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昼寝ネコの雑記帳

カテゴリ:創作への道( 319 )

真夏の不義理・・・ボサノヴァを1回も聴いていなかった

A FLG Maurepas upload - João Gilberto - Estate - Bossa Nova
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 夏といえばなんといってもボサノヴァだろうと思う。サンバも夏向けだとは思うが、ボサノヴァの方に名曲が多いと思う。高校時代から、アントニオ・カルロス・ジョビンに傾倒していたが、ここ数年はジョアン・ジルベルトの曲を好むようになっている。

 高校生の時に学校をサボりまくった後遺症で、地理や歴史の知識がからっきし駄目である。さすがにブラジルがヨーロッパにあるとか、アフリカにある、だなんて思うほどまでは酷くない。しかし、南米でブラジルとアルゼンチンがどのような位置関係なのか、今でも把握していない。

 どうして同じ南米なのに、ポルトガル語とスペイン語なのだろうか。歴史をちゃんと勉強すれば、納得できるのだろうけど、それも調べていない。

 国が違えば異なる言語を話すし、同じ英語でもアメリカと英国とでは、明らかに発音が違うことを実感している。言語だけでなく。音楽も異なり、文化や国民性も異なるように感じる。

 過去に私が訪れたことのある国は、ただの一度だけではあるが、隣国の韓国。・・・成田からソウル経由のサンフランシスコ行きに搭乗したが、ソウルで全員が降機させられ、一泊を強いられたものだ。あれは一体、なんだったのだろうか。

 あとはアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、東西ドイツ(まだベルリンの壁があった頃だ)、スペイン。それぐらいだろうと思う。最後に海外に行ったのは、もうかれこれ30年ほど前のことになる。日本のバブル崩壊を機に、海外との仕事は途絶えた。

 今現在は、完全に日本国内向けの仕事をしている。しかし、もしかしたら、環境が整って多言語出版するような機会が生まれるかもしれない、なんていう妄想もまだ残っている。

 できるだけ早く、仕事の第一線から退き、できれば作家業に専念したいという希望を捨てていない。独りでできる作業だし、時間や地理的な制約もない。

 これだけ世界がグローバル化しているのだから、ストーリーも登場人物も、国際的に展開していいのではないだろうか。自然に受け入れられるのではないだろうか。

 音楽家にもそれぞれ個性があるように、私も自分の感性、価値観や人生観、そしてさらには拙くはあるものの、独自の洞察力と想像(妄想)力を駆使し、できれば共感や感銘・感動を感じていただけるような作品を書き続けたい、という夢を見ている。

 パソコンをカバンに入れて、身体ひとつでどこにでも行ってできる仕事である。人に頼る必要もないので、自分に最も合った職業だと思っている。

 昼寝ネコの名前を著者として作った、子供の名入り絵本「大切わが子へ」も、すでに6万以上のご家庭にお届けしている。最も印象深かったのは、楽しみにされていたお子さんが天使になってしまったご家庭のために書いた、「天使版」を受け取られて方々の反応である。中にはブログで紹介されている方もあるし、院長先生から様子を報告していただいたこともある。私の文章が役に立ったと思えることが、最も嬉しい報酬である。

 そのように、読者の心に届くメッセージを、短編作品として書き続けたいと願っている。

【参考資料:天使版の絵本を手にされた方のブログ】
ブログ:「☆Ohana☆天使と一緒」
2人の天使に守られて・・・ありがとう!大好きだよ


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by hirune-neko | 2019-09-14 00:11 | 創作への道 | Comments(0)

作業が終わってみたら、午前3時だった

Astor Piazzolla - Oblivion
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 受注システム改善のため、作業を実体験しようと考えた。そこで、週末に溜まった受注データを全て、Excelbookに入力した。手書きの申し込み書は約40枚あったため、拡大鏡で一項目ごとを確認しながらの手入力だった。休み無しでも、7時間程度はかかったように思う。

 結論としては、やはり手書きの申し込み書は受け付けず、サイトからの申し込みフォームに一本化すべき、というところに落ち着いた。しかも、産婦人科や自治体個々の申し込みフォームを設置するのではなく、統一フォームにすべきだと確信した。営業が本格化する今後の展開を考えると、統一フォームは譲れないラインになる。協力してくれない相手は、こちらから取引を辞退させていただくつもりだ。

 それにしても、この時間まで仕事をするのは、間違いなく身体に良くない。そんなことは百も承知である。仕事をしていれば、ときには限界を超えて無理をしなければならないこともあるだろう。


 昨日、久しぶりに未完の大作の資料を開いてみた。昨日の記事でご紹介したピアソラのRemembrance(思い出)は、幕開けの最初の舞いで使う予定だ。

 今日ご紹介するのは、ラストシーンで使いたいと思っている、同じくピアソラの作品で、Oblivion(忘却)である。ピアソラの作品の中では、最も好きな曲だ。

 改めてストーリー全体の流れを、頭の中で反芻してみたが、それだけでも深い感動の気持ちを味わうことができた。

 連日、私にとっては厳しいスケジュールが続いてるものの、定期的に時間を確保して、とりあえずは脚本を仕上げたいなと思い始めている。

 ピアソラの曲を、どのように使わせてもらうのがいいのかが、課題になりそうだ。私個人としては、各作品のメロディーを演奏するだけでは、ピアソラの音楽的な立体感を舞台上で再現できるとは考えていない。

 ピアソラ自身が演奏した音源を、そのまま使う方法を検討するか、あるいはたとえ無名であっても、感性のいい演奏家を探すか、迷うところである。

 さてさて、そんな呑気なことを考えている場合ではない。いくらなんでも、もう布団に入ろうと思う。

 いつまで経っても、やれやれの生活パターンである。

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by hirune-neko | 2019-08-26 03:42 | 創作への道 | Comments(0)

久しぶりに未完の大作?「気仙しぐれ雪」を思い出した

Suite remembrance: Remembrance
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 資料を確認したら、具体的な発案そのものは、2012年だった。

 東日本大震災は2011年だったので、その翌年である。多くの方が津波で落命し、悲惨な状況だった。福祉団体の依頼で助成を受け、子や親を亡くされた方のための文章を作成して寄贈した。北海道から青森、岩手、宮城、福島を回り、新聞社に告知記事のお願いをした。十数社は訪問したと思う。

 何かのご縁だったと思うのだが、岩手県大船渡市の東海新報社には、何度もお邪魔することになった。海岸線を車で走りながら、入り組んだ湾の静謐で神秘的な暗緑色の水面に、強い印象を受けた。

 気仙地方を何度かお邪魔するうちに、無言のまま死を余儀なくされた方々の、魂の囁きが聞こえたように感じた。イメージは膨らみ、江戸城築城の手伝いを伊達政宗公に命じられた家族と、男勝りのやんちゃな娘が思い浮かんだ。

 その娘もやがて成長し、年頃になる。江戸で知り合った男性に恋心を抱くが、ある日、父親の上司によって勝手に決められた縁談が持ち込まれる。娘は苦渋の決断で、病を装って自害する。

 その娘が、霊界から現世を訪れ、無念の気持ちを舞で表現する。そして、決して口には出せなかった苦しい胸の内を明かし、舞台上から観客に向かって語りかける。つまり、別れを告げることもできずに、地上を後にした無念の思い、残された家族に対する気持ちを語る・・・という設定である。

 当初は「気仙に還る〜望郷の舞い」というタイトルで考えていたのだが、「気仙雪しぐれ」、そして現時点では「気仙しぐれ雪」と考えている。

 残念ながら、筆が一向に進まない。しかし、全体のプロットはその頃にまとめてある。

 舞台上では、婆やのナレーションと、他界した娘の舞が交互に展開する。そして、舞に使用するのは、もちろん全てピアソラの曲である。冒頭で紹介したのは「Remembrance」で、思い出という意味のようだ。この曲を冒頭のシーンで使う予定だ。

 ラストシーンでは、「Oblivion」を使うことに決めている。忘却という意味である。

 会場は、大船渡市のリアスホールをお借りし、地元の皆さんをご招待したいと考えている。婆やは独身時代からの演劇仲間にお願いしている。私の作品に何度か付き合ってくれている女性だが、すでにお孫さんが何人もいて、そのままで適役である。

 主役の舞う女性は、我が娘に平身低頭してお願いしようと思っている。もう何年も前のことだが、川崎市民劇で、枡形城主の妻役で使っていただき、そのときの舞う姿が、ずっと印象に残っている。

 課題は音楽である。どうしてもピアソラの演奏が強く印象に残っているため、現役の演奏家にお願いすることに違和感を感じている。著作権の問題があるので、どのようにクリアするか、まだ出口が見えない状況だ。

 早く仕事を落ち着かせ、脚本を仕上げたいと思っているのだが、さて、あとどの程度の時間がかかるだろうか。そのうち、しびれを切らした霊界の皆さんが、夢に現れて「何をモタモタしてるの?ずっと待ってるのに」と、催促されそうな気がする。当日は観客席のどこかで、一緒に見守ってくれるのではないかと想像している。

 気仙の皆さんから送っていただいた、大船渡銘菓のカモメの玉子、生のサンマなどを懐かしく思い出している。

 依然として、不義理中の昼寝ネコである。大変申し訳ない。

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by hirune-neko | 2019-08-25 01:19 | 創作への道 | Comments(0)

いつ目覚めても、まだまだ旅の途中である

"DESPERTAR" - Astor Piazzolla
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 ピアソラのこの曲、DESPERTAR(デスペルタール)の意味が思い出せなくて、調べてみた。そうだった、「目覚め」だった。目覚めという語感の持つ、新しい一日が始まるさわやかな朝というイメージは感じられない。どちらかというと、長い長い沈黙と熟考に押し潰されそうになりながらもじっと耐えていたが、ある日突然、答えが与えられた。そんな重々しい目覚めの訪れというイメージが浮かぶ。

 この曲を聴きながら、「目覚め」というタイトルで創作作品を書けといわれれば、挑戦したいと思う。しかし、今は無理である。まずは創作の世界に一定時間身を置き、登場人物が現れるのを待たなくてはならない。さらには、場面や情景が視覚的に再現されるまで、その場に立ち尽くしていなければならない。

 そのように、創作の世界に身を置き、そこで見聞きしたことを文章にする・・・私にとっては、至福の時間である。その意味で、創作意欲を刺激するであろう街並みにも訪れてみたい。南米、東欧、北欧の国々である。しかし、歴史も文化も何も知らずに訪れたのでは、現在の街並みを観光客として、表面的に眺めるだけで終わってしまうだろう。

 そう考えると、一人の登場人物を描くにも、かなりの下準備が必要だろうと、現実的に考えてしまう。産みの苦しみが伴うということだ。

 そんな感覚の私なので、実務的な仕事だけに追われ、正確で迅速に処理することに集中していると、それなりの達成感はあるのだが、次第次第に何か不達成感がくすぶっているのを感じる。深呼吸をしていない自分を感じる。

 しかし一方で、それは贅沢な話だとも思う。
 
 絵本の文章には、ストーリーはない。しかし、読み手の心の中に起きる変化や心理的な影響を想像して書いている。今は、赤ちゃんの名前を入れるバージョンだけだ。すでに5万3千冊以上をお届けしているので、ご両親とお子さん、約16万人の方の目に触れている計算だ。

 創作短編作品を書くのは、ある意味では自分だけの世界に閉じこもり、自己満足を追い求めているのかもしれない。しかし、決して悪い動機だとは思っていない。

 新しい命を引き受けた親を励まし、子どもの心には親からの愛のメッセージが刻まれる。ある意味では分かりやすい世界だと思える。しかし、一人の人間が生涯を閉じるまでの間に、誰かから何かメッセージを伝えられ、そのことによって、佳き人生だったと思えるとしたら、それもまた価値あることなのではないだろうか。

 すぐに思い浮かぶのは、年老いた親に対する子どもからのメッセージである。もちろん、同じスタートラインに立つ幼子の場合は、同じ文章で名前だけを差し替えて絵本を作成している。しかし、様々に異なる航跡を生きてきた高齢者に対しては、同じ文章で名前だけを差し替えるという手法では、心に伝わるものが希薄になってしまう。

 あの苦難の時期に、子どもたちのために踏ん張って努力してくれたね・・・などのように、本人達しか知り得ない表現があって、初めて高齢の方は心に感動と達成感を覚えるだろうと思う。

 今の私は、まだまだ実務作業と営業展開に追われている。しかしいずれは、短編作品と並行して、人生の様々なシーンで、思いやりと愛情溢れるメッセージを受け取る人が増えるよう、多様な種類のグリーティング絵本を創り出したいと思っている。

 ・・・いずれ?ちょっと読み返してみたが、一体私はあと何年生きられるというのか。まるで、寿命の到来など、自分には無関係であるかのような発想に、半ば呆れている。しかし、具体的な到達点が存在しない目標領域ではあるが、辿り着いたと実感できるまで、生き続けたいという希望はある。

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by hirune-neko | 2019-05-31 01:29 | 創作への道 | Comments(0)

修正再掲載:増補版 迷える子羊の教会

Bill Evans Trio - Young and Foolish
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 スーツケースひとつを車のトランクに入れ、とりあえず西に向かってハイウェイを走った。デンバーから何時間か走り、日が陰ってきたのでハイウェイを出て、目についた安ホテルに投宿した。あれからもう、1週間になる。

 最初の数日は何も考えられなかった。少しは思考力が戻って来たような気がするが、訪ねてくる人など存在せず、どこにも行く当てがない。食欲もないし眠気も感じない。スケジュールは全てキャンセルされ、何の予定も入っていない。電話をかける相手も、メールを送る相手もいなくなってしまった。実在するけれど、社会的には不存在の人間。そんな自分は、このままこの安ホテルで朽ち果てるのも、ありかもしれないと思い始めていた。人目を気にすることもないので、外見がどうでも良くなってしまい、シャワーを浴びる程度で、ヒゲも剃っていない。

