が作られており、一部「I」が主語になっています。

翻訳される上で、難しいポイントだったのでは
ないかと思っています。
その点についてのご意見をお尋ねしたいと思います。
また、アメリカの作家の方がどのような意見をお持ちか
興味がありますので、いつでも結構ですので
教えてください。

 同日、翻訳者から以下の内容で返信があった。

【翻訳者→昼寝ネコ】
 はい、昼寝ネコさんにそれについて聞こうと思っていました。(作家の)友達もそれが良くないと言いました。ですから、昼寝ネコさんの感覚に合わせます。「ハンナさん(主人公の老女)」が自分で語ってて"I"なのか、第三者が語ってて"she"なのか、きめないといけないですね。日本語はその辺をあいまいに書けますから読んでいる人によって違うかもしれません。どちらがいいですか?英語ではあいまいにはできないのが残念です。*( )内補足説明は昼寝ネコによる。

 この返信を読み、さすが作家志望の友だちは、いい感覚をしていると安堵した。そこで、ストレートに以下のメールを送信した。少々長いが、そのまま転記させていただく。

【昼寝ネコ→翻訳者】
確認を有難うございました。

ご質問の件に関し、私の意見をお伝えします。

主語が「I」の場合は、読者を主人公の
内面世界に引き込むことができます。

主語が「She」の場合は、読者と主人公の間に
「客観的に捉える」という距離ができてしまいます。

作者の意図としては、主人公の女性の内面に
閉じ込められた葛藤や倦怠感、過去の暗く重い記憶
などに、読者が直接対峙してほしいと希望しています。

もし必要であれば、なるべくI/my/me/mineという言葉を
文章中に含め、読者が誰の心理状態を描写しているかを
理解しやすい表現に修正することもできます。
同時に、全ての文章を、私は~と思う、私は~と感じた、
などのように単調な同じパターンの文型にするのではなく
バリエーションを持たせ、なんとか表現に工夫を加えた
日本語表現を考えてみたいと思います。
以下の例文を参考にしていただき、翻訳修正の可能性について
アメリカの作家の方と一緒に、検討していただけないでしょうか。

以下にいくつかの修正文を例示してみます。

(例1
・オリジナル文章
朝を迎え、浅い眠りから目覚めると
また新しい一日が始まったのかと、軽いため息が出る。
・修正文章
朝を迎え、浅い眠りから目覚めると、
私の新しい一日は、いつものように
軽いため息とともに始まる。

(例2
・オリジナル文章
いつまでこの単調な繰り返しの日々が続くのか・・・
最近はそう感じるようになっていた。
・修正文章
いつの頃からか、私の心の中には、繰り返しの
単調な日々がもたらす、けだるさが拡がっていた。

(例3
・オリジナル文章
数年前には、すでに女性の平均寿命を超えてしまっていた。
・修正文章
数年前に、私の年齢はすでに女性の平均寿命を超えてしまっていた。

お手数をおかけして申し訳ありませんが、ご検討
くださいますよう、宜しくお願いします。
(転記修了)


 今日の以上のやりとりをしながら、改めて日本語は世界で最も難解な言語だ、という評価は正しいと思った次第だ。ほとんどの言語には主語が不可欠のようだ。しかし、日本語には主語の無い文章は日常的にたくさん存在する。

 自己の主張、相手の特定などを避け「角の立たない」表現や「婉曲的な表現」によって、阿吽の呼吸で人間関係を維持するための知恵なのだろう。勿論、英語にも婉曲表現が存在する。しかし、日本語の行間に存在する意味の幅と深さには、日本人独特の感性と国民性が湛えられているのではないだろうか。

 日本語の「行間を読む」と、英語の「Read between the lines」の構造は酷似していると思うのだが、その深さと幅に至っては、やはり国が異なれば、それぞれに異なるのではないだろうかと思った次第だ。日本的なメンタリティを、異国の読者が同じ感性で共感するとは思えない。おそらくは、起承転結の意外性でストーリー展開を追う作品の方が、遙かに理解されやすいだろうと感じている。
 
 そして結論になるが、私は人間の持つ心の様々な表情に興味を持っている。感動、平安、癒し、悲哀、失望・絶望、憎悪、葛藤、焦燥、落胆・・・あらゆる感情体験を乗り越えて、収束する方向を予知し、進むべき道を暗示したいと思っている。

