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昼寝ネコの雑記帳

カテゴリ:創作への道( 314 )

笑われると思うが、この歳でも厭世観に浸ることがある

Stacey Kent - To Say Goodbye (Official Video)
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 一瞬、耳を疑うような話をいくつも聞かされた。

 私は存外クールな性格だと思っている。誰から何をされようが、何を言われようが、So What?・・・だからどうしたの?という程度で、まるで別世界の出来事である。

 しかし今日は、立て続けに意外な実態をあれこれ聞かされ、聞いているうちに、心の中で溜息が出た。それなりに人生の裏表を見てきた気になっていたのだが、改めて想像外の現実を突きつけられると、現実世界に対する厭世観が湧いてしまった。もしかしたら私は、ひょっとして理想家だったのだろうか、と思わず自問してしまった。

 外務省の海外邦人安全課なる部署に電話を入れた。海外旅行中に、邦人が危害を被る可能性のある、いわゆる渡航危険情報について、いろいろ質問した。

 2017年当時の外務大臣の答弁を引用し、朝鮮戦争再発を想定した在韓邦人救出問題について確認した、韓国政府は、米軍による在韓米国人の救出については協議に応じると表明したが、自衛隊による在韓日本人救出に関する協議には応じないと明言した件だ。

 職員の対応は曖昧だった。どうも外交上の配慮があり、その件に関しては公の場での見解は表現できないような印象だった。

 韓国旅行を控えている、ある日本人団体が直面するかもしれないリスクを、調査・報告する手伝いをしている。その報告の席上で、忖度することを知らず、空気を読む気のない私は、以下のような発言をした。
(
 「私はスパイ映画ばかり観ています。ですから、日本人団体が旅行で韓国に滞在している、という想定で映画のシナリオを、もし私が作るとしたら、・・・」と前置きして、次のようなプロットを披露した。

1:国家経済が破綻に瀕し、国際的な孤立化も進んでいる政府が、情報部と打開策を協議した。
2:この危機的状況を打開するには、日本政府の経済力と国際的な信用力を利用するのが、最も確実だという結論に達した。
3:しかし、日韓関係が過去最悪の状況下で、日本政府に頭を下げてお願いしてしまったら、韓国国民のプライドが許さず、政府に対する反感が強まるだろう。しかも日本の国民感情を前面に出し、日本政府は協力を拒否し、韓国を見殺しにするだろう。
4:よって知恵を絞り、日本政府ならびに日本人が、まずは感情論・人情論から、韓国に協力を提供することへの抵抗感がなくなるような方策を考え、実行する必要がある。
5:そこで、熟慮と検討の結果、以下のシナリオを実行することになった。

  • 国籍不明のテロ組織が突如、ソウル市内に乱入した。
  • 無差別テロを実行し、何人かの韓国人市民が犠牲になった。
  • テログループは、韓国旅行中の日本人団体を拉致し、人質にとって立てこもった。
  • 韓国政府は、直ちに警察や軍に命じ、日本人団体の救出に動いた。
  • 激しい銃撃戦の末、テログループは全員が射殺された。
  • 日本人救出のため、自らの命を顧みず果敢に戦った警察官、軍人にも犠牲者が出た。
  • さらには、日本人団体の救出に協力しようとした、勇敢な韓国人市民何人かも巻き添えになり、死亡した。
  • 銃撃戦の模様と、終結後の現場を撮影するが、テロリストや犠牲者の警察官、軍人、一般市民の遺体は、直前に死刑囚や政治犯を銃殺処刑し、銃撃戦の現場に放置しておくこと。
  • 韓国政府は全世界に対し、大切な隣国である日本および旅行中だった日本人のために、全力を尽くしてテロリストと戦い、無事に全員を救出できたことを、発表する。
  • 日本政府および日本国民に対しては、勇敢な警察官、軍人、一般市民が、自らの命を犠牲にして、日本と日本人に対する友情を貫いたことを強調する。同時に、このようなテロリストによる、卑劣な犯行には断固抗議し、韓国政府は今後も正義の秩序に基づき、世界平和実現のための協力を惜しまない、と強調する。

6:以上のシナリオを実行し、世界中からの韓国政府、韓国人に対する賞賛の声を高める。
7:その後、日本人救出への謝意を表する日本政府に対し、両国の友情をさらに高め、世界平和に貢献し、新たな未来志向の証として、スワップ協議その他の速やかな再開、さらには経済交流の活発化を申し出る。
8:韓国政府と韓国人に対する国際的な評価に後押しされ、犠牲者を出してまで自国民を救出してくれたことに対する、日本政府の公的な謝意、などを総合評価するなら、日本政府からの協力の可能性は、飛躍的に高まると思われる。
9:そのためにも、日本の主要メディア、日韓議員連盟の皆さんには、日本国内の世論喚起に励んでもらうよう、プレシャーをかける。


 ざっと以上のような内容を説明した。驚きの反応は、まずまずだった。あくまでも映画のシナリオだと前置きしたが、現在の文在寅政権の動向を見ていると、この程度の自作自演シナリオは、現実的に実行に移せるのではないだろうか、との意見も付け加えた。


 今日は不覚にも、同じホームだったのと、勘違いがあり、乗るべき電車を1本逃してしまった、時間が切迫していたため、私にしてはかなり早歩きだった。そのせいか、帰宅したら、すっかり消耗してしまい、ブログに向かう記録も失せてしまった。

 しかし、習慣とは恐ろしいもので、いざキーボードを叩き始めると、いつものように集中力が甦ってしまった。

 このブログで、上記のシナリオを目にしたハリウッドのプロデューサーが興味を持ち、映画化したいと申し出てきたらどうしよう。タイトルはたった今、思い浮かんだ。「Korean Conspiracy/韓国の陰謀」である。

 もし映画化が実現し、ジャック・バウワーとクロエが出演するということにでもなったら、記念のため頭を下げて願いし、拉致された人質の一員として、私も出演させてもらおう。

 人質の身なので、クッキーもチョコレートも口にできず、甘いもの禁断症状に苦しむ高齢者の役なら、かなりの名演技ができそうな気がする。アカデミー脇役男優賞にノミネートされるかもしれない。(笑)

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by hirune-neko | 2019-05-16 00:52 | 創作への道 | Comments(0)

ちはや作【令和考・終章】時代を超越した鋭い考察〜その4

Japanese Koto 瀬音/Seoto (Sound of the Rapids) Composer/作曲 Michio Miyagi/宮城道雄
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*全4部作ですので、よろしければ上巻からお読みください。

●【令和考・終章】

[皆様へ 御注意]

 【令和考】シリーズを御訪問くださりありがとうございます。【最終章】を公開させていただきます。

 飽くまでも私個人による考えで書いたものです。不敬発言の数々に不快な思いをされる方があるかもしれません。

 どの様な内容でも構わないとおっしゃる方は、ご自分の責任の下に閲覧ください。 令和元年5月10日 ちはや 拝

  *  *  *  *  *

【令和考・終章】

『その辺りのことは、後ほど纏めてご説明します』

普:菊ーっ、そろそろ説明してくれーっ!俺様、ジレンマだぜーっ!
日:はいはい、では、説明する前に整理しましょうか。師匠が『何かに似ている』と思われたことを挙げていただけますか?
普:おー、 リストにしてみたぜ!

 ギルベルトは得意満面でリストを菊に差し出した。

日:さすが、師匠ですね、素晴らしいリストです!

 リストをざっと眺めて、菊は微笑んだ。


【リスト一覧】

①『簒奪王朝』
② 皇太弟
③ 我が子を天皇にしたい親心:ご優秀説の喧伝
④ 皇位が他に移ると都合が悪い既得権勢力
⑤ 宮子、出産後の心的障害(36年間)
⑥ 安宿媛の『立后』を巡る確執:長屋王の謀殺
⑦ 皇后になる資格のない安宿媛が皇后になった:藤原の血統維持=権力の維持
⑧ 我が子を天皇にしたい女たちのエゴと権力を手放したくない男たちのエゴ:天武朝滅亡
⑨ 皇統を丸ごと削除しても万世一系は変わらない:『嘘の皇統』
⑩ 女は怖い

A 天智天皇の娘たちが天武朝を仕切っていた:三人の皇女
B 天武朝ではなく、天智朝の続きのようだ
C 皇統を乗っ取ったはずなのに、天智天皇の手の平の上だった
D 大伴旅人の留守中に長屋王事件は起きた:皇宮警察・SP

 菊はギルベルトが作成したリストに二つの項目を付け加えた

【追加項目】

・ 4月1日
・ 5月1日

  *  *  *  *  *

日:では、順番に話し合って参りましょうか。
普:話し合うのか?
日:師匠のご意見もお聞きしたいので。
普:おう、任せろ!