 思い出したくないあれこれが、徐々に湧き上がってくるのを感じた。

 あの日、懲罰評議会で除名を言い渡され帰宅した夜、いつもは明かりが点いているはずの家が、闇の中に溶け込んでいた。厭な予感がして家に入り、居間の照明のスィッチを入れると、テーブルの上の書類が目に飛び込んできた。さらに厭な予感がした。
 手に取って見ると、妻からの短い手紙と、離婚承諾書、郵送用の封筒だった。

「これからの生涯を、汚名とともに生きるだけの勇気はありません。書類に署名して投函してください。弁護士から連絡させますので、連絡が取れるようにしてください。 ジェニファー」

 もうこのまま、家族と会う機会は訪れないのだろうか。突然の環境の変化に、戸惑いと不安、そして孤立感を感じた。そんな感傷に浸る余裕もなく、その夜遅く、懲罰評議会の代理人だと名乗る弁護士から電話があった。48時間以内に住まいを明け渡すようにとの通告だった。家内と娘たちの荷物は、代理人が引き取りに行くので手を触れないようにともいわれた。私物はそんなに多くはないし、その家に住み続けたいという気もなかった。私は48時間以内に、車で家を後にした。

 5月に入ったばかりなのに、少し蒸し暑いような気がした。ホテルのエアコンの効きが悪いのかもしれない。
 脳内のパニックが少しずつ鎮まって、やや客観的に考えられるようになってきたようだ。今、自分はどこにいるのだろうか。まだコロラド州内なのだろうか。それともユタなのか、あるいはもうネバダなのか。

 東部で生まれ育った子どもの頃の情景が、次々と浮かんできた。ボストン郊外に住んでいたが、父親の仕事の関係で何度も市内のコモンパークに連れて行ってもらい、芝生の上を歩き回るリスたちを追いかけたことを思い出した。
 父はビジネスマンであり、商工会議所の理事を務め、多くの政治家との親交もあった。男の子は私一人だったので、私が会社を継ぐのが当然だと思っていたようだ。妹たちも異存がなかったようだし、母も期待してくれていたのだろう。

 父はいつの頃からか、私がハーヴァード大学に進み、そのままビジネススクールで学ぶというコースを、既定路線だと考えるようになっていた。大学受験を意識しだした頃、父は私に、試験は形式的に受けるだけでいい、と告げた。つまり、なんらかの方法で、すでに私の合格が決められていたのだと知った。
 感謝して、そのまま父の母校でもあるハーヴァードを受験していたら、そしてそのまま卒業し、ビジネススクールも修了して、父の紹介の企業で訓練を積み、最終的には父の会社を手伝うのが、一番無難な人生だったのかもしれない。

 私が、神学校に進みたいといったとき、テーブルで食事中だった家族全員が手を止め、言葉を失ってしまった。あの時の情景は、今でもよく憶えている。私の出自が火星人だと知ったときのような、そんな驚きようだった。

 家族関係は気まずくなっでしまったが、私は自分の我を通し、奨学金を得て自力で神学校を卒業した。卒業後は、コロラド州内の教会で修行し、数年後にはジェニファーを紹介されて結婚することになった。ジェニファーの父親は、教会のコロラド州を統括する聖職者だった。同窓生は皆、これで私の将来が安泰だと羨んだ。
 なるほど、その後の私は教会の実務を離れ、コロラド州本部の財務や法務の仕事に就くようになった。そんなある日、私は目にしてはならないものを見てしまった。
 教会は政治的な中立を宗規としているのだが、教会員に対して、特定の上院議員と下院議員に投票を誘導する、巧妙に作られた計画書を目にした。さらには、同様に特定の議員に対し、いくつかの慈善団体を経由して選挙資金を提供する、アクションプログラムが承認されている議事録を目にした。
 私はすぐさま、ジェニファーの父親を訪ね、ことの次第を報告した。あのときの彼の表情は、今でもよく憶えている。聖職者の表情が崩れ、苦悶と困惑の表情になった。彼は鋭い視線を私に向け、いった

 「ブライアン、聖なる業をこの地上に広めるときは、地の汚れを浄めるために、まず私たち自身が、その汚れの中に足を踏み入れなくてはいけないんだよ。それと、ジェニファーと娘たちの生活を守りたいと思わないのかね。」

 ジェニファーに相談できる内容ではなかった。私は3日間熟考し、最終的に確信が持てた選択を行った。ワシントンDCにある教会の本部を訪ね、法務部のディレクターに面会申し込みをし、経緯を説明することにした。そのディレクターは、私の勇気ある行動を讃え、コロラドに帰って待機するように告げた。さすがに教会の本部では、正義が通用するのだと、安堵して家路についた。

 その3日後、私はコロラド州本部の懲罰評議会から呼び出しを受けた。いつでも証言できるように、経緯を正確に資料化していた。懲罰評議会は、10分もかからずに終結した。「法務および財務の重要機密を開示した重篤な責任」を問われ、私は教会そのものから除名処分を受けてしまった。つまり、ワシントンDCの教会本部が承認の上で全てを進めており、私は一気に危険人物として浮上してしまったのだと、そのときにようやく気づいた。

 私は、何か神聖なものに裏切られたような心境だった。突然、拠り所を失い方向感覚がなくなってしまった思いだった。

 突然ドアがノックされた。ルームサービスなど頼んだ覚えはない。クレジットカードにトラブルでも発生したのだろうか。ドアの外に立っていたのは、身なりのいい男性二人だった。私の両親の依頼を受けた弁護士だというので、招き入れた。

 私の居所を突き止めたのにも驚いたが、さらに驚いたのは両親からの申し出だった。私の身に起こった全容を知らされた両親は、コロラド州の隣に位置するネブラスカ州の片田舎で売りに出されていた建物を購入したという。長く独立系の教会として使われていた建物だが、急逝した聖職者の後継者が見つからず、閉鎖されることになったらしい。その建物で、自分が正しいと考える教えを広めるよう支援したい。それが両親からの申し出だという。
 父や家族の期待を裏切り、教会でも自分の正義感を通し、ジェニファーや娘たちを悲惨な境遇に追い込んでしまった私。そんな私の行動を理解し、受け入れ、寛容に接してくれる両親に、心から素直に感謝の気持ちを持つことができた。

 代理人の弁護士は、今すぐに結論を出す必要はないといった。時間をかけて、これからの自分の人生を設計し直すよう勧め、名刺をテーブルの上に並べた。ドアに向かって歩く途中で振り返っていった。

「もうひとつ伝言があります。お母さんが、お父さんに内緒であなたの銀行口座に1万ドルを振り込んだそうです。ゆっくり旅行していい景色を楽しむように、と伝えるよういわれました。ああ、それともうひとつ。ストレスのせいにして、ドーナツを食べ過ぎないよう注意してくれともいわれました」

 その夜は、疲れ切った頭では何も考えられず、深い眠りに落ちていったようだ。

 朝方、鮮明な夢を見た。私はスペインの荒野で羊飼いをしていた。囲いには100匹の羊を入れて、番をしていた。ちょうど100匹で、それぞれ1匹ずつには名前が付けられていた。毎日3度、羊たち全てが揃っていることを確認することが、義務づけられていた。夕方、何度数えても羊は99匹しかいなかった。囲いの入口を丈夫な綱で固定し、失ってしまった1匹の羊を探しに荒野に向かった。
 徐々に日が陰り、不気味な闇が濃さを増していた。私は途中で引き返す気持ちになれず、もしかしたら危険な目に遭っているかもしれない羊の安否が気がかりで、いつも持っている鈴の音を響かせながら、あてどもなく探し回った。

 突然、何かの気配がした。2匹の狼だった。1匹が右から飛びかかってきたので、杖で殴打したが、その隙にもう1匹が左から飛びかかってきて、足に噛みつかれた。必死で抵抗し、痛さをこらえて杖で何度も殴打するうち、狼はぐったりと動かなくなった。薬草で応急手当てし、私はまた羊を探し始めた。

 かすかに羊の鳴き声が聞こえた。私が鳴き声のする暗闇に向かって声をかけると、鳴き声が大きくなり、やがて私の方に駆け寄って来る子羊の姿が目に入った。子羊は安堵したように、私に飛びついてきた。私は子羊を抱きしめると、肩の上に担いで囲いに向かって歩き始めた。

 かなりの時間を費やしていたのだろう。東の空が少しずつ赤みを増し始め、辺りの景色が鮮明になっていた。

 そこで私は目が覚めた。夢の世界から、一気に現実に引き戻されたが、子羊の感触も足の痛みもまだ残っていると感じるほど、鮮明な夢だった。理由もなく、心の底から感動が湧き上がり、涙が溢れ出した。

 両親からの申し出を受けるべきだと、強く感じた。私にはなんの権能もない。地位もなければ、正当な権威もない。しかし、荒野で迷っている子羊を救い出すのに一体、何の権威や地位が必要だというのだろうか。安全な囲いの中で、しばし平安に過ごせるよう手助けし、その後は自分の意思と判断で、必要とすればどの宗教を目指してもいいではないか。

 そう考えると、とても気楽になった。しばしの休息を得て、新たな道を目指して行けるよう手伝うことなら、私にでもできるかもしれない。
 迷える子羊の教会: The Church for the Lost Sheep。今の私にできる精一杯のことなのではないだろうか。そう考えたとき、聖書の一節が思い浮かんだ。

『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』

     ◆    ◆    ◆    ◆    ◆

 両親が購入してくれた建物は、アメリカの中央に位置すると言われる、ネブラスカ州オマハから数十キロの郊外にあった。ミズーリ川からもそんなに遠くない、閑静な田園地帯だった。地元の不動産業者に連絡を取り、現地を案内してもらったが、彼は車の中で急逝した前任の聖職者のことをいろいろ説明してくれた。

 人格者で人望があり、地域の住民たちからの信頼と尊敬を集めていたことが良く理解できた。ブライアンは、それなりの規模と知名度を有する教会を追われ、家族とも離別し、文字通り孤立無援の立場になっていたが、かえって純粋な信仰心を培う良き機会だと考えていた。

 建物は思ったよりも大きかった。L字形の平屋建てで、教会の礼拝堂といくつかの教室、事務所、それに住まいが併設されていた。不動産業者の男性は、いくつかの鍵の説明を終えると、鍵束と一緒に権利関係の書類を事務所のデスクの上に置いた。そして、両親からの手紙を預かっているといい、ジャケットの内ポケットから取り出して手渡すと、別れを告げた。

 封を切ると、父と母それぞれからの手紙が入っていた。椅子に座り直して読みながら、両親の期待を裏切ってビジネススクールではなく神学校に進学した頃の、家の中に充満していた冷たい空気を思い出した。両親と妹たちに背を向け、わがままな選択をした私に対する両親からの寛大で思いやり溢れる行為に、改めて家族の絆を感じ感動の涙が溢れてきた。

 教会はあくまでも迷える子羊たちのために運営する決意だった。地元の新聞社に相談して記事にしてもらい、とりあえず日曜日は礼拝行事と日曜学校からスタートすることにした。果たして、どのような考えの人がどのような動機で教会に足を運んでくれるのか、まったく予測がつかなかった。

     ◆    ◆    ◆    ◆    ◆

 あっという間に半年が過ぎ去った。他界した聖職者を慕っていた「信者」の皆さんが、少しずつ集まってくるようになり、ブライアンは平日にも、いろいろな相談に乗る時間を過ごすようにした。毎日曜日の礼拝行事の時に、出席した皆さんの表情に平安な輝きを感じることが、とても張り合いになっていた。

 ある日曜日、いつものように小さな礼拝堂に入り、説教台から出席者一人ひとりの表情を確かめながら、お話しを始めた。その時、ブライアンの視界に、最後列に座るジェニファーと娘たちの姿が飛び込んできた。一瞬、言葉が出なくなってしまったが、頭の片隅では離婚して離れていた妻と娘たちが、なぜこの場所に存在しているのかを思い巡らしながら、その日のために用意した話しを続けた。

 礼拝行事の後、ブライアンはジェニファーと娘たちを事務所に招き入れた。激動の時期を独りで乗り切ろうとしていた矢先なので、妻たちの突然の来訪の意図を計りかねた。いきなり本題に入るのがためらわれ、健康状態や娘たちの学校の様子などを質問した。

 ジェニファーはブライアンの狼狽を察して、ストレートに説明を始めた。ブライアンの許を去った妻のジェニファーは、後に父親から歪曲された虚偽の経緯を説明されていたことを知った。その後、教団の一部の人間たちが宗規に反して、特定の政治家へ投票させようとしたり、いくつもの慈善団体を迂回して政治献金を行ったことが表面化し、ブライアンの行動の正当性が認められ、評価されたことがジェニファーの口から語られた。しかしブライアンには、遠く過ぎ去った、すでに終結してしまった出来事だとしか思えなかった。

 ジェニファーは軽率な判断をしたことを謝罪し、ブライアンの生き方に共感していることを伝えた。その日、十分な時間をかけて家族で話し合い、ジェニファーと娘たちはブライアンと一緒に生活することを決めた。

 ほどなく、ジェニファーと娘たちはブライアンを手伝うようになり、家族揃って、この小さな教会の運営に励むようになった。

 その後、ブライアンを除名した教団の上層部から連絡があり、除名が誤りであったことを謝罪すると同時に、教会の管理・運営に必要な権限と資金的援助を与えるので、今後は独立系の教会としてではなく、全米組織である彼等の教団に所属して教会を運営するよう申し出があった。
 ブライアンは、かつての夢の中で、囲いから迷い出た一匹の子羊を捜すために荒野に出たこと、狼に襲われ傷つきながらも、見つけ出した子羊を肩に担いで囲いに戻ったときに味わった、深い達成感を忘れてはいなかった。著名な宗教組織への復帰は名誉あることかもしれないが、ブライアンとジェニファーは、そのまま名も無い小さな教会を維持し、いつ悩める子羊が迷い込んできても、心を込めて世話をできるよう、「迷える子羊の教会」の看板をそのまま掲げることにした。