 国籍は違っても、人間である以上は共有し合える領域が存在すると思っている。正義感だったり信念だったり、寛容さ、慈愛、思いやり、正直さ、誠実さ、勇気かもしれない。国境を越え、地平線や水平線をも越えて、読者の心に届くメッセージを、短編作品の形でお届けできれば、それにまさる喜びは無い。

 読了語に、勇気や励ましを心の中で感得し、そのまま育ててくだされば、それが私の本望である。

 そんな訳で、私の多言語出版の試みは、まだスタートラインに立ったばかりではあるが、おそらく多言語出版の鍵は、まずはクオリティの高い英訳文の作成だという確信がある。その意味で、日本語に堪能な女性と、その友人の作家というネイティブの協力者を得ることができて、いいスタートを切れたのではないだろうか。

 進展があったら、その都度ご報告させていただきたい。あれこれに興味が尽きず、本当に困った人間だと自分でも思っている。


いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2018-10-04 23:50 | 創作への道 | Comments(0)

多言語出版への現実的な第一歩を踏み出した

Astor Piazzolla " Tristeza De Un Doble A "

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 2作品の翻訳をお願いしていた方から、短い方の作品の英訳が終わったと連絡があった。相前後して、翻訳原稿がWordファイルで送られて来た。ニュージーランド出身の彼女からのメールには、以下のように記載されていた。そのまま転記するが、とても外国人の書いた文章とは思えないのではないだろうか。

 最初の話の翻訳を別のメールで送りました。同時にアメリカにいる作家の友達にも送って、『翻訳より話し、ストリー的なことスタイルのことを見てもらっています。
 昼寝ネコさん(実際は人間名)も是非訂正してください。言葉の翻訳はわたしができますが、作家ではありませんからね。

 2つ目のサンタクローズの話は半分ぐらいできています。出来上がったら送りますね。よろしくお願いします。」

 彼女は日本の大学院で修士号を取得しているそうだ。勿論、日本語でだ。日本語から英語へは正確に訳せるとは思っている。しかし、文学的微妙な表現は果たしてどうなのか、という一抹の不安はあった。しかし、メールに書かれているように、アメリカにいる作家に推敲をお願いしてくれているという。とても有難い配慮だ。

 届いたばかりの英訳原稿を、そのまま以下に掲載させていただく。これがネイティブの作家の手によって、どのような変貌を遂げるか、楽しみである。

 時間がおありになる方は、まずオリジナルの日本語作品をお読みになり、その後、下記の英訳文をお読みいただくと、興味深いのではないだろうか。さて、この先、果たして多言語出版が実現するかどうか、引き続き可能性を追求したいと思っている。

 ざっと目を通してみたが、日本語では主語の無い文がざらにある。主語が無くても、誰の心理を描写しているか、誰が語っているかが推察できるからだ。英語の場合は、基本的に主語の無い文章はほとんど無いのではないだろうか。主語の無い命令文には、最初に「You」が省略されているのだし。・・・この作品の場合、主語の無い文章の主語は「私」である。しかし翻訳者は主人公が女性なので、「彼女」という主語を挿入し、主人公を客観視している。改めて、日本語が世界の言語で一番難解だという説は、その通りだと思っている。


創作イメージ「彼方から甦る記憶」・オリジナル日本語
 2013年10月12日の作品

【英語への翻訳文第1稿】
彼方から甦る記憶〜A Memory from Long, Long Ago


In the early morning, she awoke from a shallow sleep, and as she opened her eyes, a small sigh escaped her at the thought of another day starting. Recently she had begun to feel that every day was just a dull, monotonous repetition of the one before and she wondered how long this would continue.

Several years back she had already passed the average life span for a woman. Other than official letters from the city office, there were never any personal letters delivered, never anything in the mail box other than the occasional catalogue. Other than wrong numbers, the phone never rang, and it had been a long time since a card had arrived on her birthday.

In the distance the faint sounds of the city could be heard. Even her morning walks had become rare, and she could feel the distance between her and the world widening. There was no one to pay any attention to a useless old lady.

After retiring from primary school, she had thought about moving outside the city. But she was involved in volunteer work so there was transportation to take in to consideration, and before she noticed it, she was still living in the centre of town.

More and more she was remembering things that had happened a long time ago. Even as a child, she had no memories of her father. What she remembered was how tired her mother looked after working long hours…studying education at the university…and how happy her mother had looked when she landed a job at a private primary school in the city. That moment must have been the reward for the hard work of raising me alone, she thought.