 菊はリストの①を指差した。

日:一番に『何かに似ている』リストに『簒奪王朝』を挙げられたのは何故ですか?
普:それは菊が、新元号『令和』の出典である『花の宴』の時代的背景を説明をする前提として、天智天皇と天武天皇の系図に注目させ、天武朝は簒奪王朝であることを証明しようとしたからだぜ。そして、天武朝は約100年で滅び、正統な皇統である天智天皇の皇統に戻ったことに注目させようとしていたからだ。つまり、『令和』時代を語るには、『簒奪王朝』を前提としなければ語れないということだろう?
日:理解が深いですねぇ。

 菊はギルベルトの答えに深く満足した。

普:『令和』の皇室は『簒奪王朝』だということだな?
日:そう思わざるを得ないということです。

 はっきりと『是』とはしない菊をギルベルトは小さく睨んだが、相手が『禁裏』では曖昧に為らざるを得ないのだと理解した。そして、他のリストについても、曖昧な遣り取りになることを念頭に置いておくことにした。

日:次に②ですが…
普:『皇嗣殿下』は皇太弟だろ、皇太子だよな?
日:はい、ですが、天智朝の大海人皇子の『皇太弟』とは意味合いが異なります。
普:勿論、理解している。
日:では、③の『我が子を天皇にしたい親心:ご優秀説の喧伝』とは、天智天皇と大友皇子の件ですね。

『親心としては、我が子を天皇にしたいと思うのは無理からぬことで、大友皇子は母親の身分は低いが、大変優秀で天皇になる資格を十分に兼ね備えていると、唐の博士などを召して喧伝させています』

普:現在進行系で喧伝しているだろ、『愛子天皇待望論』。偏差値72だったか?スポーツ万能とか音楽も得意だとか、お美しいとか、メディアや雑誌を使って必死で喧伝しているじゃねえか。
日:念の為、天智天皇側は令和の皇室側ではありませんよ。
普:勿論、理解しているぜ、簒奪王朝の天武側な。

日:秋篠宮殿下や悠仁親王殿下というれっきとしたお世継ぎがいらっしゃるのに、女性天皇が俎上に上ることさえ許し難いことです。
旧皇族を含めれば、160名以上の皇位継承資格者がいらっしゃるのです。その事実を全く無視して『愛子天皇待望論』を喧伝するなど、『皇統の断絶』を目論んでいるとしか思えません。
普:④の『皇位が他に移ると都合の悪い既得権勢力』が背後にいるんだよな?

『皇位が天智天皇側から大海人皇子側に移ると都合の悪い近江朝廷の重臣たちが、大友皇子を担ぎ上げたことで、大海人皇子との衝突は避けられなくなったのです』

普:皇位を護るために武力衝突も有り得るのか?
日:当時は各氏族が私兵を持っていましたが、さすがに現在はないと思いたいのですけどね…
普:国民が暴動を起こす可能性は?
日:無いとは言えませんが、こればかりは何とも…
普:日本人てぇのは、そこまで愚かになっなのか?
日:……
普:…まあ、日本人が決めることだよな。
偽物でも有り難いならそれはそれでいいんだろ。
で、現在の皇室に巣食う既得権勢力ってぇのは何だ?
日:昭和時代はコミュンテル、共産主義勢力です。
平成時代は公明党・創価学会勢力に主導権を奪われたようですね。
普:欧州でも忌み嫌われているカルト宗教団体だな。
メンバーは特亜在日ばかりだったか?
新天皇の女房一族は創価学会のお仲間だったよな?
鳥居も潜れない女が皇后とは、お笑いだぜ!

 ケセセセセせー!
 ギルベルトは独特の笑い声で高嗤った。

日:…次の⑤『宮子、出産後の心的障害(36年間)』。
普:答えるまでもねえだろう。宮子は36年間だ、新皇后は何年だ?
まあ、後20年くらいは心の病気ですと言ってさぼっても問題なさそうだな?
日:はぁ…、そういうことになりますか…
普:次、⑥『安宿媛の立后を巡る確執:長屋王の謀殺』と、⑦『皇后になる資格のない安宿媛が皇后になった:藤原の血統維持=権力の維持』は一緒でいいな。

『聖武天皇と安宿媛の息子の基王が夭逝し、皇位が聖武天皇のもう一人の妻、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の息子である安積親王(あさかしんのう)に移るのを阻む為に、安宿媛を皇后に立てようとしたのです。
しかし、皇后には皇族が就くとの法令があり、臣下の娘である安宿媛は皇后にはなれない決まりでした』

普:皇后になる資格のない安宿媛が皇后になったってぇのは、新天皇の女房のことだと思ったんだが、『立后を巡る確執と長屋王の謀殺』とどう繋がるのかが不明だぜ。
日:上皇陛下の連れ合いのことですね。
普:上皇の連れ合いって、上皇后のことか?
日:今はリストを優先したいので詳しくは語りませんが、長屋王は昭和天皇に比せられるとお考えください。
普:昭和帝は謀殺されたってことか!?
日:師匠…

 菊が咎めるようにギルベルトを睨んだ。

普:あー、次な!
日:⑧『我が子を天皇にしたい女たちのエゴと権力を手放したくない男たちのエゴ:天武朝滅亡』。
普:簒奪王朝である天武朝が、藤原一族による天武系の皇子の謀殺という内輪揉めで滅んだように、現在の簒奪王朝も内輪揉めで滅びる可能性がありそうだな。
日:それは、どういう…?
普:上皇の連れ合い勢力と新天皇の連れ合い勢力の足の引っ張り合い潰し合いだな。それぞれの背後勢力は違うわけだから、利権権力の逆転にいつまで耐えられるか見ものだぜー。
日:その辺りに付け入る隙がありそうですね。
普:それにだ、足の引っ張り合い潰し合いは、特亜の連中の習性だぜ。
それも近視眼的に勝手に工作し合うから、あっちこっちに綻びが見えているだろ。秋篠宮殿下の『プチエンジェル事件・児童買春犯罪疑惑』とか、『精神病薬服用・アルコール中毒疑惑』とかは、新天皇側の疑惑だってバレているんだろ?
日:ええ…
普:だいたい、稚拙なんだよ。ネットで検証付きの疑惑が広がった後に、週刊誌を使って秋篠宮殿下の犯罪にすり替えるような姑息なことをすれば、却ってネットの噂が正しいと言っているようなもんじゃねえか。半世紀も前の手法なんて、ネット時代の今は通用しねぇって、本当に学習しねえ奴らだよな。
日:成功体験がどうしても忘れられないのでしょう。
普:と言うか、工作員のトップ連中が歳食ってんじゃねえか?ネット時代について行けねえというか、ネット時代の意味がわかってねえというか、呆けてんじゃねえか、それもまだら呆けみてえな?
日:こう言っては難ですが、些か迷惑な呆けですね。
普:まあ、敵の迷惑など心配してやる必要はねえけどな。
菊、次な?
日:⑨『皇統を丸ごと削除しても万世一系は変わらない:嘘の皇統』。
普:『令和』の皇統を丸ごと削除しても万世一系は変わらねえんだろ?
尤も、令和の皇統をどこからそう看做すのかはわからねえけどな?
日:天智・天武天皇の関係に倣うなら、『令和』からと考えるのが妥当でしょう。
普:ふーん…?
日:上皇陛下は皇統のお血筋には変わりないのですから。
普:昭和帝の血筋とは言わないんだな。
日:。。。……
普:…仕方ねえな、最後は?
日:⑩は…『女は怖い』?
普:怖えだろ!
日:確かに、昔も今も怖いですねぇ。

 クスクスと菊は笑う。


普:コーヒー入れてくるぜ。
日:おやつは水屋の中ですよ。
普:おう!