 ある意味で、人生には終わりが無く永遠に続くとしたら、最も小さき者の明日の希望と平安のためには、今日の苦難を甘んじて引き受ける、真の信仰者の犠牲心がネブラスカの片田舎だけでなく、世界中に存在するのではないだろうか。

【創作メモ】
 読者諸兄。久しぶりにこの作品を読み返した。細かい誤字や表現の修正を行ったので、あえて再掲載することにした。本来は、クリスマスの時期に作ったものだが、修正しながら、現在ある刑務所に収監されている友人が心に思い浮かび、記録に残そうと考えた。すでに読まれた方もいらっしゃるかもしれないが、再度掲載させていただく。改めて、ブライアンのような人物が身近にいたら、友だちになりたいと思っている。

 音楽はやはり、Bill Evans Trioの演奏で、 Young and Foolishである。

 Young and Foolish・・・未熟で若い頃には、愚かで無謀な行動に至ることが、誰にでもあったのではないだろうか。私はもうすでに高齢者であり若くはないが、相変わらず書生論を振りかざす、愚かな若者の心情のままのようだ。

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by hirune-neko | 2019-05-22 02:21 | 創作への道 | Comments(0)

笑われると思うが、この歳でも厭世観に浸ることがある

Stacey Kent - To Say Goodbye (Official Video)
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 一瞬、耳を疑うような話をいくつも聞かされた。

 私は存外クールな性格だと思っている。誰から何をされようが、何を言われようが、So What?・・・だからどうしたの?という程度で、まるで別世界の出来事である。

 しかし今日は、立て続けに意外な実態をあれこれ聞かされ、聞いているうちに、心の中で溜息が出た。それなりに人生の裏表を見てきた気になっていたのだが、改めて想像外の現実を突きつけられると、現実世界に対する厭世観が湧いてしまった。もしかしたら私は、ひょっとして理想家だったのだろうか、と思わず自問してしまった。

 外務省の海外邦人安全課なる部署に電話を入れた。海外旅行中に、邦人が危害を被る可能性のある、いわゆる渡航危険情報について、いろいろ質問した。

 2017年当時の外務大臣の答弁を引用し、朝鮮戦争再発を想定した在韓邦人救出問題について確認した、韓国政府は、米軍による在韓米国人の救出については協議に応じると表明したが、自衛隊による在韓日本人救出に関する協議には応じないと明言した件だ。

 職員の対応は曖昧だった。どうも外交上の配慮があり、その件に関しては公の場での見解は表現できないような印象だった。

 韓国旅行を控えている、ある日本人団体が直面するかもしれないリスクを、調査・報告する手伝いをしている。その報告の席上で、忖度することを知らず、空気を読む気のない私は、以下のような発言をした。
(
 「私はスパイ映画ばかり観ています。ですから、日本人団体が旅行で韓国に滞在している、という想定で映画のシナリオを、もし私が作るとしたら、・・・」と前置きして、次のようなプロットを披露した。

1:国家経済が破綻に瀕し、国際的な孤立化も進んでいる政府が、情報部と打開策を協議した。
2:この危機的状況を打開するには、日本政府の経済力と国際的な信用力を利用するのが、最も確実だという結論に達した。
3:しかし、日韓関係が過去最悪の状況下で、日本政府に頭を下げてお願いしてしまったら、韓国国民のプライドが許さず、政府に対する反感が強まるだろう。しかも日本の国民感情を前面に出し、日本政府は協力を拒否し、韓国を見殺しにするだろう。
4:よって知恵を絞り、日本政府ならびに日本人が、まずは感情論・人情論から、韓国に協力を提供することへの抵抗感がなくなるような方策を考え、実行する必要がある。
5:そこで、熟慮と検討の結果、以下のシナリオを実行することになった。

  • 国籍不明のテロ組織が突如、ソウル市内に乱入した。
  • 無差別テロを実行し、何人かの韓国人市民が犠牲になった。
  • テログループは、韓国旅行中の日本人団体を拉致し、人質にとって立てこもった。
  • 韓国政府は、直ちに警察や軍に命じ、日本人団体の救出に動いた。
  • 激しい銃撃戦の末、テログループは全員が射殺された。
  • 日本人救出のため、自らの命を顧みず果敢に戦った警察官、軍人にも犠牲者が出た。
  • さらには、日本人団体の救出に協力しようとした、勇敢な韓国人市民何人かも巻き添えになり、死亡した。
  • 銃撃戦の模様と、終結後の現場を撮影するが、テロリストや犠牲者の警察官、軍人、一般市民の遺体は、直前に死刑囚や政治犯を銃殺処刑し、銃撃戦の現場に放置しておくこと。
  • 韓国政府は全世界に対し、大切な隣国である日本および旅行中だった日本人のために、全力を尽くしてテロリストと戦い、無事に全員を救出できたことを、発表する。
  • 日本政府および日本国民に対しては、勇敢な警察官、軍人、一般市民が、自らの命を犠牲にして、日本と日本人に対する友情を貫いたことを強調する。同時に、このようなテロリストによる、卑劣な犯行には断固抗議し、韓国政府は今後も正義の秩序に基づき、世界平和実現のための協力を惜しまない、と強調する。

6:以上のシナリオを実行し、世界中からの韓国政府、韓国人に対する賞賛の声を高める。
7:その後、日本人救出への謝意を表する日本政府に対し、両国の友情をさらに高め、世界平和に貢献し、新たな未来志向の証として、スワップ協議その他の速やかな再開、さらには経済交流の活発化を申し出る。
8:韓国政府と韓国人に対する国際的な評価に後押しされ、犠牲者を出してまで自国民を救出してくれたことに対する、日本政府の公的な謝意、などを総合評価するなら、日本政府からの協力の可能性は、飛躍的に高まると思われる。
9:そのためにも、日本の主要メディア、日韓議員連盟の皆さんには、日本国内の世論喚起に励んでもらうよう、プレシャーをかける。


 ざっと以上のような内容を説明した。驚きの反応は、まずまずだった。あくまでも映画のシナリオだと前置きしたが、現在の文在寅政権の動向を見ていると、この程度の自作自演シナリオは、現実的に実行に移せるのではないだろうか、との意見も付け加えた。


 今日は不覚にも、同じホームだったのと、勘違いがあり、乗るべき電車を1本逃してしまった、時間が切迫していたため、私にしてはかなり早歩きだった。そのせいか、帰宅したら、すっかり消耗してしまい、ブログに向かう記録も失せてしまった。

 しかし、習慣とは恐ろしいもので、いざキーボードを叩き始めると、いつものように集中力が甦ってしまった。

 このブログで、上記のシナリオを目にしたハリウッドのプロデューサーが興味を持ち、映画化したいと申し出てきたらどうしよう。タイトルはたった今、思い浮かんだ。「Korean Conspiracy/韓国の陰謀」である。

 もし映画化が実現し、ジャック・バウワーとクロエが出演するということにでもなったら、記念のため頭を下げて願いし、拉致された人質の一員として、私も出演させてもらおう。

 人質の身なので、クッキーもチョコレートも口にできず、甘いもの禁断症状に苦しむ高齢者の役なら、かなりの名演技ができそうな気がする。アカデミー脇役男優賞にノミネートされるかもしれない。(笑)

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by hirune-neko | 2019-05-16 00:52 | 創作への道 | Comments(0)

ちはや作【令和考・終章】時代を超越した鋭い考察〜その4

Japanese Koto 瀬音/Seoto (Sound of the Rapids) Composer/作曲 Michio Miyagi/宮城道雄
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*全4部作ですので、よろしければ上巻からお読みください。

●【令和考・終章】

[皆様へ 御注意]

 【令和考】シリーズを御訪問くださりありがとうございます。【最終章】を公開させていただきます。

 飽くまでも私個人による考えで書いたものです。不敬発言の数々に不快な思いをされる方があるかもしれません。

 どの様な内容でも構わないとおっしゃる方は、ご自分の責任の下に閲覧ください。 令和元年5月10日 ちはや 拝

  *  *  *  *  *

【令和考・終章】

『その辺りのことは、後ほど纏めてご説明します』

普:菊ーっ、そろそろ説明してくれーっ!俺様、ジレンマだぜーっ!
日:はいはい、では、説明する前に整理しましょうか。師匠が『何かに似ている』と思われたことを挙げていただけますか?
普:おー、 リストにしてみたぜ!

 ギルベルトは得意満面でリストを菊に差し出した。

日:さすが、師匠ですね、素晴らしいリストです!

 リストをざっと眺めて、菊は微笑んだ。


【リスト一覧】

①『簒奪王朝』
② 皇太弟
③ 我が子を天皇にしたい親心:ご優秀説の喧伝
④ 皇位が他に移ると都合が悪い既得権勢力
⑤ 宮子、出産後の心的障害(36年間)
⑥ 安宿媛の『立后』を巡る確執:長屋王の謀殺
⑦ 皇后になる資格のない安宿媛が皇后になった:藤原の血統維持=権力の維持
⑧ 我が子を天皇にしたい女たちのエゴと権力を手放したくない男たちのエゴ:天武朝滅亡
⑨ 皇統を丸ごと削除しても万世一系は変わらない:『嘘の皇統』
⑩ 女は怖い

A 天智天皇の娘たちが天武朝を仕切っていた:三人の皇女
B 天武朝ではなく、天智朝の続きのようだ
C 皇統を乗っ取ったはずなのに、天智天皇の手の平の上だった
D 大伴旅人の留守中に長屋王事件は起きた:皇宮警察・SP

 菊はギルベルトが作成したリストに二つの項目を付け加えた

【追加項目】

・ 4月1日
・ 5月1日

  *  *  *  *  *

日:では、順番に話し合って参りましょうか。
普:話し合うのか?
日:師匠のご意見もお聞きしたいので。
普:おう、任せろ!

 菊はリストの①を指差した。

日:一番に『何かに似ている』リストに『簒奪王朝』を挙げられたのは何故ですか?
普:それは菊が、新元号『令和』の出典である『花の宴』の時代的背景を説明をする前提として、天智天皇と天武天皇の系図に注目させ、天武朝は簒奪王朝であることを証明しようとしたからだぜ。そして、天武朝は約100年で滅び、正統な皇統である天智天皇の皇統に戻ったことに注目させようとしていたからだ。つまり、『令和』時代を語るには、『簒奪王朝』を前提としなければ語れないということだろう?
日:理解が深いですねぇ。

 菊はギルベルトの答えに深く満足した。

普:『令和』の皇室は『簒奪王朝』だということだな?
日:そう思わざるを得ないということです。

 はっきりと『是』とはしない菊をギルベルトは小さく睨んだが、相手が『禁裏』では曖昧に為らざるを得ないのだと理解した。そして、他のリストについても、曖昧な遣り取りになることを念頭に置いておくことにした。

日:次に②ですが…
普:『皇嗣殿下』は皇太弟だろ、皇太子だよな?
日:はい、ですが、天智朝の大海人皇子の『皇太弟』とは意味合いが異なります。
普:勿論、理解している。
日:では、③の『我が子を天皇にしたい親心:ご優秀説の喧伝』とは、天智天皇と大友皇子の件ですね。

『親心としては、我が子を天皇にしたいと思うのは無理からぬことで、大友皇子は母親の身分は低いが、大変優秀で天皇になる資格を十分に兼ね備えていると、唐の博士などを召して喧伝させています』

普:現在進行系で喧伝しているだろ、『愛子天皇待望論』。偏差値72だったか?スポーツ万能とか音楽も得意だとか、お美しいとか、メディアや雑誌を使って必死で喧伝しているじゃねえか。
日:念の為、天智天皇側は令和の皇室側ではありませんよ。
普:勿論、理解しているぜ、簒奪王朝の天武側な。

日:秋篠宮殿下や悠仁親王殿下というれっきとしたお世継ぎがいらっしゃるのに、女性天皇が俎上に上ることさえ許し難いことです。
旧皇族を含めれば、160名以上の皇位継承資格者がいらっしゃるのです。その事実を全く無視して『愛子天皇待望論』を喧伝するなど、『皇統の断絶』を目論んでいるとしか思えません。
普:④の『皇位が他に移ると都合の悪い既得権勢力』が背後にいるんだよな?

『皇位が天智天皇側から大海人皇子側に移ると都合の悪い近江朝廷の重臣たちが、大友皇子を担ぎ上げたことで、大海人皇子との衝突は避けられなくなったのです』

普:皇位を護るために武力衝突も有り得るのか?
日:当時は各氏族が私兵を持っていましたが、さすがに現在はないと思いたいのですけどね…
普:国民が暴動を起こす可能性は?
日:無いとは言えませんが、こればかりは何とも…
普:日本人てぇのは、そこまで愚かになっなのか?
日:……
普:…まあ、日本人が決めることだよな。
偽物でも有り難いならそれはそれでいいんだろ。
で、現在の皇室に巣食う既得権勢力ってぇのは何だ?
日:昭和時代はコミュンテル、共産主義勢力です。
平成時代は公明党・創価学会勢力に主導権を奪われたようですね。
普:欧州でも忌み嫌われているカルト宗教団体だな。
メンバーは特亜在日ばかりだったか?
新天皇の女房一族は創価学会のお仲間だったよな?
鳥居も潜れない女が皇后とは、お笑いだぜ!