Few chances for love, and then a marriage that was cut short by her husband`s death. My mother never showed her worry for me with words, only by her expression. Even as she was drawing her last breath, she gripped my hand tightly and looked at me with tears in her eyes but never said a word as she passed away. I wondered what she had been trying to tell me. Sometimes I think about that even now, but I still don`t know. Maybe I can`t understand my mother`s feelings because I have no children of my own.

Forcing her tired body to move, she went down to the mail box by the entrance and was surprised to see a letter there. It had “Invitation” written on the envelope. Going back up in the elevator she turned the envelope over to see the sender, but didn`t recognize the name.

Opening it she saw that it was an invitation to an award party. She knew well the name of the award that was given by the country to people who had excelled in the field of education. Why would such an invitation come to me, so many years after retiring? Someone must have made a guest list from an old list of names, and my name got mixed in by mistake, she decided.

There was a single handwritten card in the envelope too. It said “I really hope you can attend”, and was signed by the awardee who was also going to be giving a lecture after the presentation. It certainly wasn`t the name of someone she had taught. However, strangely enough, she felt compelled to accept the invitation.

The early autumn day was sunny. It was the first time to go out somewhere in a long time, and it felt good.

The ceremony was being held in a concert hall in the city. When she showed her invitation at the reception, the person there showed her to her seat – right in the middle of the very front row! Even though I can still see well and I don`t use a hearing aid…

The speaker went up on the stand. He looked like a true educator, with a kind expression. “Intellectual Training and Character in Modern Education” was the title of the lecture, but he didn`t seem to be an elite scholar. Rather she could feel something that suggested he had struggled in his life. The big hall had maybe 2000 seats or more, and when she turned round, it seemed that most of them were full.

Towards the end of the lecture, there were several seconds of silence. It may have been her imagination but it seemed he was looking to see if she was present, before starting to talk again.

“When I was a child, my mother and I were very poor. Because my mother was often sick, I wasn`t able to attend school. But I wanted to know what kind of a place school was, and sometimes went to the local primary school grounds. I would peep in the windows of the classrooms. I could see the children around my age looking at the teacher and listening to the lessons.

One day as I was watching a class from outside the window, the teacher`s eyes met mine. I froze and couldn`t move, but rather than getting angry, the teacher smiled at me. Then she directed the students in the back to open the window. It was a cold day at the beginning of winter, so the students looked dubious, but thanks to that I was able to not only watch the lesson, but listen to it too.

As you might expect, I found it hard to go to the school after that, but I really wanted to listen to that teacher`s class again, so a few days later I was back under the window. It was a very cold day, but at the teacher`s directions the window was opened a little. Gradually, while talking to the students, the teacher moved to the back of the classroom. And, when she got to the open window, she smiled at me, and unnoticed by the students, slipped out to me a paper bag she had prepared ready.

When I got home and opened the bag, inside I found several textbooks, as well as some chocolate, candies, and homemade cookies. There was a card as well. This is what it said:

`Tribulation worketh patience; and patience, experience; and experience, hope. (From the Bible)
From your teacher, Hannah Wenz`”.

As I was listening, I slowly lowered my face. I wasn`t able to see the people for my tears. During the talk I had been thinking “maybe…?”, and now I was sure. That little boy under the window had grown up to be a great educator. I had no way of knowing how he had accomplished it. I could easily imagine how not giving up due to troubles would have taken extraordinary effort.

“I`d like to introduce you to a true educator – my teacher, Hannah Wenz”.

I heard my name and came back to myself. As I was guided to the stand to loud applause, he stood and came to meet me. We couldn`t hold our emotions back and hugged each other hard.

“These are the textbooks that were in that paper bag”. With an arm around my shoulder, he held up several tattered and worn textbooks to show the audience.

“The chocolate and cookies only remain in my memory”. Laughter from the audience.

Thinking it was too bright for my age, I now regretted choosing a plain dress over a brighter one.

Beyond my tears, I felt I could see a rare smile from my mother.