  *  *  *  *  *

A 天智天皇の娘たちが天武朝を仕切っていた:三人の皇女
B 天武朝ではなく、天智朝の続きのようだ
C 皇統を乗っ取ったはずなのに、天智天皇の手の平の上だった
D 大伴旅人の留守中に長屋王事件は起きた:皇宮警察・SP


普:A~Dについては、気になったので挙げてみたんだが、どう考えたらいいんだ?
日:A『天智天皇の娘たちが天武朝を仕切っていた:三人の皇女』については、皇女ではありませんが、高松宮喜久子様、秩父宮妃勢津子様、常陸宮華子様、三笠宮百合子様、秋篠宮紀子様が挙げられます。



・秩父宮勢津子[昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王の妃]
旧名は松平節子(まつだいら せつこ)
旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女
母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子

・高松宮喜久子[昭和天皇の弟宮・高松宮宣仁親王の妃]
旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)
徳川慶久[注釈 1]公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子女王

・常陸宮華子[昭和天皇の次男・常陸宮正仁親王の妃]
旧名は津軽 華子(つがるはなこ)
実父は尾張徳川家の出身で、弘前藩藩主津軽家の養子となった伯爵・津軽義孝
母は、長州毛利家の支藩長府藩主家出身の子爵・毛利元雄の長女・久子
戦後皇室に嫁いだ妃の中で唯一の旧華族家出身

・三笠宮百合子[昭和天皇の弟宮・三笠宮崇仁親王の妃]
旧名は高木 百合子(たかぎ ゆりこ)
高木家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武家で、江戸時代は河内国丹南藩1万石の大名であった
母・邦子は入江為守子爵の娘
2019年現在存命の皇族の中では最年長者であり、唯一の大正生まれである。

・秋篠宮紀子[皇嗣たる秋篠宮文仁親王の妃]
旧名は川嶋 紀子(かわしま きこ)
川嶋辰彦・和代夫妻の長女
父方の曽祖父、池上四郎は会津藩士・池上武輔の4男、250石取りの上級藩士

普:全員武家の血筋なんだな。
日:先祖は徳川家と会津藩の出身ですね。明治維新の時、会津藩は徳川家に最後まで武家としての恭順を示し、朝敵として薩摩・長州方と戦った誇り高い武家です。会津武士の誇りは今日も変わらず受け継がれているようです。
普:白虎隊とか娘子隊(じょうしたい)とか聞いたことがあるぜ。
日:会津の気概は妃殿下にも受け継がれていることでしょう。
普:武家の血筋の女たちが、天皇家を仕切っていると言いたいとのか?
日:仕切っていると言うより、護っていると言う方が正しいように思います。秩父宮勢津子様と高松宮喜久子様は鬼籍に入られましたが、昭和天皇の御代を支えて来られました。そのご意志は妃殿下の皆様に受け継がれていることと思います。
普:他にも宮家があったよな、もう一つの三笠宮とか高円宮とか?
日:名を挙げる必要もないでしょう。
普:成る程、要は藤原一派ってことだな。皇室に巣食って美味い汁を吸っている連中な?
日:おや、随分とあからさまですね。
普:菊が言えないことを言ってやっているんだ、感謝しろよ。
日:はいはい、感謝致しますよ。

 ころころと笑う菊を尻目にギルベルトはリストを指差した。

普:Bの『天武朝ではなく、天智朝のようだ』と、Cの『皇統を乗っ取ったはずなのに、天智天皇の手の平の上だった』は同じ括りと考えて良さそうだな?
日:今日に置き換えると、Bは『平成ではなく、昭和の続きのようだ』、Cは『皇統を乗っ取ったはずなのに、昭和天皇の手の平の上だった』となりますね。
普:武家の女たちを使って、昭和帝は何か仕掛けたか?
日:。。。……
普:菊、お前なぁ、肝心なことは黙りなんだな。
日:わからないのから答えられないのですよ。女には女にしかない武器があるとしか…
普:女にしかない武器…?
日:皇族方の写真を見ていて気づいたのです。でも、尋ねても答えてはくださらないでしょう。昭和天皇の御心に、皇后陛下や妃殿下が応えられたのだと…そして、それは、あの世まで持って行くつもりなのだと…
そう思うぐらいしか出来ないのです。
普:女にしかない武器な…、了解した。

 そう応えて、ギルベルトはリストを取り上げた。

普:Dは『大伴旅人の留守中に長屋王事件は起きた:皇宮警察・SP』だな。
日:師匠…、Dは後にしてもらってもよろしいですか?
普:ああ、じゃあ、菊が付け足した日付けの説明をしてくれるか?
日:はい、では…

  *  *  *  *  *

・4月1日 新元号発表
・5月1日 新天皇即位

日:4月1日に新元号が発表され、新しい御代が『令和』になることになりました。しかし、何故、4月1日だったのでしょうか?4月1日と聞くと何を思い浮かべますか?

普:あー、エイプリルフールか?

日:ええ、四月馬鹿ですね。日本でもエイプリルフールという言葉は、それなりに定着していますから、最初に聞いた時に何かしら違和感を感じました。4月1日は日本では年度替りになりますから、新しいことを始めるには区切りが良いという理由だったのかもしれません。そして、5月は正月、お盆に並ぶ大型連休ゴールデンウイークがあります。
日曜祭日を挟んだ数字の並びが良く、今年は10日間の大型連休となりました。4月30日で上皇陛下が退位し、翌日5月1日に新天皇即位というのは、区切りも良く、お祝いムードを高めるにも格好の選択だったのだと思います。
普:だが、お前としては、何か気に食わねえんだろ?
日:4月1日はエイプリルフール、これが頭を離れませんでした。
そして、新天皇が即位される5月1日は、水俣病の啓発記念日でもありました。


『水俣病啓発の日(5月1日 記念日)
1956年(昭和31年)のこの日、熊本県水俣市の保健所に市内の新日本窒素肥料(現:チッソ)水俣工場付属病院より原因不明の奇病が報告され、これがきっかけとなり水俣病が広く知られるようになった。
公害の水俣病を忘れない日にと2006年(平成18年)に記念日を制定。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。


■水俣病について
水俣病は、熊本県の水俣湾周辺で発生したメチル水銀中毒による慢性の神経系疾患である。熊本県水俣市にあった新日本窒素肥料水俣工場は、アセトアルデヒドの製造過程で出る工業排水を水俣湾に排出していたが、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、汚染されていることを知らずに摂取した住民の一部にメチル水銀中毒症が見られた。
当初は原因が分からず「奇病」と呼ばれていたが、地名から「水俣病」と呼ばれるようになった。日本の高度経済成長期に発生し、「公害の原点」ともいわれる。水俣病、第二水俣病(新潟水俣病)、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの4つは、「四大公害病」と呼ばれる。
水俣病の症状としては、四肢末梢神経の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、手足の震えなどがある。患者には、特異な神経症状を呈して意識不明や死亡する重症例から、頭痛や疲労感、耳鳴りなどの軽症例まで多様な形態が見られた。水俣病と認定された患者の数は約2,300人で、そのうち約1,800人が死亡した』


日:実は、雅子妃の母方の実家を江頭というのですが、この水俣病を引き起こした『新日本窒素肥料(現チッソ)』の社長・会長を務めていました。水俣病が発生した後の就任であった為、責任はないという意見もありますが、江頭豊の責任についてはこちらの資料を見てください。


【江頭豊の責任】

1.水俣病の原因が工場にあると知りながら稼働し続けた。
水俣病の原因がアセトアルデヒドの製造工程から出る有機水銀である事は、チッソ社内では周知の事実であったし、熊本大学により、それが証明されても、設備を稼働し続けた。

水俣病だけだと良く解らないが、新潟水俣病の年表を加えてみると、非常に良く理解できるのだが、江頭豊が社長に就任した翌月、1965・01・10、新潟水俣病の発生企業、昭和電工がアセトアルデヒドの生産を停止、製造工程図は消却、プラントは撤去してしまった。

これは昭和電工が「水俣病の発生原因はアセトアルデヒドのプラントから出る有機水銀である」と認識していた事を示している。しかし、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド製造設備の運転を停止したのは1968・05・18であり、新潟の水俣病患者が昭和電工を新潟地方裁判所に告訴し、「公害対策基本法」が成立した翌年であり、昭和電工がプラントを撤去、製造工程図を消却してから3年半後だった。

2.患者や家族に謝罪したが補償に応じようとはしなかった。

水俣病が公害病の認定を受け、江頭社長は1968・09・27から患者家族に詫びて回るが、具体的な補償案を出さないため、厚生省が調停にのりだした(1969・02)のである。

しかし、厚生省は患者側に「この補償処理委員会の結論には一切異議なく従う」との確約書提出を求め、患者側は一任派と自主交渉派に分裂した。困窮のどん底に置かれている患者と家族には、卑劣極まりない態度と言われてもやむを得ないだろう。