 ケセセセセせー!
 ギルベルトは独特の笑い声で高嗤った。

日:…次の⑤『宮子、出産後の心的障害(36年間)』。
普:答えるまでもねえだろう。宮子は36年間だ、新皇后は何年だ?
まあ、後20年くらいは心の病気ですと言ってさぼっても問題なさそうだな?
日:はぁ…、そういうことになりますか…
普:次、⑥『安宿媛の立后を巡る確執:長屋王の謀殺』と、⑦『皇后になる資格のない安宿媛が皇后になった:藤原の血統維持=権力の維持』は一緒でいいな。

『聖武天皇と安宿媛の息子の基王が夭逝し、皇位が聖武天皇のもう一人の妻、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の息子である安積親王(あさかしんのう)に移るのを阻む為に、安宿媛を皇后に立てようとしたのです。
しかし、皇后には皇族が就くとの法令があり、臣下の娘である安宿媛は皇后にはなれない決まりでした』

普:皇后になる資格のない安宿媛が皇后になったってぇのは、新天皇の女房のことだと思ったんだが、『立后を巡る確執と長屋王の謀殺』とどう繋がるのかが不明だぜ。
日:上皇陛下の連れ合いのことですね。
普:上皇の連れ合いって、上皇后のことか?
日:今はリストを優先したいので詳しくは語りませんが、長屋王は昭和天皇に比せられるとお考えください。
普:昭和帝は謀殺されたってことか!?
日:師匠…

 菊が咎めるようにギルベルトを睨んだ。

普:あー、次な!
日:⑧『我が子を天皇にしたい女たちのエゴと権力を手放したくない男たちのエゴ:天武朝滅亡』。
普:簒奪王朝である天武朝が、藤原一族による天武系の皇子の謀殺という内輪揉めで滅んだように、現在の簒奪王朝も内輪揉めで滅びる可能性がありそうだな。
日:それは、どういう…?
普:上皇の連れ合い勢力と新天皇の連れ合い勢力の足の引っ張り合い潰し合いだな。それぞれの背後勢力は違うわけだから、利権権力の逆転にいつまで耐えられるか見ものだぜー。
日:その辺りに付け入る隙がありそうですね。
普:それにだ、足の引っ張り合い潰し合いは、特亜の連中の習性だぜ。
それも近視眼的に勝手に工作し合うから、あっちこっちに綻びが見えているだろ。秋篠宮殿下の『プチエンジェル事件・児童買春犯罪疑惑』とか、『精神病薬服用・アルコール中毒疑惑』とかは、新天皇側の疑惑だってバレているんだろ?
日:ええ…
普:だいたい、稚拙なんだよ。ネットで検証付きの疑惑が広がった後に、週刊誌を使って秋篠宮殿下の犯罪にすり替えるような姑息なことをすれば、却ってネットの噂が正しいと言っているようなもんじゃねえか。半世紀も前の手法なんて、ネット時代の今は通用しねぇって、本当に学習しねえ奴らだよな。
日:成功体験がどうしても忘れられないのでしょう。
普:と言うか、工作員のトップ連中が歳食ってんじゃねえか?ネット時代について行けねえというか、ネット時代の意味がわかってねえというか、呆けてんじゃねえか、それもまだら呆けみてえな?
日:こう言っては難ですが、些か迷惑な呆けですね。
普:まあ、敵の迷惑など心配してやる必要はねえけどな。
菊、次な?
日:⑨『皇統を丸ごと削除しても万世一系は変わらない:嘘の皇統』。
普:『令和』の皇統を丸ごと削除しても万世一系は変わらねえんだろ?
尤も、令和の皇統をどこからそう看做すのかはわからねえけどな?
日:天智・天武天皇の関係に倣うなら、『令和』からと考えるのが妥当でしょう。
普:ふーん…?
日:上皇陛下は皇統のお血筋には変わりないのですから。
普:昭和帝の血筋とは言わないんだな。
日:。。。……
普:…仕方ねえな、最後は?
日:⑩は…『女は怖い』?
普:怖えだろ!
日:確かに、昔も今も怖いですねぇ。

 クスクスと菊は笑う。


普:コーヒー入れてくるぜ。
日:おやつは水屋の中ですよ。
普:おう!

  *  *  *  *  *

A 天智天皇の娘たちが天武朝を仕切っていた:三人の皇女
B 天武朝ではなく、天智朝の続きのようだ
C 皇統を乗っ取ったはずなのに、天智天皇の手の平の上だった
D 大伴旅人の留守中に長屋王事件は起きた:皇宮警察・SP


普:A~Dについては、気になったので挙げてみたんだが、どう考えたらいいんだ?
日:A『天智天皇の娘たちが天武朝を仕切っていた:三人の皇女』については、皇女ではありませんが、高松宮喜久子様、秩父宮妃勢津子様、常陸宮華子様、三笠宮百合子様、秋篠宮紀子様が挙げられます。



・秩父宮勢津子[昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王の妃]
旧名は松平節子(まつだいら せつこ)
旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女
母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子

・高松宮喜久子[昭和天皇の弟宮・高松宮宣仁親王の妃]
旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)
徳川慶久[注釈 1]公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子女王

・常陸宮華子[昭和天皇の次男・常陸宮正仁親王の妃]
旧名は津軽 華子(つがるはなこ)
実父は尾張徳川家の出身で、弘前藩藩主津軽家の養子となった伯爵・津軽義孝
母は、長州毛利家の支藩長府藩主家出身の子爵・毛利元雄の長女・久子
戦後皇室に嫁いだ妃の中で唯一の旧華族家出身

・三笠宮百合子[昭和天皇の弟宮・三笠宮崇仁親王の妃]
旧名は高木 百合子(たかぎ ゆりこ)
高木家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武家で、江戸時代は河内国丹南藩1万石の大名であった
母・邦子は入江為守子爵の娘
2019年現在存命の皇族の中では最年長者であり、唯一の大正生まれである。

・秋篠宮紀子[皇嗣たる秋篠宮文仁親王の妃]
旧名は川嶋 紀子(かわしま きこ)
川嶋辰彦・和代夫妻の長女
父方の曽祖父、池上四郎は会津藩士・池上武輔の4男、250石取りの上級藩士

普:全員武家の血筋なんだな。
日:先祖は徳川家と会津藩の出身ですね。明治維新の時、会津藩は徳川家に最後まで武家としての恭順を示し、朝敵として薩摩・長州方と戦った誇り高い武家です。会津武士の誇りは今日も変わらず受け継がれているようです。
普:白虎隊とか娘子隊(じょうしたい)とか聞いたことがあるぜ。
日:会津の気概は妃殿下にも受け継がれていることでしょう。
普:武家の血筋の女たちが、天皇家を仕切っていると言いたいとのか?
日:仕切っていると言うより、護っていると言う方が正しいように思います。秩父宮勢津子様と高松宮喜久子様は鬼籍に入られましたが、昭和天皇の御代を支えて来られました。そのご意志は妃殿下の皆様に受け継がれていることと思います。
普:他にも宮家があったよな、もう一つの三笠宮とか高円宮とか?
日:名を挙げる必要もないでしょう。
普:成る程、要は藤原一派ってことだな。皇室に巣食って美味い汁を吸っている連中な?
日:おや、随分とあからさまですね。
普:菊が言えないことを言ってやっているんだ、感謝しろよ。
日:はいはい、感謝致しますよ。

 ころころと笑う菊を尻目にギルベルトはリストを指差した。

普:Bの『天武朝ではなく、天智朝のようだ』と、Cの『皇統を乗っ取ったはずなのに、天智天皇の手の平の上だった』は同じ括りと考えて良さそうだな?
日:今日に置き換えると、Bは『平成ではなく、昭和の続きのようだ』、Cは『皇統を乗っ取ったはずなのに、昭和天皇の手の平の上だった』となりますね。
普:武家の女たちを使って、昭和帝は何か仕掛けたか?
日:。。。……
普:菊、お前なぁ、肝心なことは黙りなんだな。
日:わからないのから答えられないのですよ。女には女にしかない武器があるとしか…
普:女にしかない武器…?
日:皇族方の写真を見ていて気づいたのです。でも、尋ねても答えてはくださらないでしょう。昭和天皇の御心に、皇后陛下や妃殿下が応えられたのだと…そして、それは、あの世まで持って行くつもりなのだと…
そう思うぐらいしか出来ないのです。
普:女にしかない武器な…、了解した。

 そう応えて、ギルベルトはリストを取り上げた。

普:Dは『大伴旅人の留守中に長屋王事件は起きた:皇宮警察・SP』だな。
日:師匠…、Dは後にしてもらってもよろしいですか?
普:ああ、じゃあ、菊が付け足した日付けの説明をしてくれるか?
日:はい、では…

  *  *  *  *  *

・4月1日 新元号発表
・5月1日 新天皇即位

日:4月1日に新元号が発表され、新しい御代が『令和』になることになりました。しかし、何故、4月1日だったのでしょうか?4月1日と聞くと何を思い浮かべますか?

普:あー、エイプリルフールか?

日:ええ、四月馬鹿ですね。日本でもエイプリルフールという言葉は、それなりに定着していますから、最初に聞いた時に何かしら違和感を感じました。4月1日は日本では年度替りになりますから、新しいことを始めるには区切りが良いという理由だったのかもしれません。そして、5月は正月、お盆に並ぶ大型連休ゴールデンウイークがあります。
日曜祭日を挟んだ数字の並びが良く、今年は10日間の大型連休となりました。4月30日で上皇陛下が退位し、翌日5月1日に新天皇即位というのは、区切りも良く、お祝いムードを高めるにも格好の選択だったのだと思います。
普:だが、お前としては、何か気に食わねえんだろ?
日:4月1日はエイプリルフール、これが頭を離れませんでした。
そして、新天皇が即位される5月1日は、水俣病の啓発記念日でもありました。


『水俣病啓発の日(5月1日 記念日)
1956年(昭和31年)のこの日、熊本県水俣市の保健所に市内の新日本窒素肥料(現:チッソ)水俣工場付属病院より原因不明の奇病が報告され、これがきっかけとなり水俣病が広く知られるようになった。
公害の水俣病を忘れない日にと2006年(平成18年)に記念日を制定。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。


■水俣病について
水俣病は、熊本県の水俣湾周辺で発生したメチル水銀中毒による慢性の神経系疾患である。熊本県水俣市にあった新日本窒素肥料水俣工場は、アセトアルデヒドの製造過程で出る工業排水を水俣湾に排出していたが、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、汚染されていることを知らずに摂取した住民の一部にメチル水銀中毒症が見られた。
当初は原因が分からず「奇病」と呼ばれていたが、地名から「水俣病」と呼ばれるようになった。日本の高度経済成長期に発生し、「公害の原点」ともいわれる。水俣病、第二水俣病(新潟水俣病)、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの4つは、「四大公害病」と呼ばれる。
水俣病の症状としては、四肢末梢神経の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、手足の震えなどがある。患者には、特異な神経症状を呈して意識不明や死亡する重症例から、頭痛や疲労感、耳鳴りなどの軽症例まで多様な形態が見られた。水俣病と認定された患者の数は約2,300人で、そのうち約1,800人が死亡した』


日:実は、雅子妃の母方の実家を江頭というのですが、この水俣病を引き起こした『新日本窒素肥料(現チッソ)』の社長・会長を務めていました。水俣病が発生した後の就任であった為、責任はないという意見もありますが、江頭豊の責任についてはこちらの資料を見てください。


【江頭豊の責任】

1.水俣病の原因が工場にあると知りながら稼働し続けた。
水俣病の原因がアセトアルデヒドの製造工程から出る有機水銀である事は、チッソ社内では周知の事実であったし、熊本大学により、それが証明されても、設備を稼働し続けた。

水俣病だけだと良く解らないが、新潟水俣病の年表を加えてみると、非常に良く理解できるのだが、江頭豊が社長に就任した翌月、1965・01・10、新潟水俣病の発生企業、昭和電工がアセトアルデヒドの生産を停止、製造工程図は消却、プラントは撤去してしまった。

これは昭和電工が「水俣病の発生原因はアセトアルデヒドのプラントから出る有機水銀である」と認識していた事を示している。しかし、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド製造設備の運転を停止したのは1968・05・18であり、新潟の水俣病患者が昭和電工を新潟地方裁判所に告訴し、「公害対策基本法」が成立した翌年であり、昭和電工がプラントを撤去、製造工程図を消却してから3年半後だった。

2.患者や家族に謝罪したが補償に応じようとはしなかった。

水俣病が公害病の認定を受け、江頭社長は1968・09・27から患者家族に詫びて回るが、具体的な補償案を出さないため、厚生省が調停にのりだした(1969・02)のである。

しかし、厚生省は患者側に「この補償処理委員会の結論には一切異議なく従う」との確約書提出を求め、患者側は一任派と自主交渉派に分裂した。困窮のどん底に置かれている患者と家族には、卑劣極まりない態度と言われてもやむを得ないだろう。

石牟礼道子『苦界浄土』あとがき:チッソ側はゼロ回答をもってこれにうそぶいている。第三者機関あっせんに、再び互助会が依頼した寺本熊本県知事に、江頭社長は「チッソとしては34年暮れの見舞金契約は有効、補償交渉はチッソの好意で行われており・・・「公正な審判に服する」というならとにかく、恐るべき厚顔無恥、わたくしたちにこの上まだ《ことば》がありうるであろうか、とわたくしは思い沈む。 www.google.co.jp (キャッシュ) 投稿-32

3.謝罪した後も悪質なデマを流し患者や家族を冒涜した。

チッソ水俣支社・東平総務部長がスウェーデンのジャーナリストに答えている「端的にいうなら彼らは海に浮かんだ死んだ魚を食べたんですよ。しかし、そんなことを裁判にもちだすのは難しいです。一般の人に相手側について悪い印象を抱かせることになります。まるで動物ででもあるかのようにね。