 ここまでお読みくださり、大変お疲れ様である。心よりお礼申し上げる。


いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2018-10-02 23:58 | 創作への道 | Comments(0)

久しぶりの外食は超高級レストランだった

Remembering the Rain -bill evans

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 月末はいつもひと区切りである。勝手に命名した「月越しの祭り」を、独り無言で祝うことがある。

 今年は夏からずっとハードな生活だったので、仕事以外では久しく外食していなかった。それで、今日は慰労を兼ねて外食することにした。

 選んだのは、イトーヨーカドーの3階にある「サイゼリア」というレストランだった。キノコのスープと、品切れのシェフサラダの代用のワカメサラダ、それとハンバーグステーキだったが、値段の割にはそこそこだった。超高級ではないものの、気分転換になった。

 今日は午前中から原始的に一件ずつ振込作業をした、先月は数字を見間違えて、6円少なく振り込んでしまった相手があり、今月の振込金額にその分を加算して振り込んだ。何度も確認しながらの作業なので、集中した反動で脳内血液量が低下し、頭が重くなってしまった感じだった。今度こそは、一括振込のやり方をマスターしようと、毎月、月末の度に思っている。

 食後、ふらつく頭と足で、なんとか合計8000歩を歩こうと、リュックサックを背負いながら歩いた。いつもそうなのだが、およそ20分程度を歩くと、脳内の圧迫感が消える。やはり歩くのは健康に寄与するというのは本当だと思う。歩くのはかなり習慣化してきたので、少し筋肉トレーニングをメニューに加えたら、さらにいいのだろうと思っているが、まだ思っているだけである。

 今日は改めて、自分がもしかしたらひょっとして、病的なのではないだろうかと思うことがあった。

 何年か前に、自分の書いた短編作品を多言語出版したいと思ったことがある。取り憑かれたように、多言語出版専用サイトまで作り上げたのだが、その後はそれどころではなくなり、放置状態だった。ところが、ふた月ほど前に世界中から短編作品を公募しているコンテストがあると聞き、すでに3作品を応募した。その中の2編を、ニュージーランド出身で日本語に堪能な女性に英訳してもらっていることは、先日ブログに書いている。

 コストとリスクを考えれば、紙の本の出版ではなく、Amazonが世界中で展開しているKindle本・電子書籍が最適だろう。つまり、海外の出版社を探して交渉し、何カ国語かで出版するのではなく、ここ日本で日本の出版社として、Kindle本を多言語出版するという構想を、突然身近に感じてしまった。

 伏線はあった。Facebook友だちで、昨年だったか他界してしまった日本人男性は、カルロス・ガルデルの熱狂的なファンで、ピアソラの大ファンでもあった。彼は、音楽的な強い影響を受けて南米に移住してしまい、晩年はコロンビアのボゴタで人生の最期を迎えた。最近、その彼のお嬢さんが私の記事にイイネの足跡を残してくれた。すぐにメッセージを送り、多言語出版の構想を説明し、意見をお願いした。すると、南米のスペイン語とヨーロッパのスペイン語の違いについて、説明してくれた。コロンビア生まれなのだが、子どもの頃から日本人学校に通っていたようで、いわゆるバイリンガルである。仕事も日本企業のために、日本語〜スペイン語の翻訳をしているという。

 翻訳のクォリティは別として、英語とスペイン語に関しては、心強い味方を確保できた気になってしまっている。しかし果たして、日本の出版社が世界に向けて、多言語でのKindle本の出版ができるのだろうか、という疑問に行き当たった。

 そこでAmazonに電話して質問してみた。すると、そのような案件は電話質問を受け付けていないので、kindle direct publishingという部署に、メールで問い合わせてほしいと言われた。早速、メールで質問を送ったが、まだ回答は無い。

 さて、もし可能性が開けたとして、多言語出版とは何カ国語になるのだろうか。インターネットが普及し、購買層がそれなりに存在している必要があるので、リサーチが必要だろうと思う。ただ、そのときに閃いたのは、「7」という数字だった。

 つまり、日本語、英語、スペイン語と、さらにもう4カ国語だ。

 現在の仕事とはなんの関係も無いのに、いきなり多言語でKindle出版するところに飛躍してしまっている。病的な妄想・閃きであることは重々承知している。しかし、その時に、濃い霧の彼方に仄かに見えたのは、現在日本国内だけで販売しているグリーティング絵本「大切なわが子へ」の多言語出版である。また妄想飛躍が始まったと思われるだろう。

 何年も前のことになるが、つくばの産婦人科クリニックの院長から相談があった。フランス人夫婦が出産し、絵本をプレゼントするのだが、日本語を理解しないので、概要だけでもフランス語で作ってくれないか、という依頼だった。そこで私はすぐに、フランス在住のある日本人女性に相談した。

 その女性が、仏訳した絵本の本文をフランス人男性に読ませたところ、その男性は感動して涙を流したという。同じようなケースで、英訳文を作ったことがあったが、文章のせいか、あるいは読んだ人の感性のせいか、反応が鈍かったケースもある。