石牟礼道子『苦界浄土』あとがき:チッソ側はゼロ回答をもってこれにうそぶいている。第三者機関あっせんに、再び互助会が依頼した寺本熊本県知事に、江頭社長は「チッソとしては34年暮れの見舞金契約は有効、補償交渉はチッソの好意で行われており・・・「公正な審判に服する」というならとにかく、恐るべき厚顔無恥、わたくしたちにこの上まだ《ことば》がありうるであろうか、とわたくしは思い沈む。 www.google.co.jp (キャッシュ) 投稿-32

3.謝罪した後も悪質なデマを流し患者や家族を冒涜した。

チッソ水俣支社・東平総務部長がスウェーデンのジャーナリストに答えている「端的にいうなら彼らは海に浮かんだ死んだ魚を食べたんですよ。しかし、そんなことを裁判にもちだすのは難しいです。一般の人に相手側について悪い印象を抱かせることになります。まるで動物ででもあるかのようにね。

58年以後の病気の原因が、死んだ魚を食ったためなのか、水銀のためか解らんのですよ。58年以後に発病した人に限って言えば、それで補償金を貰えるなんて、有り難く思って貰いたいものです」(原田正純 『水俣病』p218、1971・07の話、詳しくは水俣病事件 )、自らの責任をごまかし、患者や家族に対するこの侮辱、何たる傲慢であろうか。

4.患者や報道カメラマンを暴力集団に襲撃させた。 (会長時代)

千葉県の五井工場に抗議に訪れた「自主交渉派」の水俣病の被害者やユージン・スミスら取材陣をチッソは暴力集団に襲わせた(1972・01・07)、ユージン・スミスは片目を失明するほどの重傷を負わされたのに告訴せず、時間とエネルギーを写真に向け、6年後に負傷からの後遺症が元になり、死亡した・・・スミスの志とそれを暴力で封じようとした人達の心根、対照的である。

[Taurosのインターネット案内-18]様のブログ
www.geocities.co.jp


普:犯罪のオンパレードじゃねえか!こんな奴の孫が、よく皇太子の女房になれたもんだな!?
日:一度婚姻話が持ち上がったことがあったのですが、昭和天皇はお許しにはなりませんでした。皇太子殿下と結婚されたのは、昭和天皇が崩御された後のことです。
普:リスト⑥の『安宿媛の『立后』を巡る確執:長屋王の謀殺』のところで、お前が『長屋王は昭和天皇に比せられるとお考えください』と言ったのは、この件に関係しているんだな?
そう言えば、菊は言ったよな?
                                                 
【令和考・上巻】
『日:これにより、大海人皇子に可能性を見い出だした鎌足は、若き中大兄皇子を唆して乙巳の変を引き起こしたように、大海人皇子に皇位簒奪を唆していたのではないかと考えています。首尾よく皇位簒奪が叶えば、蘇我一族のように後宮を支配し権力や財産を欲しいままにできる。
決して夢ではない、手の届くところに望むものがあるとしたら、後はその時を早めるだけ…
普:暗殺か?
日:時が定まり、668(天智7)年1月に天智天皇は即位されましたが、671(天智10)年12月3日に崩御されています。享年46歳。661年に母帝が崩御されて称制のまま政務を執られた期間は7年、即位してからは3年でした。胃癌で亡くなったとの見立てがありますが、密かに砒素を盛られていたと考えられなくもありません。何故なら、寿命が短かった時代ですよ。鎌足が希望を託した大海人皇子は天智帝より歳上です。
普:時間がなかった?
日:鎌足の時間もです』
普:犯罪者江頭豊の孫の結婚の邪魔をする昭和天皇を謀殺した、そう言うことか?
日:それもあるのかもしれません。しかし、大海人皇子勢力に比する者たちも視野に置く必要があるでしょう。
普:大海人皇子…?えっ、皇太子か!?
日:皇太子殿下の取り巻き…、⑩『女は怖い』ですよ。
普:ほう…

⑥ 安宿媛の『立后』を巡る確執:長屋王の謀殺
⑦ 皇后になる資格のない安宿媛が皇后になった:藤原の血統維持=権力の維持

普:新天皇の女房ではなく、上皇の女房とその一派が黒幕か。
日:当時、昭和天皇が長生きされたので、国民の間では、次の天皇の御代は大正時代15年間のように短いのではないかというのが一つのコンセンサスになっていました。皇太子殿下が60歳にもなろうというのに、皇位は巡って来そうにない。焦りがあったのかもしれません。
普:時間がなかったか。
日:女にとってもです。
普:女?
日:こう言っては難ですが、出産できる年齢です。
普:成る程、新天皇の女房、江頭の孫の結婚を急ぐ必要があったわけだ。
日:後宮に娘を送り込み、その子供が天皇に即位することで、天皇の外戚として権力を握り宮廷を欲しいままにする。蘇我一族や藤原一族が行なってきたことです。
普:そして、藤原一族が好き勝手してきた天武朝は、何が何でも権力にしがみつきたい藤原一族とその一派の野望によって、邪魔な長屋王一家を滅ぼし、『皇后になる資格のない女が皇后になった』。しかし、飽くなき権勢欲は、自滅の道をひた走ったってことだな。最後に残った藤原氏の皇女を二度に渡って天皇に即位させてまで権力に執着した。みっともないほど無様だな。『愛子天皇待望論』なんて、そのまんま藤原一族だぜ。
日:結果は見えているということですね。
普:で、上皇の女房一派てえのはどんな連中なんだ。
日:顔の特徴、ファッションや振る舞い、火病…まあ、そういうことです。
普:ああ、日本に寄生する半島の連中な。勿論、大陸も絡んでいるんだろうな。
日:大陸とは別勢力のGHQコミュンテルンの残党も、まだしがみついているようですよ?
普:成る程、カオスだな。
日:カオスですね。でも、だからこそ、付け入る隙もあるのですけどね。
普:つまり、菊は、4月1日と5月1日に、意図的瑕疵があると言いたいんだな?
日:さあ、本当のところはわかりません。日付けとして区切りが良かっただけ、ゴールデンウイークに絡めたかっただけ、の単純な理由なのかもしれません。
普:4月1日はエイプリルフール、堂々と嘘を吐いても咎められない日…?
日:。。。……
普:そうか、対外的なメッセージだったんだな!?新天皇のカウンターパートになる王国への!?『令和』の天皇は『嘘』『偽者』だ!そう伝えたんだな!?
日:新元号が何になるか、日本国内はその話で持ち切りでした。皇統を破壊したい連中やシンパのメディアが良くも悪くも煽り立てた。外国メディアも気にせざるを得なくなる。日本政府が取り立てて宣伝しなくても、安倍政権を引き摺り下ろしたい反日勢力は、勝手に世界に宣伝してくれたのです。そして、焦らしに焦らした曰(いわ)くの4月1日、欧米ではエイプリルフールのその日に、新元号『令和』は発表されました。
普:もしも、菊の見立てが正しいなら、安倍総理は凄い策士だぜ!
日:日本は『言霊』の国です。

【言葉の響きにこそ意味がある】

普:『令』は『零』。ゼロにする、元に戻す、そういうことだな?
日:はい、『簒奪王朝』を終わらせ、正しい皇統に戻す。それが『令』の隠された意味だと思います。
普:『和』は?
日:日本の初めての憲法をご存じですか?
普:確か、聖徳太子の『十七条憲法』だったか?
日:はい、実は、『十七条憲法』は廃止されていないのです。西暦604年に制定されてから2019年の今日まで、『十七条憲法』は日本人の憲法で有り続けているのです。


【十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)とは、推古天皇12年(ユリウス暦(西暦)604年)に聖徳太子(厩戸皇子)が作ったとされる、17条からなる法文】


【一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。

三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。

四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる(略)】


日:『和を以て貴しと為し』604年からこの方、皇統と共に絶えることなく受け継がれて来た『和の精神に立ち返ろう』そう国民に呼び掛けているのだと思います。
普:『令』は外国の王国への呼び掛け、『和』は日本の国民への呼び掛け。凄いな…、本当に凄い宰相だな。プロイセンのビスマルクを彷彿とさせるような本物の宰相だぜ。
日:そして、もう一つの『令=零』。