58年以後の病気の原因が、死んだ魚を食ったためなのか、水銀のためか解らんのですよ。58年以後に発病した人に限って言えば、それで補償金を貰えるなんて、有り難く思って貰いたいものです」(原田正純 『水俣病』p218、1971・07の話、詳しくは水俣病事件 )、自らの責任をごまかし、患者や家族に対するこの侮辱、何たる傲慢であろうか。

4.患者や報道カメラマンを暴力集団に襲撃させた。 (会長時代)

千葉県の五井工場に抗議に訪れた「自主交渉派」の水俣病の被害者やユージン・スミスら取材陣をチッソは暴力集団に襲わせた(1972・01・07)、ユージン・スミスは片目を失明するほどの重傷を負わされたのに告訴せず、時間とエネルギーを写真に向け、6年後に負傷からの後遺症が元になり、死亡した・・・スミスの志とそれを暴力で封じようとした人達の心根、対照的である。

[Taurosのインターネット案内-18]様のブログ
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普:犯罪のオンパレードじゃねえか!こんな奴の孫が、よく皇太子の女房になれたもんだな!?
日:一度婚姻話が持ち上がったことがあったのですが、昭和天皇はお許しにはなりませんでした。皇太子殿下と結婚されたのは、昭和天皇が崩御された後のことです。
普:リスト⑥の『安宿媛の『立后』を巡る確執:長屋王の謀殺』のところで、お前が『長屋王は昭和天皇に比せられるとお考えください』と言ったのは、この件に関係しているんだな?
そう言えば、菊は言ったよな?
                                                 
【令和考・上巻】
『日:これにより、大海人皇子に可能性を見い出だした鎌足は、若き中大兄皇子を唆して乙巳の変を引き起こしたように、大海人皇子に皇位簒奪を唆していたのではないかと考えています。首尾よく皇位簒奪が叶えば、蘇我一族のように後宮を支配し権力や財産を欲しいままにできる。
決して夢ではない、手の届くところに望むものがあるとしたら、後はその時を早めるだけ…
普:暗殺か?
日:時が定まり、668(天智7)年1月に天智天皇は即位されましたが、671(天智10)年12月3日に崩御されています。享年46歳。661年に母帝が崩御されて称制のまま政務を執られた期間は7年、即位してからは3年でした。胃癌で亡くなったとの見立てがありますが、密かに砒素を盛られていたと考えられなくもありません。何故なら、寿命が短かった時代ですよ。鎌足が希望を託した大海人皇子は天智帝より歳上です。
普:時間がなかった?
日:鎌足の時間もです』
普:犯罪者江頭豊の孫の結婚の邪魔をする昭和天皇を謀殺した、そう言うことか?
日:それもあるのかもしれません。しかし、大海人皇子勢力に比する者たちも視野に置く必要があるでしょう。
普:大海人皇子…?えっ、皇太子か!?
日:皇太子殿下の取り巻き…、⑩『女は怖い』ですよ。
普:ほう…

⑥ 安宿媛の『立后』を巡る確執:長屋王の謀殺
⑦ 皇后になる資格のない安宿媛が皇后になった:藤原の血統維持=権力の維持

普:新天皇の女房ではなく、上皇の女房とその一派が黒幕か。
日:当時、昭和天皇が長生きされたので、国民の間では、次の天皇の御代は大正時代15年間のように短いのではないかというのが一つのコンセンサスになっていました。皇太子殿下が60歳にもなろうというのに、皇位は巡って来そうにない。焦りがあったのかもしれません。
普:時間がなかったか。
日:女にとってもです。
普:女?
日:こう言っては難ですが、出産できる年齢です。
普:成る程、新天皇の女房、江頭の孫の結婚を急ぐ必要があったわけだ。
日:後宮に娘を送り込み、その子供が天皇に即位することで、天皇の外戚として権力を握り宮廷を欲しいままにする。蘇我一族や藤原一族が行なってきたことです。
普:そして、藤原一族が好き勝手してきた天武朝は、何が何でも権力にしがみつきたい藤原一族とその一派の野望によって、邪魔な長屋王一家を滅ぼし、『皇后になる資格のない女が皇后になった』。しかし、飽くなき権勢欲は、自滅の道をひた走ったってことだな。最後に残った藤原氏の皇女を二度に渡って天皇に即位させてまで権力に執着した。みっともないほど無様だな。『愛子天皇待望論』なんて、そのまんま藤原一族だぜ。
日:結果は見えているということですね。
普:で、上皇の女房一派てえのはどんな連中なんだ。
日:顔の特徴、ファッションや振る舞い、火病…まあ、そういうことです。
普:ああ、日本に寄生する半島の連中な。勿論、大陸も絡んでいるんだろうな。
日:大陸とは別勢力のGHQコミュンテルンの残党も、まだしがみついているようですよ?
普:成る程、カオスだな。
日:カオスですね。でも、だからこそ、付け入る隙もあるのですけどね。
普:つまり、菊は、4月1日と5月1日に、意図的瑕疵があると言いたいんだな?
日:さあ、本当のところはわかりません。日付けとして区切りが良かっただけ、ゴールデンウイークに絡めたかっただけ、の単純な理由なのかもしれません。
普:4月1日はエイプリルフール、堂々と嘘を吐いても咎められない日…?
日:。。。……
普:そうか、対外的なメッセージだったんだな!?新天皇のカウンターパートになる王国への!?『令和』の天皇は『嘘』『偽者』だ!そう伝えたんだな!?
日:新元号が何になるか、日本国内はその話で持ち切りでした。皇統を破壊したい連中やシンパのメディアが良くも悪くも煽り立てた。外国メディアも気にせざるを得なくなる。日本政府が取り立てて宣伝しなくても、安倍政権を引き摺り下ろしたい反日勢力は、勝手に世界に宣伝してくれたのです。そして、焦らしに焦らした曰(いわ)くの4月1日、欧米ではエイプリルフールのその日に、新元号『令和』は発表されました。
普:もしも、菊の見立てが正しいなら、安倍総理は凄い策士だぜ!
日:日本は『言霊』の国です。

【言葉の響きにこそ意味がある】

普:『令』は『零』。ゼロにする、元に戻す、そういうことだな?
日:はい、『簒奪王朝』を終わらせ、正しい皇統に戻す。それが『令』の隠された意味だと思います。
普:『和』は?
日:日本の初めての憲法をご存じですか?
普:確か、聖徳太子の『十七条憲法』だったか?
日:はい、実は、『十七条憲法』は廃止されていないのです。西暦604年に制定されてから2019年の今日まで、『十七条憲法』は日本人の憲法で有り続けているのです。


【十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)とは、推古天皇12年(ユリウス暦(西暦)604年)に聖徳太子(厩戸皇子)が作ったとされる、17条からなる法文】


【一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。

三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。

四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる(略)】


日:『和を以て貴しと為し』604年からこの方、皇統と共に絶えることなく受け継がれて来た『和の精神に立ち返ろう』そう国民に呼び掛けているのだと思います。
普:『令』は外国の王国への呼び掛け、『和』は日本の国民への呼び掛け。凄いな…、本当に凄い宰相だな。プロイセンのビスマルクを彷彿とさせるような本物の宰相だぜ。
日:そして、もう一つの『令=零』。

【皇統=日本国】

日:簒奪王朝を『零』にし、皇統を取り戻すことは日本国を取り戻すことと同義です。新元号『令和』以ってして、安倍総理は宰相としての覚悟を示したのです。そして、日本国民にも覚悟を促したのだと思います。
普:『戦後レジームからの脱却』その精神は失われていなかったんだな。
日:本物の大和男子(やまとおのこ)です。
普:ああー、感動しちまったぜー!
日:フフ、私もですよ。
普:残るは5月1日だな。こっちはどういう隠れた意図があるんだ。
日:ああ、そっちは、『呪』を掛けたのかな、と思っただけなんですけどね。
普:ジュ?
日:『呪』、御呪いのことです。
普:おまじない?
日:言霊の一種と言っていいのかは疑問ですが、『言葉による因果を込めた』とうことですね。
普:あー、つまり?
日:5月1日は『水俣病啓発の日』なのです。
普:あっ、そういうことか!
日:そして、『令』は『霊』でもあるのですよ。
普:『霊』…
日:水俣病で苦しみながら理不尽に死んで行った人々の『霊』。その『霊』が、5月1日に即位した新天皇と皇后の御代の、『因果』となるよう『呪』を掛けたのではないか…そう、私には思えたのです。
普:。。。……
日:飽くまでも、私個人の考えですから、そう深刻に捉えないでいただけますか。
普:いや…、いやいや、そうだとしたら…お前ん家の宰相、恐ろし過ぎるぜ!
日:飽くまでも私の考えです、そこをお間違えなく。
普:何か肝が冷えちまったぜ。
日:私も似たような思いでしたよ。でも、為(し)て遣ったり、の気持ちの方が大きかったですけどね。
普:それだけ怨(うら)みが深いってことだよな…?
日:真実を知れば…
普:なあ…?
日:はい?
普:上皇の女房と取り巻き黒幕一派が好き勝手していた平成時代は、『簒奪王朝』の天武朝に比していいんじゃねえか?
日:ええ、そう考える方が正しいのかもしれませんね?
普:天武朝は97年で滅びた。『簒奪王朝』平成・令和時代はもっと早く滅びそうだな。
日:万万が一、愛子内親王が即位したとしても、その先はありません。
普:無いのか?
日:あってはならないのですよ。
普:あってはならない?
日:はい、あってはならないのです。

 菊は厳しく張り詰めた面差しでギルベルトを見つめ返すと桜色の唇に薄く微笑を刷いた

それが
我が皇統が
二千年以上の永きに亙って続いてきた理由だからです

令和元年(2019)5月10日 14時00分 投稿  ちはや記

【主な参考文献】

■水俣病-江頭豊のしたこと: 雅子妃の祖父 | 護国夢想日記
ameblo.jp

■十七条憲法 - Wikisource
ja.m.wikisource.org

*最後までお読みくださり、有難うございました。
 大変お疲れ様でした。世の中は、決して平板ではなく
 複雑な要素が錯綜しているのでしょうね。
 しっかり目を見開いて行きたいと思います。
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by hirune-neko | 2019-05-11 02:43 | 創作への道 | Comments(4)

ちはや作【令和考・下巻】時代を超越した鋭い考察〜その3

Japanese Koto 落葉の踊 / Ochiba no Odori (Dance of the Falling Leaves) Composer / Michio Miyagi
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●【令和考・下巻】

[皆様へ]
【令和】シリーズの応援をありがとうございます。

 下巻で終わらせたかったのですが、肝心な話が書けませんでしたので、もう一章おつき合いください。
 【下巻】は『長屋王の変』の話です。お楽しみくださいとは言い難い固い内容で、ほとんど歴史の勉強をし直しているようなものですが、この部分を通らないと、【令和考・中巻】のラストの台詞に辿り着けなくなります。

普:なあ、菊。
さっきの話、何かに似てねえか?
日:…似ていますねぇ。

 嗚呼、『令和』とは、そういうことだったのか!

 この下巻の中に、『令和』に辿り着く為の手懸かりが幾つか隠されています。似ている何か…

 皆様は手懸かりを幾つ見つけられたでしょうか?

  *  *  *  *  *


■長屋王の変

長屋王の変当事者1:長屋王
当事者2:藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)
当事者3:
時代:奈良時代
年代:721年(養老5年)1月1~729年(神亀6年)2月12日
要約:長屋王が藤原不比等亡き後の朝堂の首座となるが、藤原氏の独走(藤原氏の皇后冊立)に反対したため藤原氏に陥れられ長屋王の変の首謀者として抹殺される。
内容:長屋王は、721年1月に藤原不比等の後を受けて右大臣となり朝堂の首班となる。長屋王は壬申の乱の英雄である高市皇子の子である。高市皇子は母の身分が低かった為(持統天皇の策謀により)、天皇とはなれなかったが、極めて天皇に近い位置にいた。その子息である長屋王の政権である。(但し、舎人親王が知太政官事として牽制していたが)


【長屋王の変】

 729年(神亀6年)2月10日、在京の人従七位下塗部君足と無位中臣宮処東人が、朝廷に当時廟堂の最高官であった左大臣長屋王を訴えた。ひそかに左道を学んで国家を傾けようと謀っているという。そこで朝廷ではその夜、式部卿藤原宇合の指揮のもと六衛府の兵をもって長屋王の邸をかこませた。翌日、舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂が窮問に行き、次の日に王を自殺させた。妃吉備内親王および膳夫王ら子息は王と共に自尽し、与党と噂された上毛宿奈麻呂ら97人が捕らわれ、うち7人が流罪となった。

 最高執政官がたった二人の下級役人の密告で即日邸宅を包囲され、謀反の計画や王の弁明も明らかにされず数日で自殺させられるのは不自然である。さらに738年、密告者中臣宮処東人は、かって長屋王に仕えて恩遇を蒙っていた大伴子虫と囲碁に興じた。ところが長屋王の事に及んだとき、子虫は憤激し、駕り、剣を抜いて東人を斬殺したという。そして「続日本紀」は東人は王を誣告(嘘の申告)した人と紹介している。


■なぜ長屋王は突然政界から葬られたのか?