 これまでのいろいろな経験が、一本の糸として紡がれ、名入り絵本の多言語出版が視野に飛び込んできたという訳だ。

 日本の製本職人の手による、工芸品レベルのオーダーメイド絵本である。技術的には、右閉じ・右開き、左綴じ・左開きという複数仕様のカバー、表紙、製本に対応しなければならないが、決して夢物語ではないような気がしている。

 こんな感じで、ちょっとしたことからでも、具体的なイメージが浮かんでしまう。本当に、もしかしたら私は病的な要素を持っているのではないかと、しばし考え込んでしまった。しかし、良く考えてみたら、創作ストーリーだって、ちょっとしたイメージ、一枚の画、一枚の画像、ひとつのメロディーからストーリーをイメージするのだから、そう考えたら、仕事上であれこれイメージが浮かんでも、自分にとってはごく自然なことだと居直ったりもしている。

 ・・・今日は、こんな展開になるとは思っていなかった。短い文章で終わらせるつもりだった。これも、何かの閃き・促しなのだろうと思う。

 おめでたいと思う反面、自分らしいとも思っている。


いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2018-09-29 01:17 | 創作への道 | Comments(2)

年齢不相応に、夢は果てしなく広がっているようだ

Stan Getz & João Gilberto - Para Machuchar Meu Coração

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 夜の時間帯に歩いていると、無灯火の自転車や黒っぽい洋服の人が、すぐ目の前まで来て、やっと気づくことが多くなっている。少々危険だなと思い始めている。昼間はなかなか時間を確保できず、ついつい夜のウォーキングになってしまっている。

 それでも、8000歩を歩く習慣は・・・週に5〜6日ではあるものの、もう一ヶ月以上は続いているのではないだろうか。ほんの少しではあるものの、身体に芯ができてきたように感じるし、気力が途切れないで、前向きに集中して取り組めるようになってきている。

 今日は遅延中の製作作業と、すっと取り組んできたが、もう深夜なのでここまでにしておこうと思う。脳内クールダウンの時間にしよう。

 既視感ならぬ、予知夢が見えるような感覚になることは絶えずある。とてもではないが、恥ずかしくて書けない内容が多い。予知夢というよりは、私的な願望、妄想と表現した方が正確かもしれない。

 現在、福岡に住むニュージーランド出身の女性が、私の短編作品2種類を英語に翻訳してくれている。日本の大学で修士号を取得したというだけあり、日本語で送られてくる文章は、日本人そのものである。大変な語学力である。果たして、どのような英語作品になって仕上がるだろうか。翻訳が出来上がったら、このブログで公開したいと思っている。

 世界中から短編作品を募り、コンテストを行っている団体がある。そこには翻訳中の2作品と、もう1作をすでにエントリー投稿した。締切は今年の12月末だというので、最終発表は来春なのだろうかと思っている。

 1作目の舞台はアメリカ東部の都市で時代は現代。2作目は、北欧の北極圏に近い小さな町で時代は何世紀も前だ。3作目は、東欧の東の外れの小さな国で、紀元後数百年である。そういえば、どういう訳か、日本を舞台にした作品は極端に少ない。

 翻訳をお願いしている相手には、外国人として私の作品をどう評価するか、率直に意見を訊きたいとお願いしている。当然、日本人とはメンタリティが異なるので、どのような受け止め方をされるか、とても興味がある。

 もし仮に絶賛してくれるようなら、次のステップは、まず日本で日本語の短編作品集を出版する。こればかりは、どこぞの出版社の編集者に会って交渉する必要はなく、私が自分で予算を確保すればゴーサインである。

 次のステップは、日本で出版した書籍に英訳文を添付して、興味を持ってくれそうな出版社に送ってみたい。アメリカ、イギリスの出版社をリサーチする必要がある。仮に、どこかの出版社が英語で出版してくれたら・・・できれば紙の書籍と電子書籍の両方で出版してくれるといいなと思っている。編集者にお願いして、主要な新聞社や雑誌社に書評掲載のお願いをすることにもなる。

 そこまでが実現したら、いよいよ最終ステップは、多言語出版構想である。日本語からいきなり多言語は難しいと思うのだが、オリジナルの英語からであれば翻訳者は見つけやすいと思うし、出版に興味を持つ編集者の絶対数も増えると予測している。