【皇統=日本国】

日:簒奪王朝を『零』にし、皇統を取り戻すことは日本国を取り戻すことと同義です。新元号『令和』以ってして、安倍総理は宰相としての覚悟を示したのです。そして、日本国民にも覚悟を促したのだと思います。
普:『戦後レジームからの脱却』その精神は失われていなかったんだな。
日:本物の大和男子(やまとおのこ)です。
普:ああー、感動しちまったぜー!
日:フフ、私もですよ。
普:残るは5月1日だな。こっちはどういう隠れた意図があるんだ。
日:ああ、そっちは、『呪』を掛けたのかな、と思っただけなんですけどね。
普:ジュ?
日:『呪』、御呪いのことです。
普:おまじない?
日:言霊の一種と言っていいのかは疑問ですが、『言葉による因果を込めた』とうことですね。
普:あー、つまり?
日:5月1日は『水俣病啓発の日』なのです。
普:あっ、そういうことか!
日:そして、『令』は『霊』でもあるのですよ。
普:『霊』…
日:水俣病で苦しみながら理不尽に死んで行った人々の『霊』。その『霊』が、5月1日に即位した新天皇と皇后の御代の、『因果』となるよう『呪』を掛けたのではないか…そう、私には思えたのです。
普:。。。……
日:飽くまでも、私個人の考えですから、そう深刻に捉えないでいただけますか。
普:いや…、いやいや、そうだとしたら…お前ん家の宰相、恐ろし過ぎるぜ!
日:飽くまでも私の考えです、そこをお間違えなく。
普:何か肝が冷えちまったぜ。
日:私も似たような思いでしたよ。でも、為(し)て遣ったり、の気持ちの方が大きかったですけどね。
普:それだけ怨(うら)みが深いってことだよな…?
日:真実を知れば…
普:なあ…?
日:はい?
普:上皇の女房と取り巻き黒幕一派が好き勝手していた平成時代は、『簒奪王朝』の天武朝に比していいんじゃねえか?
日:ええ、そう考える方が正しいのかもしれませんね?
普:天武朝は97年で滅びた。『簒奪王朝』平成・令和時代はもっと早く滅びそうだな。
日:万万が一、愛子内親王が即位したとしても、その先はありません。
普:無いのか?
日:あってはならないのですよ。
普:あってはならない?
日:はい、あってはならないのです。

 菊は厳しく張り詰めた面差しでギルベルトを見つめ返すと桜色の唇に薄く微笑を刷いた

それが
我が皇統が
二千年以上の永きに亙って続いてきた理由だからです

令和元年(2019)5月10日 14時00分 投稿  ちはや記

【主な参考文献】

■水俣病-江頭豊のしたこと: 雅子妃の祖父 | 護国夢想日記
ameblo.jp

■十七条憲法 - Wikisource
ja.m.wikisource.org

*最後までお読みくださり、有難うございました。
 大変お疲れ様でした。世の中は、決して平板ではなく
 複雑な要素が錯綜しているのでしょうね。
 しっかり目を見開いて行きたいと思います。
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by hirune-neko | 2019-05-11 02:43 | 創作への道 | Comments(4)

ちはや作【令和考・下巻】時代を超越した鋭い考察〜その3

Japanese Koto 落葉の踊 / Ochiba no Odori (Dance of the Falling Leaves) Composer / Michio Miyagi
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●【令和考・下巻】

[皆様へ]
【令和】シリーズの応援をありがとうございます。

 下巻で終わらせたかったのですが、肝心な話が書けませんでしたので、もう一章おつき合いください。
 【下巻】は『長屋王の変』の話です。お楽しみくださいとは言い難い固い内容で、ほとんど歴史の勉強をし直しているようなものですが、この部分を通らないと、【令和考・中巻】のラストの台詞に辿り着けなくなります。

普:なあ、菊。
さっきの話、何かに似てねえか?
日:…似ていますねぇ。

 嗚呼、『令和』とは、そういうことだったのか!

 この下巻の中に、『令和』に辿り着く為の手懸かりが幾つか隠されています。似ている何か…

 皆様は手懸かりを幾つ見つけられたでしょうか?

  *  *  *  *  *


■長屋王の変

長屋王の変当事者1:長屋王
当事者2:藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)
当事者3:
時代:奈良時代
年代:721年(養老5年)1月1~729年(神亀6年)2月12日
要約:長屋王が藤原不比等亡き後の朝堂の首座となるが、藤原氏の独走(藤原氏の皇后冊立)に反対したため藤原氏に陥れられ長屋王の変の首謀者として抹殺される。
内容:長屋王は、721年1月に藤原不比等の後を受けて右大臣となり朝堂の首班となる。長屋王は壬申の乱の英雄である高市皇子の子である。高市皇子は母の身分が低かった為(持統天皇の策謀により)、天皇とはなれなかったが、極めて天皇に近い位置にいた。その子息である長屋王の政権である。(但し、舎人親王が知太政官事として牽制していたが)


【長屋王の変】

 729年(神亀6年)2月10日、在京の人従七位下塗部君足と無位中臣宮処東人が、朝廷に当時廟堂の最高官であった左大臣長屋王を訴えた。ひそかに左道を学んで国家を傾けようと謀っているという。そこで朝廷ではその夜、式部卿藤原宇合の指揮のもと六衛府の兵をもって長屋王の邸をかこませた。翌日、舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂が窮問に行き、次の日に王を自殺させた。妃吉備内親王および膳夫王ら子息は王と共に自尽し、与党と噂された上毛宿奈麻呂ら97人が捕らわれ、うち7人が流罪となった。

 最高執政官がたった二人の下級役人の密告で即日邸宅を包囲され、謀反の計画や王の弁明も明らかにされず数日で自殺させられるのは不自然である。さらに738年、密告者中臣宮処東人は、かって長屋王に仕えて恩遇を蒙っていた大伴子虫と囲碁に興じた。ところが長屋王の事に及んだとき、子虫は憤激し、駕り、剣を抜いて東人を斬殺したという。そして「続日本紀」は東人は王を誣告(嘘の申告)した人と紹介している。


■なぜ長屋王は突然政界から葬られたのか?

 この事は当時の藤原氏の焦燥に関わりがある。727年、聖武天皇の夫人となった不比等の娘安宿媛が基王を生んだ。そして僅か一ヶ月余りで立太子した。藤原氏の外戚確保の策は計画通りであった。しかし翌年、基王は満一歳にも成らずに死亡した。ところが今度は聖武天皇の夫人県犬養広刀自に安積親王が生まれた。そこで藤原氏は安積親王の立太子を妨げ、権勢を保つため、光明子の皇后冊立を考えた。だが古来より皇后は皇族がなり、それは令の定めでもあった。それは皇后は天皇を輔けて国政に関与し、情勢次第では即位し天皇となる可能性を持つ地位であった。

 強硬に立后反対を唱えたのが、藤原一族の伸長をを嫌う長屋王であった。724年に即位した聖武天皇は、勅して母藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈った。すると長屋王は、先勅には大夫人とあるが、令では皇太夫人である。勅に従えば令に背き、皇の字を削って、令に従えば遺勅になると奏した。聖武天皇は勅を撤回し、文では皇太夫人とし、言葉は大御祖(おおみおや)とせよとした。勅は本来令の規定に優先する。だが長屋王はあえて若い天皇を牽制し、藤原氏の特別扱いに一矢を報いた。

 過去にこうした経緯のある長屋王が、光明子の立后という前代未聞の挙に首肯する筈がない。猛然たる反撥が予想された。反対を未然に防ぐために、長屋王の変は仕組まれた芝居であった。
長屋王の変から半年後の729年(天平1年)8月10日、光明子は臣下の娘として初の皇后となった。

  *  *  *  *  *

日:これらの資料により、『梅の宴』の凡その時代背景は理解できたと思います。
普:長屋王(ながやのおう)についてもう少し詳しく説明してくれないか?
日:はい、承知しました。
長屋王の祖父である天武天皇は 10人の妻女との間に10人の皇子と7人の皇女を儲けていました。天武天皇の長子を高市皇子と言い、長屋王の父親になります。高市皇子の母親は尼子娘(あまこのいらつめ)で、地方豪族の娘である采女として後宮に仕えていたのではないかと思われます。天武天皇の時代の妻女の身分は、皇族クラスは皇后や妃、中央の豪族や有力氏族クラスは夫人、地方豪族クラスは采女に分けられていました。因みに、天智天皇の時代は、皇族クラスは皇后や妃、中央豪族クラスは嬪、地方豪族クラスは采女の身分があり、采女の内でも子供を産んだ采女は宮人と呼ばれていました。
普:高市皇子の母親は采女だから、妻たちの中では身分が低かったんだな。
日:高市皇子は天武天皇の長男でしたが、母親の身分が低い為に天皇になる可能性はほとんどありませんでした。壬申の乱が起こった原因の一つに、天智天皇の長男であった大友皇子の母親の身分が低かったことが挙げられます。天智天皇の妃や嬪に皇子がおらず、当時の慣習では采女クラスの皇子を皇太子に立てることは難しかったのです。表向きは天智天皇の弟であった大海人皇子(天武)が、皇太弟として皇太子の立場と見做されていました。しかし、親心としては、我が子を天皇にしたいと思うのは無理からぬことで、大友皇子は母親の身分は低いが、大変優秀で天皇になる資格を十分に兼ね備えていると、唐の博士などを召して喧伝させています。
普:あれ、それって…
日:それはまた後ほど。天智天皇は現在の滋賀県、当時は近江と呼ばれていた地方で即位したので、天智天皇の宮廷は近江朝廷と称されていました。皇位が天智天皇側から大海人皇子側に移ると都合の悪い近江朝廷の重臣たちが、大友皇子を担ぎ上げたことで、大海人皇子との衝突は避けられなくなったのです。
普:なあ、それって…
日:師匠、その辺りのことは、後ほど纏めてご説明します。
普:おう、わかった。
日:寄り道が過ぎましたね。母親の身分が低ということで、長屋王の父親である高市皇子は皇位には就けなかったものの、天武天皇の長子として壬申の乱で活躍した功績もあり、政(まつりごと)の場では重んじられていました。