 この事は当時の藤原氏の焦燥に関わりがある。727年、聖武天皇の夫人となった不比等の娘安宿媛が基王を生んだ。そして僅か一ヶ月余りで立太子した。藤原氏の外戚確保の策は計画通りであった。しかし翌年、基王は満一歳にも成らずに死亡した。ところが今度は聖武天皇の夫人県犬養広刀自に安積親王が生まれた。そこで藤原氏は安積親王の立太子を妨げ、権勢を保つため、光明子の皇后冊立を考えた。だが古来より皇后は皇族がなり、それは令の定めでもあった。それは皇后は天皇を輔けて国政に関与し、情勢次第では即位し天皇となる可能性を持つ地位であった。

 強硬に立后反対を唱えたのが、藤原一族の伸長をを嫌う長屋王であった。724年に即位した聖武天皇は、勅して母藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈った。すると長屋王は、先勅には大夫人とあるが、令では皇太夫人である。勅に従えば令に背き、皇の字を削って、令に従えば遺勅になると奏した。聖武天皇は勅を撤回し、文では皇太夫人とし、言葉は大御祖(おおみおや)とせよとした。勅は本来令の規定に優先する。だが長屋王はあえて若い天皇を牽制し、藤原氏の特別扱いに一矢を報いた。

 過去にこうした経緯のある長屋王が、光明子の立后という前代未聞の挙に首肯する筈がない。猛然たる反撥が予想された。反対を未然に防ぐために、長屋王の変は仕組まれた芝居であった。
長屋王の変から半年後の729年(天平1年)8月10日、光明子は臣下の娘として初の皇后となった。

  *  *  *  *  *

日:これらの資料により、『梅の宴』の凡その時代背景は理解できたと思います。
普:長屋王(ながやのおう)についてもう少し詳しく説明してくれないか?
日:はい、承知しました。
長屋王の祖父である天武天皇は 10人の妻女との間に10人の皇子と7人の皇女を儲けていました。天武天皇の長子を高市皇子と言い、長屋王の父親になります。高市皇子の母親は尼子娘(あまこのいらつめ)で、地方豪族の娘である采女として後宮に仕えていたのではないかと思われます。天武天皇の時代の妻女の身分は、皇族クラスは皇后や妃、中央の豪族や有力氏族クラスは夫人、地方豪族クラスは采女に分けられていました。因みに、天智天皇の時代は、皇族クラスは皇后や妃、中央豪族クラスは嬪、地方豪族クラスは采女の身分があり、采女の内でも子供を産んだ采女は宮人と呼ばれていました。
普:高市皇子の母親は采女だから、妻たちの中では身分が低かったんだな。
日:高市皇子は天武天皇の長男でしたが、母親の身分が低い為に天皇になる可能性はほとんどありませんでした。壬申の乱が起こった原因の一つに、天智天皇の長男であった大友皇子の母親の身分が低かったことが挙げられます。天智天皇の妃や嬪に皇子がおらず、当時の慣習では采女クラスの皇子を皇太子に立てることは難しかったのです。表向きは天智天皇の弟であった大海人皇子(天武)が、皇太弟として皇太子の立場と見做されていました。しかし、親心としては、我が子を天皇にしたいと思うのは無理からぬことで、大友皇子は母親の身分は低いが、大変優秀で天皇になる資格を十分に兼ね備えていると、唐の博士などを召して喧伝させています。
普:あれ、それって…
日:それはまた後ほど。天智天皇は現在の滋賀県、当時は近江と呼ばれていた地方で即位したので、天智天皇の宮廷は近江朝廷と称されていました。皇位が天智天皇側から大海人皇子側に移ると都合の悪い近江朝廷の重臣たちが、大友皇子を担ぎ上げたことで、大海人皇子との衝突は避けられなくなったのです。
普:なあ、それって…
日:師匠、その辺りのことは、後ほど纏めてご説明します。
普:おう、わかった。
日:寄り道が過ぎましたね。母親の身分が低ということで、長屋王の父親である高市皇子は皇位には就けなかったものの、天武天皇の長子として壬申の乱で活躍した功績もあり、政(まつりごと)の場では重んじられていました。


■高市皇子
696持統10年7月10日薨去 (日本書紀)
654白雉5年生?~696持統10年7月没 43歳?(扶桑略記 他)
661斉明7年生 ~696持統10年7月没 35歳 (本稿での主張)
父 天武天皇
母 尼子娘 胸形徳善の娘
妻 御名部皇女 天智天皇皇女。一代要記に長屋王母とある。
夫持娘 本朝皇胤紹運録に長屋王の母とある。御名部皇女のことか?
十市皇女 万葉集
但馬皇女 万葉集
子 長屋王 684天武13年生~729神亀 6年没 46歳(扶桑略記など)
鈴鹿王 690持統 4年生~745天平17年没 56歳(本稿)
矢通王?(一代要記に「大津皇子將謀叛賜死」とある)


■長屋王
684天武13年生まれ~729神亀6年没 46歳
(扶桑略記、一代要記、公卿補任等)
676天武 5年生まれ~729神亀6年没 54歳(懐風藻)
父 高市皇子
母 御名部皇女 一代要記 に「母近江朝天皇女御名部皇女」とある。
夫持娘 本朝皇胤紹運録に「母夫持娘。御名部親王女」とある。
妻 吉備内親王 草壁皇子と阿閇皇女(後の元明天皇)との子
子 膳夫王(かしわで)、桑田王、葛木王、鉤取王ら 729年没
(以下略)


普:長屋王の母親は一応御名部皇女「(みなべのひめみこ)でいいのか?
長屋王の妻は、母親の妹の阿閇皇女(あへのひめみこ)、後の元明天皇と皇太子草壁皇子(くさかべのみこ)の娘の吉備内親王(きびのないしんのう)。妻の父親の皇太子草壁皇子は、天武天皇と皇后の*野讃良皇女(うののささらひめみ)、後の持統天皇(じとうてんのう)の皇子。 (*慮+鳥)
母親の御名部皇女と元明天皇は同母姉妹で、持統天皇は異母姉で…、全員天智天皇の皇女か…あー、ややこしいー!

 皇統譜を見比べながら、人間関係を把握しようとギルベルトは四苦八苦していた。

日:こちらは藤原不比等の息子で藤原四兄弟です。長屋王を謀叛の罪で自殺に追い込んだ首謀者です。

 菊は更に資料を追加した。


■藤原四兄弟
藤原不比等の息子
長男 藤原武智麻呂(むちまろ)(680-737)
二男 藤原房前(ふささき)(681-737)
三男 藤原宇合(うまかい)(694-737)
四男 藤原麻呂(まろ)(695-737)
武智麻呂→藤原南家の始祖
房前  →藤原北家の始祖
宇合  →藤原式家の始祖
麻呂  →藤原京家の始祖


普:お前、無情だな!

資料の束を手に、ギルベルトは恨めしげに菊を睨んだ。

日:何をおっしゃるやら、あなたが説明してくれとおっしゃったんじゃありませんか。資料はこれで終わりですから、ちゃんと見てくださいね。

普:うーっ…

日:では、天武天皇の系図を見ていただけますか。説明しますので目で追ってください。皇后持統天皇との子供に草壁皇子と、その妻元明天皇の名前を確認できると思います。二人の子供に元正天皇(げんしょうてんのう)、文武天皇(もんむてんのう)、吉備内親王の名前が確認できますか?元正天皇は文武天皇の姉で、吉備内親王は妹で長屋王の妻です。文武天皇の妻に宮子の名前が確認できると思います。
普:確認した。
日:宮子は藤原不比等の娘です。
次に、文武天皇と宮子の子供に聖武天皇(しょうむてんのう)と妻の藤原安宿媛(あすかべひめ)、後の光明皇后(こうみょうこうごう)の名前が確認ができると思います。安宿媛も不比等の娘です。二人の子供に孝謙・称徳天皇(こうけん・しょうとくてんのう)と基王(もといのおう)が確認できると思います。基王は異例中の異例で、生後わずか32日で皇太子に立てられ、翌年生後1年に満たずして夭逝しています。
普:確認した、ここで天武天皇の系図は終わりだな。
日:はい、系図上の説明は以上です。さて、藤原不比等の娘、宮子と安宿媛ですが、宮子は聖武天皇を出産した後、心的障害に陥り36年間病が癒えぬままでした。長屋王の謀殺の原因になったのが、安宿媛の『立后』を巡る確執にありました。聖武天皇と安宿媛の息子の基王が夭逝し、皇位が聖武天皇のもう一人の妻、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の息子である安積親王(あさかしんのう)に移るのを阻む為に、安宿媛を皇后に立てようとしたのです。しかし、皇后には皇族が就くとの法令があり、臣下の娘である安宿媛は皇后にはなれない決まりでした。
そこで、立后に反対するのが確実な左大臣長屋王を排除する為に策を弄し、夭折した基王を呪詛したとして謀叛の罪を着せたのです。


【724年に即位した聖武天皇は、勅して母藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈った。すると長屋王は、先勅には大夫人とあるが、令では皇太夫人である。勅に従えば令に背き、皇の字を削って、令に従えば遺勅になると奏した。
聖武天皇は勅を撤回し、文では皇太夫人とし、言葉は大御祖(おおみおや)とせよとした。
勅は本来令の規定に優先する。だが長屋王はあえて若い天皇を牽制し、藤原氏の特別扱いに一矢を報いた。
過去にこうした経緯のある長屋王が、光明子の立后という前代未聞の挙に首肯する筈がない。
猛然たる反撥が予想された。反対を未然に防ぐために、長屋王の変は仕組まれた芝居であった。
長屋王の変から半年後の729年(天平1年)8月10日、光明子は臣下の娘として初の皇后となった 】


日:『長屋王の変』と呼ばれているこの事件で、長屋王、吉備内親王と子供たち(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)が亡くなっています。
普:権力争いは熾烈で非情だが、子供が連座したのは痛ましいな。
日:この後、737年に九州で天然痘が流行し、それは瞬く間に都にも及び、藤原四兄弟は相次いで亡くなりました。長屋王の変の8年後の事でした。巷では長屋王の祟りではないかと怖れたそうです。
普:一度に兄弟全員死んだのか。神は藤原一族にも罰を下していたんだな。
日:お天道様が見ていますから。
普:ああ、納得した。

 ギルベルトは再び、菊が説明した通りに天武天皇の系図を目で追い、ぽつりと呟いた。

普:侮れないな…
日:…?

 首を傾げた菊に、苦笑まじりにギルベルトは言った。

普:…女は怖いって事だ。
日:はあ、まあ…?
普:一言で言えば、天武天皇亡き後の天武朝は、天智天皇の娘たちが仕切っていたってことだな。天武朝と言うより、天智朝の続きみたいだよな。
日:本当はそうだったのかもしれませんね。そして、自分の息子を皇位に就けたい女たちのエゴと、天皇の外戚として権力を我が物としたい藤原一族の男たちのエゴによって、天武朝は滅んだと言っていいのかもしれませんね。
普:天智朝を乗っ取ったはずなのに、結局は天智天皇の手の平の上だったってことか。結果から見ると、天武朝っていったい何だったんだろうな?
日:天武朝の皇統を丸ごと削除しても万世一系の皇統に変わりはない。
それが、答えですよ。
普:つまり…、『嘘の皇統』ってことか?
日:さすがは師匠、鋭いですね。
さて、それでは、梅の宴の主役である大伴旅人(おおとものたびと)ですが…


【梅の宴】
梅花の宴は、730年(天平2年)正月13日に、今の福岡県、大宰府にあった万葉集を代表する歌人、大伴旅人の邸宅で催された。
太宰府展示館によると、当時、九州全体を司る役所が太宰府にあり、大伴旅人はそのトップとして派遣されてきた「中央官僚」だった。
彼を中心に優れた歌人としても知られた山上憶良ら計32人が集まり、酒に酔い、邸宅に咲き誇った梅の花をめでたという。

■大伴氏
 『大伴氏は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏(ともうじ)に改称。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。
 摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)
 「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。
 また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。
 なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた』


日:大伴旅人は武人として左将軍や大将軍を務め、天皇からも信頼の厚い人物だったようです。左大臣であった長屋王とも親しかったようですね。そして、旅人が太宰府に遣わされた翌年に長屋王の変は起こっています。
普:大伴旅人はわざと遠ざけられたってことか?
日:当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事との見方もあるようですが、余りにもタイミングが良すぎるように思います。やはり、謀(はかりごと)と考えるのが自然でしょう。
普:長屋王の変の翌年正月に、梅の宴は催されたんだな。
日:長屋王一家の死を悼んで…、かもしれませんね。冤罪とは言え、謀叛の罪により死を賜ったわけですから、公には偲べなかっなのでしょう…

  *  *  *  *  *

時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。
しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。
 庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。
言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。
淡然自ら放し、快然自ら足る。
もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。
よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。

□令和元年(2019)年5月8日 0時30分 投稿 ちはや記

ー…ー…ー

【主な参考文献】

■長屋王の変1
www.page.sannet.ne.jp

■天武天皇の年齢研究-系図・妻子一覧
www7a.biglobe.ne.jp

*下巻をお読みくださり、有難うございました。
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by hirune-neko | 2019-05-11 02:35 | 創作への道 | Comments(0)

ちはや作【令和考・中巻】時代を超越した鋭い考察〜その2

Japanese Koto さくら変奏曲/Sakura hensokyoku(Theme and Variations on the Sakura Melody)
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●【令和考・中巻】

普:おーい、 菊ーっ! 菊ーっ!