 こんな感じなので、予知夢というよりはもうすでに妄想、妄言の世界である。

 しかし、奇跡が起きるかもしれないではないか。翻訳者が非常に能力が高く、オリジナルの私の作品を見事な文章に変貌させ、読者の心を掴んでしまうということもあり得るのではないだろうか。

 自分の内面世界から創出した短編作品に、世界中のたくさんの人たちが、感動と安らぎを感じてくれるのを目の当たりにしたら、それは最高に嬉しいことだ。

 千里の道も一歩からである。まずは、英訳された文章を、現在英国滞在中のJD氏に読んでもらい・・・彼も日本語に堪能な人間なので、私の日本語の作品と英訳文の両方を読んでもらい・・・海外出版の可能性について率直な意見を訊いてみよう。

 でも、身近にはそれなりに適任者が存在するのだから、もしかしたら夢が実現するかもしれないと、淡い期待感を持っている。自分の年齢は努めて意識しないようにしているが、おめでたい高齢者だと自覚はしている。

 石破茂さんだって夢を追っているのだから、私も負けずに頑張ろうと思う。石破さんが総理になる可能性と、私の短編作品集が多言語出版化される可能性は、果たしてどちらが高いだろうか。しかし、メディアスクラムの絶大な支援があれば、ひたすら対立候補のあら探しをし、非難しているだけでも、ひょっとした弾みで総理になれるかもしれない。

 しかし、私の場合は、どれだけ他の著名作家を批判し、こき下ろしたとしても、それだけで多言語出版にこぎつけられる可能性はゼロである。ヒイヒイ言いながら、地面に這いつくばって主人公を探し出し、文章を磨き上げなければ、一歩も前進することはできない。それを承知で、敢えてチャレンジしてみたいと思っている。


いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2018-09-13 01:28 | 創作への道 | Comments(2)

創作「ハイドン・チェロ協奏曲〜下町の失恋物語」

Haydn, Cello Concert Nr 2 D Dur Mstislaw Rostropowitsch, Academy of St Martin

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 明後日の会合で使用する資料をA3用紙で31部両面印刷し、二つ折りにする作業を始めた。音楽を聴きながらしようと思い、YouTubeを開いたら、いつものように過去の視聴履歴を元に、推奨作品が並んでいた。最初の画像は、なんとなくいつもと雰囲気が違うなと思いつつ、小さな字で判読できなかったので、とにかく聴いてみることにした。

 するとなんと、ハイドンのチェロ協奏曲だった。お利口なYouTubeは、音楽的偏食傾向が強い私を、なんとか矯正しようというプログラムを働かせたのか、いきなりハイドンを薦めてきたようだ。

 最後まで聴いて確認したら、チェロ奏者はロストロポーヴィッチだった。ハイドンを聴く機会なんて年に一度も無いのだが、それなりに引き込まれてとうとう最後まで聴いてしまった。

 耳でハイドンを聴き、手は紙の二つ折りという単純作業だったため、脳内がまったく休眠状態だった。すると突然、脳内にある情景が浮かんだ。自分でも病的だと思うのだが、せっかく登場してくれた主人公なので、ちゃんと文章として書き残そうと思った次第だ。題して「ハイドン・チェロ協奏曲〜下町の失恋物語」である。


創作「ハイドン・チェロ協奏曲〜下町の失恋物語」

 剛太(ごうた)が、北海道から東京下町の公立中学に転校してきたのは。一年半ほど前だった。中学3年生にしては大柄で、スポーツ万能だった。短距離も長距離も、陸上選手より速く、バスケもサッカーも顧問の先生が驚くほどで、選手達からは畏敬の目で見られていた。「北海道では、みんなこんなもんだよ」というのが口癖だった。

 そんな彼にも弱点があった。勉強がからっきしだめだったのだ。英語の授業で先生から英文を読むように言われても、「先生、オレ小学校の時からローマ字が読めないんだよ」と言う始末で、クラスメイトの笑いを誘った。数学の授業では、「先生、分母って上だっけ?下だっけ?」という感じなので、毎学期の成績は超低空飛行だった。

 東京に住んでからそれなりの時間が経つのに、今でも北海道弁丸出しなので、ときどき意思の疎通に支障をきたすことがあったものの、素朴で粗野なキャラクターは人気を呼び、生徒や先生からは「ゴウ」という愛称で呼ばれていた。

 そんなある日、始業前の朝礼時に、担任の男性教師が一人の女子転校生を教団に立たせ、紹介した。
 「お父さんの仕事の関係で、小さい頃からフランスに住んでいたんだけど、このたび日本に転勤になって帰国したそうなんだ。日本語だけでなく、フランス語も英語も話せるそうだよ、すごいね。みんな、仲良くしてやってね」