■高市皇子
696持統10年7月10日薨去 (日本書紀)
654白雉5年生?~696持統10年7月没 43歳?(扶桑略記 他)
661斉明7年生 ~696持統10年7月没 35歳 (本稿での主張)
父 天武天皇
母 尼子娘 胸形徳善の娘
妻 御名部皇女 天智天皇皇女。一代要記に長屋王母とある。
夫持娘 本朝皇胤紹運録に長屋王の母とある。御名部皇女のことか?
十市皇女 万葉集
但馬皇女 万葉集
子 長屋王 684天武13年生~729神亀 6年没 46歳(扶桑略記など)
鈴鹿王 690持統 4年生~745天平17年没 56歳(本稿)
矢通王?(一代要記に「大津皇子將謀叛賜死」とある)


■長屋王
684天武13年生まれ~729神亀6年没 46歳
(扶桑略記、一代要記、公卿補任等)
676天武 5年生まれ~729神亀6年没 54歳(懐風藻)
父 高市皇子
母 御名部皇女 一代要記 に「母近江朝天皇女御名部皇女」とある。
夫持娘 本朝皇胤紹運録に「母夫持娘。御名部親王女」とある。
妻 吉備内親王 草壁皇子と阿閇皇女(後の元明天皇)との子
子 膳夫王(かしわで)、桑田王、葛木王、鉤取王ら 729年没
(以下略)


普:長屋王の母親は一応御名部皇女「(みなべのひめみこ)でいいのか?
長屋王の妻は、母親の妹の阿閇皇女(あへのひめみこ)、後の元明天皇と皇太子草壁皇子(くさかべのみこ)の娘の吉備内親王(きびのないしんのう)。妻の父親の皇太子草壁皇子は、天武天皇と皇后の*野讃良皇女(うののささらひめみ)、後の持統天皇(じとうてんのう)の皇子。 (*慮+鳥)
母親の御名部皇女と元明天皇は同母姉妹で、持統天皇は異母姉で…、全員天智天皇の皇女か…あー、ややこしいー!

 皇統譜を見比べながら、人間関係を把握しようとギルベルトは四苦八苦していた。

日:こちらは藤原不比等の息子で藤原四兄弟です。長屋王を謀叛の罪で自殺に追い込んだ首謀者です。

 菊は更に資料を追加した。


■藤原四兄弟
藤原不比等の息子
長男 藤原武智麻呂(むちまろ)(680-737)
二男 藤原房前(ふささき)(681-737)
三男 藤原宇合(うまかい)(694-737)
四男 藤原麻呂(まろ)(695-737)
武智麻呂→藤原南家の始祖
房前  →藤原北家の始祖
宇合  →藤原式家の始祖
麻呂  →藤原京家の始祖


普:お前、無情だな!

資料の束を手に、ギルベルトは恨めしげに菊を睨んだ。

日:何をおっしゃるやら、あなたが説明してくれとおっしゃったんじゃありませんか。資料はこれで終わりですから、ちゃんと見てくださいね。

普:うーっ…

日:では、天武天皇の系図を見ていただけますか。説明しますので目で追ってください。皇后持統天皇との子供に草壁皇子と、その妻元明天皇の名前を確認できると思います。二人の子供に元正天皇(げんしょうてんのう)、文武天皇(もんむてんのう)、吉備内親王の名前が確認できますか?元正天皇は文武天皇の姉で、吉備内親王は妹で長屋王の妻です。文武天皇の妻に宮子の名前が確認できると思います。
普:確認した。
日:宮子は藤原不比等の娘です。
次に、文武天皇と宮子の子供に聖武天皇(しょうむてんのう)と妻の藤原安宿媛(あすかべひめ)、後の光明皇后(こうみょうこうごう)の名前が確認ができると思います。安宿媛も不比等の娘です。二人の子供に孝謙・称徳天皇(こうけん・しょうとくてんのう)と基王(もといのおう)が確認できると思います。基王は異例中の異例で、生後わずか32日で皇太子に立てられ、翌年生後1年に満たずして夭逝しています。
普:確認した、ここで天武天皇の系図は終わりだな。
日:はい、系図上の説明は以上です。さて、藤原不比等の娘、宮子と安宿媛ですが、宮子は聖武天皇を出産した後、心的障害に陥り36年間病が癒えぬままでした。長屋王の謀殺の原因になったのが、安宿媛の『立后』を巡る確執にありました。聖武天皇と安宿媛の息子の基王が夭逝し、皇位が聖武天皇のもう一人の妻、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の息子である安積親王(あさかしんのう)に移るのを阻む為に、安宿媛を皇后に立てようとしたのです。しかし、皇后には皇族が就くとの法令があり、臣下の娘である安宿媛は皇后にはなれない決まりでした。
そこで、立后に反対するのが確実な左大臣長屋王を排除する為に策を弄し、夭折した基王を呪詛したとして謀叛の罪を着せたのです。


【724年に即位した聖武天皇は、勅して母藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈った。すると長屋王は、先勅には大夫人とあるが、令では皇太夫人である。勅に従えば令に背き、皇の字を削って、令に従えば遺勅になると奏した。
聖武天皇は勅を撤回し、文では皇太夫人とし、言葉は大御祖(おおみおや)とせよとした。
勅は本来令の規定に優先する。だが長屋王はあえて若い天皇を牽制し、藤原氏の特別扱いに一矢を報いた。
過去にこうした経緯のある長屋王が、光明子の立后という前代未聞の挙に首肯する筈がない。
猛然たる反撥が予想された。反対を未然に防ぐために、長屋王の変は仕組まれた芝居であった。
長屋王の変から半年後の729年(天平1年)8月10日、光明子は臣下の娘として初の皇后となった 】


日:『長屋王の変』と呼ばれているこの事件で、長屋王、吉備内親王と子供たち(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)が亡くなっています。
普:権力争いは熾烈で非情だが、子供が連座したのは痛ましいな。
日:この後、737年に九州で天然痘が流行し、それは瞬く間に都にも及び、藤原四兄弟は相次いで亡くなりました。長屋王の変の8年後の事でした。巷では長屋王の祟りではないかと怖れたそうです。
普:一度に兄弟全員死んだのか。神は藤原一族にも罰を下していたんだな。
日:お天道様が見ていますから。
普:ああ、納得した。

 ギルベルトは再び、菊が説明した通りに天武天皇の系図を目で追い、ぽつりと呟いた。

普:侮れないな…
日:…?