 翌朝、菊が朝食の準備をしていると、ギルベルトが賑々しく菊を呼んだ。

日:はい、師匠?
普:面白いコメントが来ているぜ。

 菊が顔を覗かせると、ギルベルトは嬉々としてノートパソコンの画面を菊の方に向けた。

 『高向王の両親については聖徳太子とその異母妹・酢香手姫皇女(斎宮)説、田目皇子と間人皇女説がありまして、確かにどっちも純血の皇族なんですが公にし辛いですね。前者は母が神聖な斎宮、後者は義理の母子なので…。
 漢皇子=天武だと仮定すると漢一族に養育されたことになるので、その辺りの背景事情も気になる所ですね』
(令和考・上巻のコメントより)

日:これは…、でも、何故?
普:昨夜、菊が話してくれた事を忘れねえように、纏めて俺様日記に載せておいたんだぜ。見返してみたら、コメントが来ていた。さすが俺様、人気者だぜ!
日:何とも興味深い…、痛いところを突かれましたね…
普:このコメントの説明をしてくれるよな?
日:かなり遠回りになりますが、それでもよろしいですか?
普:おう、勿論だぜ!
日:では、朝食を済ませてしまいましょう。

  *  *  *  *  *

 朝食の後、菊の要望でコーヒーを入れたギルベルトは、わくわくしながらノートパソコンを開いた。

日:先ず、聖徳太子と酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)の説明からしましょうか。皇統譜の用明天皇の系図を見ていただけますか、子供に聖徳太子の名前があると思います。
普:聖徳太子か…、おっ、見つけたぜ。
日:では、その系図を遡ってください。
普:蘇我稲目宿禰(そがのいなめすくね)で行き止まりだ。
日:では、もう一度、用明天皇の系図を見ていただけますか?子供に酢香手姫皇女の名前があるので…
普:おっ、見つけた!遡ると…、葛城直岩村(かずらぎのあたいいわむら)か。
日:葛城氏は葛城王朝説が唱えられるくらい古くから力のあった一族で、五世紀頃が最盛期と言われています。我が国では大和時代に相当し、古墳が数多造られた時代でもあったことから古墳時代とも呼ばれています。天智・天武天皇の頃は明日香の地を中心として栄えたので明日香時代と呼ばれています。もうこの頃は、葛城氏の力は衰えていましたが、名門であることには変わりありません。そして、蘇我氏というのは、葛城氏の別れなのです。系図にある蘇我稲目宿禰はなかなかの遣り手で、後宮に娘たちを送り込み、後の蘇我一族の繁栄を築いた人物です。
普:ということは、聖徳太子も葛城氏系ってことか。
日:そして、天智天皇は葛城皇子とも呼ばれています。当時は乳母、或いは後見人になった氏族の名前で呼ばれることが多く、天智天皇は葛城氏が後見人になっていたと考えられます。葛城氏の子供たちである乳兄弟は将来の片腕となり、葛城氏の私兵は皇子の私兵ともなって皇子を守ります。生涯に亙る強い絆で結ばれることになるのです。
普:つまりどういうことになるんだ?
日:仮に、高向王が聖徳太子と酢香手姫皇女の子供だとしたら、天智天皇とは氏族を同じくする義兄弟のようなものです。高向王の息子の漢皇子(天武)は、実際に腹違いの義兄弟だったわけですが、天智天皇が4人もの娘を嫁がせて誼みを通じる必要があったということは、決して近しい関係ではなかった、警戒すべき人物だったということではないかと思います。
普:成る程な。
日:そして、一番の疑問は、高向王が葛城氏の一族であったなら、壬申の乱の時に葛城氏が天武天皇(漢皇子)を後援しなかったのは何故なのかということです。実際、葛城氏は壬申の乱の後に没落しています。
普:確かに、権力を握ったら、自分の一族を取り立てるのが普通だよな。聖徳太子・酢香手姫皇女説は否定か…
日:記録がない以上、否定はし切れませんし、そうした説があるということは、そういう噂があったということでもありますからね。
普:火の無いところに煙は立たないって言うからな。次は、田目皇子(ためのみこ)と間人皇女(はしひとのひめみこ)だな。二人は義理の母子みてえだが、この時代、腹違いの兄弟姉妹は結婚できたんだよな?義理の母子でも結婚できたのか?
日:古代には父の妻を娶るということは、そう珍しいことではなかったようです。確か、9代の開化天皇(かいかてんのう)は、父の妻を娶って崇神天皇(すじんてんのう)が生まれています。
普:へえー…
日:さすがに明日香時代の頃は、眉を顰める事態だったとは思いますが?さて、その田目皇子ですが、母親は蘇我稲目宿禰の娘の石寸名(いしきな)です。田目皇子は用明天皇の長子だと思われますが、用明天皇は田目皇子を我が子とは認めていなかったと言われています。
普:女房が浮気したってことか?
日:通い婚の時代でしたから、父親が知らない夫がいたのかもしれませんね。用明天皇とは政略結婚で、気に沿わない結婚だったのかもしれません。石寸名との間の子供は田目皇子だけですから、用明天皇も余り関心を持っていなかったのかもしれませんね。
普:お互いに気に沿わない結婚だったのなら気の毒だな。
日:そういう時代でしたからね。でも、石寸名(いしきな)は蘇我氏の娘で資産家でしたから、夫が無関心でも生活には困らなかったのではないかと思います。
普:うん?
日:実は、田目皇子と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が結婚したのは、それが理由だったのではないかと考えられるのです。
普:田目皇子の母親は資産家だったってことだから…
日:はい、田目皇子はお金持ちだったのです。母親と4人の子供を引き取っても何不自由なく養って行けるくらいに。
普:でも、間人皇女は用明天皇の皇后だったんだろ?暮らしに困ることなんてあるのか?
日:用明天皇の即位年数は2年ほどなのです。蘇我一族の皇子ですから、蘇我稲目宿禰の息子の馬子(うまこ)が後見人であったはずなのですが、どうも小姉君(おあねのきみ)系の子供たちとは仲が余り良くなかったようなのです。
普:小姉君?
日:蘇我稲目宿禰が29代欽明天皇(きんめいてんのう)の後宮に送り込んだ娘は、小姉君と堅塩媛の2人です。欽明天皇は堅塩媛を寵愛して13人の子供を儲けており、用明・推古(すいこ)天皇がいます。小姉君とは5人で、間人皇女・崇峻(すしゅん)天皇の他に3人の皇子がいましたが、一番有力と目されていた間人穴穂部皇子(はしひとのあなほべのみこ)は謀殺されています。蘇我氏の系図では、馬子・堅塩媛・小姉君の関係がよくわからないのですが、もしかすると馬子と堅塩媛は同母兄姉で小姉君は異母兄姉なのかもしれません。
普:有りがちだな。
日:まだ十代と思われる聖徳太子を筆頭に4人の子供を抱え、未亡人となった穴穂部間人皇女は生活に困窮することになったのだと思います。
頼るべき兄弟はなく、再婚するにしても皇女が臣下に嫁ぐなど考えられず、ましてや穴穂部間人皇女は皇后でもあったわけです。それなりに相応しい相手となると…、難しかったかもしれませんね。そして、そこに持ち上がったのが田目皇子との再婚話しで、推古天皇の勧めだと言われています。
普:育ち盛りの4人の子供を抱えては背に腹は代えられず、世間的には夫の子供である義理の息子との結婚を承諾したってことだな。
日:遠回りをしましたが、仮に、高向王の父親が田目皇子と穴穂部間人皇女の子供だったとしても、田目皇子が用明天皇の息子とは認められていないわけですから、皇統の血統に疑問符がつきます。ただ、乙巳の変(大化改新)の敵役は、蘇我馬子の息子と孫の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)一族でしたから、蘇我馬子系と知られるのは危険だと判断し、父親の名前を隠したと考えられなくもありません。
普:敵の生き残りだとすると、大化改新の立役者の下では生きにくいかもな?結局どちらの説も玉虫色ってことか。
日:記録がない以上、どの様な説を並べようと仮説にしか過ぎませんからね。
普:でもな、わざわざ『用明大王の孫』と付け足しているのが、却って怪しいんだよな。その一言がなければ、疑われずに済んだのに、その一言がある為に、怪しんでくださいと言っているようなものだろう?
日:まあ、そうですね。無理に正当化しようとしているように見えなくもないですね。
普:日本書紀を編纂したメンバーは、なんでああいう書き方をしたんだろうな?
日:…彼らなりの良心かもしれませんね?

 さあ、一休みしましょう、と言って菊は御厨へと立って行った。

  *  *  *  *  *

(コメント)

『漢皇子=天武だと仮定すると漢一族に養育されたことになるので、その辺りの背景事情も気になる所ですね』

普:確か、皇子たちは乳母や後見人一族の名前で呼ばれるんだよな?
日:必ずしもそうとは言えませんが、大方はこのコメントに書かれている通りですね。
普:この『漢』って、Chinaと関係があるのか?
日:漢(あや)氏は秦(はた)氏と並ぶ朝鮮半島からの二大渡来氏族と言われています。


■漢氏
 『阿知使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点とした。大和に居住する漢氏は東漢氏(東文氏)となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏(西文氏・西書氏)となった。
織物工芸に長けていたため、両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませている。
 n東漢氏の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している。
『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたことを記している。
系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる』

■秦氏
 『「新撰姓氏録」によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでない。
秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化したという説もある』


普:秦氏はユダヤ人説があったよな?
日:よくご存じですね。
普:しかし、漢氏も秦氏も出自を詐称しているんだな。
日:異国で生きて行く為の方便と見逃してやってください。
普:つまり、漢皇子(あやのみこ)は半島からの渡来人一族に育てられたってことか。
日:蘇我馬子の配下に東漢氏がいたようですから、高向王の父親は蘇我系の皇子と考えてもいいのかもしれませんね。
普:コメントの『背景事情』って何だ?
日:コメント主の意図していることとは異なるかもしれませんが…
遣隋使・遣唐使と言って、推古天皇の時代から船で大陸の隋や唐と交易をしていたのですが、天武天皇の時代になってからは大陸との関係が薄れ、半島との交易が盛んになっています。
普:ああ、そういうことか。半島系が皇位を乗っ取ったってことだな?
日:はい、ですから、天武天皇は漢皇子である可能性が高く、その血統には疑いがあるわけです。
普:だから『簒奪王朝』なのか。
日:しかし、神々は天照大神の子孫ではない者の皇位簒奪をお赦しにはなりませんでした。天武朝は後宮を支配した藤原一族の飽くなき権勢欲によって、天武天皇の皇統は断たれ滅亡へと追い込まれたのです。皇統は天智天皇の子の施基皇子(しきのみこ)の子である白壁王(しらかべのおう)・第49代光仁天皇(こうにんてんのう)へと引き継がれ、本来の正しい皇統に戻ることになったのです。そして、天武朝の滅亡の原因となった藤原一族は、その後も閨閥によって千年の栄華を誇ることになります。
普:それ、変じゃねぇか?菊の説だと藤原鎌足が天武天皇を唆したんだよな?なのに何故、藤原一族は滅ぼされることなく栄華を誇ることになったんだ?
日:鎌足の後に藤原一族の栄華を築いたのは、息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)ですが、彼は天智天皇の御落胤説があるのです。不比等の母親は車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)で、後宮の采女(うぬめ)だった可能性があります。その御落胤説の元となったのが『竹取物語』です。
普:かぐや姫の話だったか?
日:はい、おっしゃる通りです。古事記・日本書紀の編纂に寄与したとされている記憶の天才『稗田阿礼(ひえだのあれ)』が書いた物語ではないかと推測されています。物語は、竹から生まれたかぐや姫が、3人の男たちの求婚を機知によって退け、故郷の月に還って行くというものです。実際には、宮廷を乱し謀略を企む者たちを非難し訴えるものなのです。求婚者に車持皇子(くるまもちのみこ)という狡猾な人物がいるのですが、それが不比等だと言われています。
普:不比等の母親と同じ名前の皇子か、成る程な。鎌足とは関係のない血筋、天智天皇の血統だったから赦されたのか…
日:釈然としない思いは残りますが、結果として、藤原一族は簒奪王朝である天武朝を滅ぼし、正統な皇統に繋ぎ渡したのですから、神々は結果良しとされたのではないかと思います。
普:日本の神々は合議制だから、そういう事もあるんだろうな。
日:キリスト教の神のように、絶対的な善悪という概念はないのですよ。改心し善行を積めば赦されるのです。
尤も、あの一族が改心したことなどありませんけどね。
日:さあさ、少し早いですけどお昼にしましょうか。
普:俺様も手伝うぜ。

  *  *  *  *  *

 流しで芋の皮を剥きながら、ギルベルトはふと思った。

普:なあ、菊。さっきの話、何かに似てねえか?
日:…似ていますねぇ。

 
 嗚呼、『令和』とは、そういうことだったのか!

  *  *  *  *  *

□令和元年5月2月 (木) 19時50分投稿 ちはや記

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by hirune-neko | 2019-05-11 02:29 | 創作への道 | Comments(0)

ちはや作【令和考・上巻】時代を超越した鋭い考察〜その1

Japanese Koto 春の海/Haru no Umi (Spring Sea) Composer/作曲者 Michio Miyagi/宮城道雄
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明治、大正、昭和、そして平成から令和へと元号が改まった。

 これまで、赤ちゃんの名入り絵本は5万3千冊以上を製作しているが、生年月日は最初からずっと西暦を使用してきた。この度の新たな元号「令和」を目にして、5月1日以降生まれの赤ちゃんの絵本には、西暦と元号を並記するよう製作担当の次男に指示した。

 ところが実際には、出産後何ヶ月も経ってから申し込んで来る人が多いため、しばらくは元号ありとなしが混在することになってしまい、製作現場では混乱が生じてしまった。

 元号や天皇制、女系天皇などに関する、いろいろな意見が飛び交っているようだが、ここで改めて、長い歴史を有する天皇制と元号について、その荘厳さを心で感じてみたいと思っている。

 たまたま、ときどきご紹介しているブログ「徒然なるままに」のブログ主・ちはやさんが【令和考】と題して、国を擬人化した小説を完成させた。膨大な文字量ではあるが、新たな令和の時代が幕開けしたのを記念し、全文をご紹介したい。文字数の制限の関係で、分割になってしまうかもしれないが、その場合はご容赦いただきたい。

 時代を十数世紀も遡り、私たちが生きている現代との共通性・いつの時代にも変わらず存在する「陰謀」や「政略」を視野に入れた、歴史ノンフィクションといってもいいのではないだろうか。信憑性はともかく、一考に値する考察だと考える。私には不案内な世界を描いた作品なので、改めて時間をかけて味わいたいと思う。

(以下、ブログ「徒然なるままに」から転載)
●【令和考・上巻】

「万葉集」の「梅花の歌三十二首の序文」

 天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。

 時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

 ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。

■現代語訳

 天平2年の正月の13日、師老(大伴旅人・おおとものたびと)の邸宅(太宰府)に集まって宴会を行った。

 折しも、初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。そればかりか、明け方の山の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたようであり、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳に閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。

 そこで一同、天を屋根とし、地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭の歌を詠むがよい。

  *  *  *  *  *

 菊が朗々と読み上げる声に耳を傾けながらギルベルトは赤ワインを堪能していた。

 春分の後の最初の満月の夜は、聖書の暦で過ぎ越しの祭りの日であった。
 イエス・キリストが12人の弟子たちと共に過ごした最後の晩餐の日である。

 日本邸に滞在しているギルベルトの為に、菊は細やかな宴を設けた。
4月半ばの肌寒い夜であったが、障子を開け放し池に映る満月を肴に二人して酒を楽しんでいた。

『令和』

 いい響きだよな、『梅の宴』の下りを読んで聞かせてくれねえか。

 ギルベルトの要望に応えるべく菊は万葉集を紐解き、『梅花の歌三十二首の序文』を読み上げた。

 存外低い菊の声は深みがあって耳に心地よい。半ば陶然とした思いの中、ふと声が途切れた。

普:菊?
日:雨が…
普:雨?