 担任がそう言うと、転校生は「宜しくお願いします」と、はっきりした声で挨拶をした。担任に自己紹介をするよう促された彼女は、主に趣味について語った。とくに音楽が好きで、小さい頃からハイドンをよく聴いていると言った。

 剛太の目は、最初から女子転校生に釘付けになっていた。同級生と同じ制服を身につけていたのだが、今までに見たことのない洗練された雰囲気に圧倒されていた。

 昼休みになると、クラスメイトが物珍しそうに彼女の周りに集まり、フランスでの生活について、いろいろ質問した。そんな彼女の表情を、剛太はずっと凝視していた。すると誰かが大きな声で剛太に声をかけた。
 「おい、ゴウ。彼女、フランスでバスケとサッカーの選手だったんだってよ。お前もこっちに来て、あいさつしろよ」

 促されるまま、剛太は女子転校生の前に立った。
 「オレ、剛太。みんなはゴウって呼んでるんだ」
 「ヨロシク。剛太君?スポーツ万能なんですってね?」
 「いやあ、そんな・・・」
 「音楽なんかは聴くの?」
 緊張した剛太は、何も考えられず、ありのままに口に出した。
 「そうだね・・・」
 と言って並べたのは、何人もの昭和の演歌歌手の名前だった。怪訝そうな表情の彼女の表情を目にし、そういえば彼女が自己紹介で「はいどん」と言っていたことを思い出した。
 「お前、はいどんが好きなんだって?」
 「あら、剛太君もハイドンが好きなの?」
 「いや、オレはね、どんぶり物では天丼が一番好きだよ。フランスのはいどんって、どんなどんぶりなのさ?」

 女子転校生の表情が凍りついたことは言うまでもない。その時ちょうこ、午後の始業ベルが鳴り響き、生徒達はみな、席に戻った。

 放課後、吹奏楽部の女子生徒が剛太の所にやってきて、ためらいがちにそっと囁いた。「ハイドン」はフランスのどんぶり物なのではなく、クラシック音楽の作曲家の名前であることを。それを聞いた瞬間、剛太の視線は空中を浮遊した。

 それ以来、剛太はすっかり無口になってしまった。女子転校生がまるで別世界から訪れた存在のように思え、二人の間には、まるで大きな宇宙空間が拡がっているかのようにすら感じられた。

 ある日、剛太はCDショップ行き店員に相談した。「ハイドン」のCDを買いたいのだが、何か推薦してほしいと伝えた。「ハイドン」という名前以外に、カテゴリーも何も言及できない顧客に対し、店員はチェロの名手・ロストロポーヴィッチが演奏している、チェロ協奏曲はどうかと薦めた。

 それ以来、学校から帰った剛太は、自室に引きこもってロストロポーヴィッチが演奏するハイドンを、繰り返し繰り返し何度も何度も聴くようになった。無意識のうちに、ハイドンを聴いてさえいれば、少しずつ女子転校生との距離が縮まるのではないか、という淡い期待を抱いていた。

 数週間後の朝礼で、担任教師からの言葉を聞き、クラス中に小さなどよめきが湧き起こった。女子転校生の新居が決まったが、東京西部の武蔵野地域なので転校することになり、今日でお別れになるという。その瞬間、剛太は何も考えられず、放心状態になってしまった。

 その日の授業が終わり、女子転校生は列を作ったクラスメイトひとりひとりと、お別れの挨拶を交わした。やがて、何を伝えるか決めかねていた剛太の順番がやってきた。剛太は彼女を真剣に見つめ「ハイドンっていいね」と言うのが精一杯だった。彼女は少し微笑み「アデュー」と答えた。

 剛太は帰宅すると、パソコンを開いて「アデュー」という言葉の意味を検索した。検索結果をいくつもいくつも開いてみた。どうやら、「アデュー」という言葉の意味は、「またお会いしましょう」というよりは、決定的なお別れという意味のようだった。

 その日、剛太はいつものように自室に引きこもった。部屋から流れてきたのは繰り返し繰り返し、何度も同じ曲だった。今日ばかりは、ロストロポーヴィチのハイドンではなく、坂本冬美が歌う「また君に恋してる」だった。

 ・・・剛太君、早く立ち直ってね!笑

坂本冬美 - また君に恋してる


いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2018-09-07 22:21 | 創作への道 | Comments(0)