 首を傾げた菊に、苦笑まじりにギルベルトは言った。

普:…女は怖いって事だ。
日:はあ、まあ…?
普:一言で言えば、天武天皇亡き後の天武朝は、天智天皇の娘たちが仕切っていたってことだな。天武朝と言うより、天智朝の続きみたいだよな。
日:本当はそうだったのかもしれませんね。そして、自分の息子を皇位に就けたい女たちのエゴと、天皇の外戚として権力を我が物としたい藤原一族の男たちのエゴによって、天武朝は滅んだと言っていいのかもしれませんね。
普:天智朝を乗っ取ったはずなのに、結局は天智天皇の手の平の上だったってことか。結果から見ると、天武朝っていったい何だったんだろうな?
日:天武朝の皇統を丸ごと削除しても万世一系の皇統に変わりはない。
それが、答えですよ。
普:つまり…、『嘘の皇統』ってことか?
日:さすがは師匠、鋭いですね。
さて、それでは、梅の宴の主役である大伴旅人(おおとものたびと)ですが…


【梅の宴】
梅花の宴は、730年(天平2年)正月13日に、今の福岡県、大宰府にあった万葉集を代表する歌人、大伴旅人の邸宅で催された。
太宰府展示館によると、当時、九州全体を司る役所が太宰府にあり、大伴旅人はそのトップとして派遣されてきた「中央官僚」だった。
彼を中心に優れた歌人としても知られた山上憶良ら計32人が集まり、酒に酔い、邸宅に咲き誇った梅の花をめでたという。

■大伴氏
 『大伴氏は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏(ともうじ)に改称。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。
 摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)
 「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。
 また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。
 なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた』


日:大伴旅人は武人として左将軍や大将軍を務め、天皇からも信頼の厚い人物だったようです。左大臣であった長屋王とも親しかったようですね。そして、旅人が太宰府に遣わされた翌年に長屋王の変は起こっています。
普:大伴旅人はわざと遠ざけられたってことか?
日:当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事との見方もあるようですが、余りにもタイミングが良すぎるように思います。やはり、謀(はかりごと)と考えるのが自然でしょう。
普:長屋王の変の翌年正月に、梅の宴は催されたんだな。
日:長屋王一家の死を悼んで…、かもしれませんね。冤罪とは言え、謀叛の罪により死を賜ったわけですから、公には偲べなかっなのでしょう…

  *  *  *  *  *

時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。
しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。
 庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。
言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。
淡然自ら放し、快然自ら足る。
もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。
よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。

□令和元年(2019)年5月8日 0時30分 投稿 ちはや記

ー…ー…ー

【主な参考文献】

■長屋王の変1
www.page.sannet.ne.jp

■天武天皇の年齢研究-系図・妻子一覧
www7a.biglobe.ne.jp

*下巻をお読みくださり、有難うございました。
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 終章へ⇒ https://hiruneneko.exblog.jp/30268599/
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by hirune-neko | 2019-05-11 02:35 | 創作への道 | Comments(0)

ちはや作【令和考・中巻】時代を超越した鋭い考察〜その2

Japanese Koto さくら変奏曲/Sakura hensokyoku(Theme and Variations on the Sakura Melody)
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●【令和考・中巻】

普:おーい、 菊ーっ! 菊ーっ!

 翌朝、菊が朝食の準備をしていると、ギルベルトが賑々しく菊を呼んだ。

日:はい、師匠?
普:面白いコメントが来ているぜ。

 菊が顔を覗かせると、ギルベルトは嬉々としてノートパソコンの画面を菊の方に向けた。

 『高向王の両親については聖徳太子とその異母妹・酢香手姫皇女(斎宮)説、田目皇子と間人皇女説がありまして、確かにどっちも純血の皇族なんですが公にし辛いですね。前者は母が神聖な斎宮、後者は義理の母子なので…。
 漢皇子=天武だと仮定すると漢一族に養育されたことになるので、その辺りの背景事情も気になる所ですね』
(令和考・上巻のコメントより)

日:これは…、でも、何故?
普:昨夜、菊が話してくれた事を忘れねえように、纏めて俺様日記に載せておいたんだぜ。見返してみたら、コメントが来ていた。さすが俺様、人気者だぜ!
日:何とも興味深い…、痛いところを突かれましたね…
普:このコメントの説明をしてくれるよな?
日:かなり遠回りになりますが、それでもよろしいですか?
普:おう、勿論だぜ!
日:では、朝食を済ませてしまいましょう。

  *  *  *  *  *

 朝食の後、菊の要望でコーヒーを入れたギルベルトは、わくわくしながらノートパソコンを開いた。

日:先ず、聖徳太子と酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)の説明からしましょうか。皇統譜の用明天皇の系図を見ていただけますか、子供に聖徳太子の名前があると思います。
普:聖徳太子か…、おっ、見つけたぜ。
日:では、その系図を遡ってください。
普:蘇我稲目宿禰(そがのいなめすくね)で行き止まりだ。
日:では、もう一度、用明天皇の系図を見ていただけますか?子供に酢香手姫皇女の名前があるので…
普:おっ、見つけた!遡ると…、葛城直岩村(かずらぎのあたいいわむら)か。
日:葛城氏は葛城王朝説が唱えられるくらい古くから力のあった一族で、五世紀頃が最盛期と言われています。我が国では大和時代に相当し、古墳が数多造られた時代でもあったことから古墳時代とも呼ばれています。天智・天武天皇の頃は明日香の地を中心として栄えたので明日香時代と呼ばれています。もうこの頃は、葛城氏の力は衰えていましたが、名門であることには変わりありません。そして、蘇我氏というのは、葛城氏の別れなのです。系図にある蘇我稲目宿禰はなかなかの遣り手で、後宮に娘たちを送り込み、後の蘇我一族の繁栄を築いた人物です。
普:ということは、聖徳太子も葛城氏系ってことか。
日:そして、天智天皇は葛城皇子とも呼ばれています。当時は乳母、或いは後見人になった氏族の名前で呼ばれることが多く、天智天皇は葛城氏が後見人になっていたと考えられます。葛城氏の子供たちである乳兄弟は将来の片腕となり、葛城氏の私兵は皇子の私兵ともなって皇子を守ります。生涯に亙る強い絆で結ばれることになるのです。
普:つまりどういうことになるんだ?
日:仮に、高向王が聖徳太子と酢香手姫皇女の子供だとしたら、天智天皇とは氏族を同じくする義兄弟のようなものです。高向王の息子の漢皇子(天武)は、実際に腹違いの義兄弟だったわけですが、天智天皇が4人もの娘を嫁がせて誼みを通じる必要があったということは、決して近しい関係ではなかった、警戒すべき人物だったということではないかと思います。
普:成る程な。
日:そして、一番の疑問は、高向王が葛城氏の一族であったなら、壬申の乱の時に葛城氏が天武天皇(漢皇子)を後援しなかったのは何故なのかということです。実際、葛城氏は壬申の乱の後に没落しています。
普:確かに、権力を握ったら、自分の一族を取り立てるのが普通だよな。聖徳太子・酢香手姫皇女説は否定か…
日:記録がない以上、否定はし切れませんし、そうした説があるということは、そういう噂があったということでもありますからね。
普:火の無いところに煙は立たないって言うからな。次は、田目皇子(ためのみこ)と間人皇女(はしひとのひめみこ)だな。二人は義理の母子みてえだが、この時代、腹違いの兄弟姉妹は結婚できたんだよな?義理の母子でも結婚できたのか?
日:古代には父の妻を娶るということは、そう珍しいことではなかったようです。確か、9代の開化天皇(かいかてんのう)は、父の妻を娶って崇神天皇(すじんてんのう)が生まれています。
普:へえー…
日:さすがに明日香時代の頃は、眉を顰める事態だったとは思いますが?さて、その田目皇子ですが、母親は蘇我稲目宿禰の娘の石寸名(いしきな)です。田目皇子は用明天皇の長子だと思われますが、用明天皇は田目皇子を我が子とは認めていなかったと言われています。
普:女房が浮気したってことか?
日:通い婚の時代でしたから、父親が知らない夫がいたのかもしれませんね。用明天皇とは政略結婚で、気に沿わない結婚だったのかもしれません。石寸名との間の子供は田目皇子だけですから、用明天皇も余り関心を持っていなかったのかもしれませんね。
普:お互いに気に沿わない結婚だったのなら気の毒だな。
日:そういう時代でしたからね。でも、石寸名(いしきな)は蘇我氏の娘で資産家でしたから、夫が無関心でも生活には困らなかったのではないかと思います。
普:うん?
日:実は、田目皇子と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が結婚したのは、それが理由だったのではないかと考えられるのです。
普:田目皇子の母親は資産家だったってことだから…
日:はい、田目皇子はお金持ちだったのです。母親と4人の子供を引き取っても何不自由なく養って行けるくらいに。
普:でも、間人皇女は用明天皇の皇后だったんだろ?暮らしに困ることなんてあるのか?
日:用明天皇の即位年数は2年ほどなのです。蘇我一族の皇子ですから、蘇我稲目宿禰の息子の馬子(うまこ)が後見人であったはずなのですが、どうも小姉君(おあねのきみ)系の子供たちとは仲が余り良くなかったようなのです。
普:小姉君?
日:蘇我稲目宿禰が29代欽明天皇(きんめいてんのう)の後宮に送り込んだ娘は、小姉君と堅塩媛の2人です。欽明天皇は堅塩媛を寵愛して13人の子供を儲けており、用明・推古(すいこ)天皇がいます。小姉君とは5人で、間人皇女・崇峻(すしゅん)天皇の他に3人の皇子がいましたが、一番有力と目されていた間人穴穂部皇子(はしひとのあなほべのみこ)は謀殺されています。蘇我氏の系図では、馬子・堅塩媛・小姉君の関係がよくわからないのですが、もしかすると馬子と堅塩媛は同母兄姉で小姉君は異母兄姉なのかもしれません。
普:有りがちだな。
日:まだ十代と思われる聖徳太子を筆頭に4人の子供を抱え、未亡人となった穴穂部間人皇女は生活に困窮することになったのだと思います。
頼るべき兄弟はなく、再婚するにしても皇女が臣下に嫁ぐなど考えられず、ましてや穴穂部間人皇女は皇后でもあったわけです。それなりに相応しい相手となると…、難しかったかもしれませんね。そして、そこに持ち上がったのが田目皇子との再婚話しで、推古天皇の勧めだと言われています。
普:育ち盛りの4人の子供を抱えては背に腹は代えられず、世間的には夫の子供である義理の息子との結婚を承諾したってことだな。
日:遠回りをしましたが、仮に、高向王の父親が田目皇子と穴穂部間人皇女の子供だったとしても、田目皇子が用明天皇の息子とは認められていないわけですから、皇統の血統に疑問符がつきます。ただ、乙巳の変(大化改新)の敵役は、蘇我馬子の息子と孫の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)一族でしたから、蘇我馬子系と知られるのは危険だと判断し、父親の名前を隠したと考えられなくもありません。
普:敵の生き残りだとすると、大化改新の立役者の下では生きにくいかもな?結局どちらの説も玉虫色ってことか。
日:記録がない以上、どの様な説を並べようと仮説にしか過ぎませんからね。
普:でもな、わざわざ『用明大王の孫』と付け足しているのが、却って怪しいんだよな。その一言がなければ、疑われずに済んだのに、その一言がある為に、怪しんでくださいと言っているようなものだろう?
日:まあ、そうですね。無理に正当化しようとしているように見えなくもないですね。
普:日本書紀を編纂したメンバーは、なんでああいう書き方をしたんだろうな?
日:…彼らなりの良心かもしれませんね?