 開け放した庭をさあーっと雨の幕が降りてきた。

日:夏の宵ならば雨もまた風流ですが、さすがにこの季節では寒さが堪えますね。

 菊はそう言って障子を閉めると、膝をついて雪見障子を開けた。

日:せっかくの満月でしたのに…

 少し落胆を含んだ声が言った。

普:雨の庭も悪くねえと思うぜ。
日:そうおっしゃるなら…

 菊は御厨に立ち、しばらくしてお茶と善哉を運んできた。気づかぬうちに体が冷えていたようだ。善哉の椀の温もりに体がぶるりと小さく震えた。

普:なあ、菊?
日:はい?
普:令和が深いって、どういう意味だ?

 新元号が『令和』と発表された時、菊は「何と深い…」と呟いて絶句していた。テレビ画面の向こうで喜びに湧く人々とは打って変わった厳しい横顔が印象的だった。

日:…長くなりますが、それでもよろしければご説明致しましょう。
普:ああ、聞かせてくれるか?

  *  *  *  *  *

 菊は一度居間を出てから本や資料を抱えて戻ってきた。

日:では、先ず、此方を見ていただけますか。

 菊がギルベルトに手渡した資料は、『皇統譜』であった。

普:うん? あれ、これって、皇統が二系統になっていないか?確か、『万世一系』だったよな?
日:それは私が作ったものです。
普:えっ、てことは、此方が正しいってことか?
日:その件についてはまたの機会にでも。今は天智天皇(てんちてんのう)と天武天皇(てんむてんのう)の系図に注目してください。
普:天智天皇の後、皇統は天武天皇に移り、称徳天皇(しょうとくてんのう)を最後に天武天皇の皇統から再び天智天皇の皇統にに戻っているんだな。それからずっと今上陛下に続いているのか、凄いな…
日:何かお気づきになりませんか?
普:あ…、ああ、天武天皇の皇統を丸っと削除しても皇統の一系は変わらないってことか?
日:天武朝は『簒奪王朝』なのです。
普:簒奪王朝…ってことは、正しい皇統じゃないってことか?だが、系図では舒明天皇(じょめいてんのう)と皇極・斉明天皇〈宝皇女〉(こうぎょく・さいめいてんのう・たからのひめみこ)の子供で天智天皇と兄弟になっているが?
日:天武天皇は大海人皇子(おおあまのみこ)と言って、突然歴史に現れた人物です。生年が明らかでなく、ものの記録に因れば、兄の天智帝より年上だったとあります。もう一度、皇極・斉明天皇系図を見ていただけますか?
普:皇極女帝…でいいんだよな?高向王(たかむこのおう)と結婚して漢皇子(あやのみこ)という子供がいることになっているな。そうか、この漢皇子が大海人皇子ってことか!
日:舒明天皇との結婚は再婚になるようです。漢皇子が大海人皇子であるなら、天智帝より年上だったという記録に納得がいきます。『斉明紀』にはこうあります。


【天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は、最初に橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと。用明大王)の孫の高向王(たかむこのおおきみ)にとつがれ、漢皇子(あやのおおきみ)をお生みになられた。のち息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと。舒明大王)にとつがれ、二男一女をお生みになられた】


普:高向王は用明大王(ようめいだいおう)の孫とあるが?大王って天皇でいいんだよな?天皇の孫の子供なら、漢皇子にも皇位の継承権があるんじゃないか?
日:ええ、この記述が正しければですが?何よりも父親の記述がないのが不自然です。用明天皇の孫とは言っても、母方がそうであって、父方は違うため記述できなかったと考えるのが自然でしょう。つまり、漢皇子は、天皇の血統ではない人物である可能性があります。
普:万世一系というのは、天皇である父方の血統によって受け継がれた皇統ということだったよな?
日:おっしゃる通りです。最初の女帝である推古天皇から、天武系の最後の称徳天皇まで、六方八代の女帝がいらっしゃるのですが、何れも父方が天皇である方々ばかりです。そして、皇后であった方以外の女帝は何れも独身です。それは、女帝は皇統を維持する為の中継ぎに過ぎないからです。
普:高向王が天皇の血統でないなら、漢皇子は皇子とは言えないってことだよな?
日:皇后の連れ子とはいえ身分が違いますからね。父方の家に引き取られていたということも考えられますが、母親の愛を忘れてはならないでしょうね。
普:夫が生きている間は日陰の身に置いていたが、母親が天皇に即位したからには息子を取り立ててやらないという選択肢はないよな?
日:突然表舞台に現れたということは、そういうことなのだろうと思います。天武帝が、正統な皇位継承者である天智帝の皇女を4人も娶ったのは、自分の血筋にコンプレックスがあったからではないかと考えられます。
普:正統な血統を受け継いだ皇女たちを妻にすることで、自分や自分の子供たちを正当化しようとしたってことか?
日:本当のところはわかりませんが、初めから皇位を狙っていたと考えられなくもありません。高向王の父親は不明ですが、高向王が皇極女帝の初婚の相手だったということは、それなりに力や財産があった氏族の出と考えられなくもありません。例えば、名のある豪族とか?或いは、野心家が焚きつけた可能性はありますね。例えば、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とか?
普:確か、天智天皇崩御の前に、謀叛の嫌疑を免れる為に吉野に逃げたんだよな?そして、崩御の後に壬申の乱を引き起こし、天智天皇の息子を殺して天皇になったんだよな?
日:大友皇子(おおとものみこ)ですね。
普:その天武帝が逃げた吉野とその勢力圏が怪しいな。
日:尾張氏の後援もあったようですね。
普:藤原鎌足って、乙巳の変〈大化改新〉(いっしのへん)を唆した奴か?蹴鞠の席で中大兄皇子(天智)の脱げた靴を拾って返したのが切っ掛けで親しくなったなんて、何か嘘くせえよな。
日:鎌足は天武帝に娘2人を嫁がせていますが、不思議なことに、親しいはずの天智帝には嫁がせていないのですよ。反対に、天智帝からは、妻女である鏡王女(かがみのおおきみ)や采女(うぬめ)を賜っています。
采女というのは、後宮に仕える地方豪族の娘たちで、大臣と言えども手出しできない高嶺の花です。鎌足は、安見児という名の采女を賜って喜びの歌を遺しています。

【内大臣藤原卿の采女安見児(うねめやすみこ)を娶(ま)きし時に作れる歌一首

われはもや安見児(やすみこ)得たり
皆人の得難(えかて)にすという
安見児得たり

(わたしは安見児を手に入れることができたよ。宮廷の人々が皆望んでも決して手に入れることの叶わなかった安見児をわがものとしたよ)】


普:うわー、こっぱずかしい!
日:胡麻擂りに必死という感じですね。藤原鎌足は藤原姓を賜るまでは中臣鎌子を名乗っていました。中臣氏というのは、武の氏族でもある物部氏と並んで神事に携わる氏族とされています。この時代は『臣(おみ)・連(むらじ)』という姓(かばね)がありました。連姓を名乗る氏族は、天孫降臨の時に家来として高天原から下ってきた者たちです。臣姓の氏族は、天孫降臨の前から地上世界の有力氏族であった者たちです。
連姓の氏族は家来ですから誼(よしみ)を通じる必要はありませんが、臣姓の氏族は地域の有力豪族ですから、国家を安定させる為には誼を通じる必要がありました。
普:政略結婚だな。
日:はい、そういうわけで、臣姓の氏族だけが天皇や皇子に娘を嫁がせることができたのです。藤原鎌足は中臣連(なかとみのむらじ)の出自ですから、天智帝に娘を嫁がせることが出来なかったのです。しかし、天武帝には2人の娘を嫁がせています。この点からも天武天皇が何者か理解できると思います。
普:天武天皇は天孫降臨の主家ではないということだな。鎌足が采女を貰って大喜びしたのもわかる気がするぜ。
日:鎌足を始めとした藤原一族を、天武天皇擁立の黒幕と考えたのはこの点にあります。乙巳の変(大化改新)の敵役だった蘇我(そが)一族は、後宮に娘たちを送り込み、その子供たちが天皇に即位することで、外戚としての地位を確立し権力を欲しいままにしてきました。聖徳太子一族を滅ぼし、天皇に取って代わろうとさえしたと言われています。娘を嫁がせることが叶わない連姓の者たちは、他所者が権力を握り天孫降臨の主家を好き勝手にするのをどの様な思いで見てきたことでしょう。
鎌足のように上昇志向の強い野心家は、臣姓の者たちを羨むと同時に嫉ましくも思ったことでしょう。同様に、同じ母の腹から生まれながら、父親の身分が違いすぎる為に、日陰者の身分に甘んじなければならなかった大海人皇子と心情は似ていたのかもしれません。
普:成る程な。
日:663年10月(天智2年8月)、百済(くだら)救援の為に派兵した白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗北。
母帝亡き後、称制(しょうせい)のままで即位することなく政治の一線から退いた中大兄皇子(天智)に代わって台頭したのが大海人皇子でした。


【称制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。
日本では飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)と野皇后(持統天皇)の二例が見られるが、どちらも『日本書紀』では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。
日本の場合、摂政と似ているが、摂政の場合は天皇が同時に存在しているが、称制の場合は天皇がいない(称制している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在)のが大きな違いである】


日:これにより、大海人皇子に可能性を見い出だした鎌足は、若き中大兄皇子を唆して乙巳の変を引き起こしたように、大海人皇子に皇位簒奪を唆していたのではないかと考えています。首尾よく皇位簒奪が叶えば、蘇我一族のように後宮を支配し権力や財産を欲しいままにできる。
決して夢ではない、手の届くところに望むものがあるとしたら、後はその時を早めるだけ…
普:暗殺か?
日:時が定まり、668(天智7)年1月に天智天皇は即位されましたが、671(天智10)年12月3日に崩御されています。享年46歳。661年に母帝が崩御されて称制のまま政務を執られた期間は7年、即位してからは3年でした。胃癌で亡くなったとの見立てがありますが、密かに砒素を盛られていたと考えられなくもありません。何故なら、寿命が短かった時代ですよ。鎌足が希望を託した大海人皇子は天智帝より歳上です。
普:時間がなかった?
日:鎌足の時間もです。実際に鎌足は、落馬事故の結果とはいえ天智帝より先に亡くなっています。669年11月没、享年56歳。亡くなる前日に藤原姓を賜っています。


【壬申の乱】

 天武元年(672)壬申の年6月、天智天皇の子・大友皇子と、天皇の実弟・大海人皇子の間の皇位継承権を巡る内乱。争いは約一ヶ月に及んだ。吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、天皇崩御の後、伊賀、伊勢を経て美濃に入り、東国を固めて、別働隊は倭古京を攻め、大友皇子軍を近江国瀬田で撃ち破り、大友皇子は自害した。大海人皇子は翌年即位し天武天皇となった。

 この時、東国へ使者を出した大海人皇子に、家臣が「きっと行く手を遮られます」と言ったので、大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)等に、「駅鈴」を貰ってこい、もし貰えなかったら、志摩はすぐに報告に戻れ、恵尺は大津に行き高市皇子、大津皇子を連れて伊勢で我等に合流せよと命じた。報告は「鈴を得ず」、壬申の乱の幕は切って落とされた。

  *  *  *  *  *

普:余談だか、父系で血統が維持されるという点は、古代イスラエル(ユダヤ)とよく似ているな。聖書にはアダムからアブラハム、イスラエル12部族、そしてダビデ王からイエスまでの系譜が記されているが、全て父系のみの記録だ。日ユ同祖論が唱えられたこともあるが、こうした点も錯誤を生んだのかもしれねえな?尤も、聖書の方は、最初の人間アダムが罪を犯し、その罪の下に生まれた人類を救う為に、救世主イエスが誕生するまで父系で血統を繋ぐ必要があったわけだが、日本が皇統の父系に拘っているのは何んでなんだろうな?
日:神代の昔すぎて、理由は失われてしまったのかもしれませんね。
それでも二千年この方父系で受け継がれて来たのです。父系という絶対的な縛りがあることで、皇統は維持され護られて来たのです。これからもそれは変わらないし変えてはならないのです。我が日本国と皇統はイコールなのですよ。皇統が喪われる時、神代からの日本国も喪われるのです。
普:重いな…
日:ええ、とても…でも、それが我が国ですから。

□平成31年4月30日(火) 1時30分投稿 ちはや記

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by hirune-neko | 2019-05-11 02:25 | 創作への道 | Comments(0)



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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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