人生を旅に例えるなら、人はいつでも常に旅人である

Bill Evans Trio - Young and Foolish

いつもクリックを有難うございます。励みになっています。


 地震のお見舞いに、北海道内の何人かに電話してみた。携帯はつながったものの、固定電話はつながらなかった。道内全域が停電と聞いていたが、昼過ぎには回復した所もあったようだ。信号も停止し、都市機能がすっかりマヒしたようだ。早期の機能回復を祈念したい。

 毎週木曜日は、製本所まで往復する日だ。個数は少ないのだが、紙なので包みが重い。私には少々負担が大きくなっている。名入り絵本は1冊ずつ、手作業の製本である。文字通り、製本職人による工芸品である。それゆえに、営業活動を活発化して受注数が増えると、機械的な製本ではないので、いずれは製本能力の上限に達してしまうことになる。

 今どき、手作業で製本を引き受ける製本職人は、そんなに多くはないようなので、どのように手を確保するかも課題となる。もちろん、1冊ずつ名前が違う絵本なので、社内での製作と印刷工程も手作業である。考えてみれば、ずいぶん原始的で素朴な絵本である。文字通り、オンリー・ユーの絵本と言っていい。

 出産は、赤ちゃんにとっては人生のスタートである。普通の人生を考えると、やがて幼稚園に入園し小学校、中学校、高校、大学を経て就職するのだろう。いつかは結婚し、自分の子どもを迎えることになる。そして孫の顔を見、もしかしたらひ孫の顔も見るだろう。やがては、誰しもが迎える晩年・・・その晩年に、自分の人生を振り返るときに、人は何を思うのだろうか。

 約16年前に、「大切なわが子へ」というタイトルの名入り絵本を世に送り出した。人生を旅に例えると、これは旅の出発点に立つ新生児への、励ましの旅券である。生涯にわたって、肌身離さず携行してもらいたい、親の愛情の証明書のようなものである。

 人生の荒波を航行し、いつしか旅程の終着地点である晩年に辿り着いた方々が、自分の人生を振り返ってみて、いい人生だったと実感できるなら、それこそ真の意味で人生を全うしたことになると思う。そんな時期に、自分の血を引く子どもたちみんなから「大切なお父さんへ」あるいは「大切なお母さんへ」というタイトルの絵本をプレゼントされたら、どのように感じるだろうか。

 ページを開くと、自分の名前が目に飛び込んでくる。そしてすっかり忘れていたかつての労苦が記されており、苦難の中でも自分たちに愛情を注ぎ、大切に育ててくれたことへの子どもたちからの感謝の気持ちが、何ページにもわたって綴られている。・・・このような、文字通り世界に一冊しか存在しない絵本を手にしたら、旅の途中で味わった苦痛や哀しみの全てが、この日を迎えるための訓練の機会だったと思えるのではないだろうか。

 全ての人たちが同じ旅程を歩むわけではない。旅の途中で挫折する人もいるだろうし、耐えがたい人生のままで終わる人もいるだろう。新生児の全てに両親が揃っているわけではなく、母親独りで産み育てなければならないケースもある。胎内で、あるいは分娩中に天使になってしまう場合もある。先天性の障がいを持って生まれてくる子どももいる。

 しかし、どんな子どもも心を持って生まれてくる。どのような状況で生まれてきても、その心に愛と思いやり、慈悲が届くような文章を書きたいと思い続けてきた。

 今の私は、人生という旅の出発点から終着地点に至るまでの、決して平坦ではない旅程の随所で、旅人の心を励まし、勇気づけ、前向きで建設的に生き続けようという気力を与えられるような、そんな文章の絵本を創り続けようと思っている。

 人の心に届く言葉が必要なときはいつも、まずは私自身の心に、その言葉が与えられるよう願っている。


いつもクリックを有難うございます。励みになっています。

by hirune-neko | 2018-09-07 01:17 | 創作への道 | Comments(0)



妄想から始まり、脳内人格を与えられた不思議な存在
検索
ライフログ
最新の記事
最新のコメント
通りすがりさん コ..
by hirune-neko at 00:54
はじめまして。 猫は「..
by 通りすがり at 20:38
Eucalyptusさ..
by hirune-neko at 19:49
お久しぶりです。 この..
by Eucalyptus at 17:28
causalさん ..
by 昼寝ネコ at 12:53
記事ランキング
以前の記事
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
お気に入りブログ
ファン
ブログパーツ