 さあ、一休みしましょう、と言って菊は御厨へと立って行った。

  *  *  *  *  *

(コメント)

『漢皇子=天武だと仮定すると漢一族に養育されたことになるので、その辺りの背景事情も気になる所ですね』

普:確か、皇子たちは乳母や後見人一族の名前で呼ばれるんだよな?
日:必ずしもそうとは言えませんが、大方はこのコメントに書かれている通りですね。
普:この『漢』って、Chinaと関係があるのか?
日:漢(あや)氏は秦(はた)氏と並ぶ朝鮮半島からの二大渡来氏族と言われています。


■漢氏
 『阿知使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点とした。大和に居住する漢氏は東漢氏(東文氏)となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏(西文氏・西書氏)となった。
織物工芸に長けていたため、両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませている。
 n東漢氏の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している。
『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたことを記している。
系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる』

■秦氏
 『「新撰姓氏録」によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでない。
秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化したという説もある』


普:秦氏はユダヤ人説があったよな?
日:よくご存じですね。
普:しかし、漢氏も秦氏も出自を詐称しているんだな。
日:異国で生きて行く為の方便と見逃してやってください。
普:つまり、漢皇子(あやのみこ)は半島からの渡来人一族に育てられたってことか。
日:蘇我馬子の配下に東漢氏がいたようですから、高向王の父親は蘇我系の皇子と考えてもいいのかもしれませんね。
普:コメントの『背景事情』って何だ?
日:コメント主の意図していることとは異なるかもしれませんが…
遣隋使・遣唐使と言って、推古天皇の時代から船で大陸の隋や唐と交易をしていたのですが、天武天皇の時代になってからは大陸との関係が薄れ、半島との交易が盛んになっています。
普:ああ、そういうことか。半島系が皇位を乗っ取ったってことだな?
日:はい、ですから、天武天皇は漢皇子である可能性が高く、その血統には疑いがあるわけです。
普:だから『簒奪王朝』なのか。
日:しかし、神々は天照大神の子孫ではない者の皇位簒奪をお赦しにはなりませんでした。天武朝は後宮を支配した藤原一族の飽くなき権勢欲によって、天武天皇の皇統は断たれ滅亡へと追い込まれたのです。皇統は天智天皇の子の施基皇子(しきのみこ)の子である白壁王(しらかべのおう)・第49代光仁天皇(こうにんてんのう)へと引き継がれ、本来の正しい皇統に戻ることになったのです。そして、天武朝の滅亡の原因となった藤原一族は、その後も閨閥によって千年の栄華を誇ることになります。
普:それ、変じゃねぇか?菊の説だと藤原鎌足が天武天皇を唆したんだよな?なのに何故、藤原一族は滅ぼされることなく栄華を誇ることになったんだ?
日:鎌足の後に藤原一族の栄華を築いたのは、息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)ですが、彼は天智天皇の御落胤説があるのです。不比等の母親は車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)で、後宮の采女(うぬめ)だった可能性があります。その御落胤説の元となったのが『竹取物語』です。
普:かぐや姫の話だったか?
日:はい、おっしゃる通りです。古事記・日本書紀の編纂に寄与したとされている記憶の天才『稗田阿礼(ひえだのあれ)』が書いた物語ではないかと推測されています。物語は、竹から生まれたかぐや姫が、3人の男たちの求婚を機知によって退け、故郷の月に還って行くというものです。実際には、宮廷を乱し謀略を企む者たちを非難し訴えるものなのです。求婚者に車持皇子(くるまもちのみこ)という狡猾な人物がいるのですが、それが不比等だと言われています。
普:不比等の母親と同じ名前の皇子か、成る程な。鎌足とは関係のない血筋、天智天皇の血統だったから赦されたのか…
日:釈然としない思いは残りますが、結果として、藤原一族は簒奪王朝である天武朝を滅ぼし、正統な皇統に繋ぎ渡したのですから、神々は結果良しとされたのではないかと思います。
普:日本の神々は合議制だから、そういう事もあるんだろうな。
日:キリスト教の神のように、絶対的な善悪という概念はないのですよ。改心し善行を積めば赦されるのです。
尤も、あの一族が改心したことなどありませんけどね。
日:さあさ、少し早いですけどお昼にしましょうか。
普:俺様も手伝うぜ。

  *  *  *  *  *

 流しで芋の皮を剥きながら、ギルベルトはふと思った。

普:なあ、菊。さっきの話、何かに似てねえか?
日:…似ていますねぇ。

 
 嗚呼、『令和』とは、そういうことだったのか!

  *  *  *  *  *

□令和元年5月2月 (木) 19時50分投稿 ちはや記

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by hirune-neko | 2019-05-11 02:29 | 創作への道 | Comments(0)

ちはや作【令和考・上巻】時代を超越した鋭い考察〜その1

Japanese Koto 春の海/Haru no Umi (Spring Sea) Composer/作曲者 Michio Miyagi/宮城道雄
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明治、大正、昭和、そして平成から令和へと元号が改まった。

 これまで、赤ちゃんの名入り絵本は5万3千冊以上を製作しているが、生年月日は最初からずっと西暦を使用してきた。この度の新たな元号「令和」を目にして、5月1日以降生まれの赤ちゃんの絵本には、西暦と元号を並記するよう製作担当の次男に指示した。

 ところが実際には、出産後何ヶ月も経ってから申し込んで来る人が多いため、しばらくは元号ありとなしが混在することになってしまい、製作現場では混乱が生じてしまった。

 元号や天皇制、女系天皇などに関する、いろいろな意見が飛び交っているようだが、ここで改めて、長い歴史を有する天皇制と元号について、その荘厳さを心で感じてみたいと思っている。

 たまたま、ときどきご紹介しているブログ「徒然なるままに」のブログ主・ちはやさんが【令和考】と題して、国を擬人化した小説を完成させた。膨大な文字量ではあるが、新たな令和の時代が幕開けしたのを記念し、全文をご紹介したい。文字数の制限の関係で、分割になってしまうかもしれないが、その場合はご容赦いただきたい。

 時代を十数世紀も遡り、私たちが生きている現代との共通性・いつの時代にも変わらず存在する「陰謀」や「政略」を視野に入れた、歴史ノンフィクションといってもいいのではないだろうか。信憑性はともかく、一考に値する考察だと考える。私には不案内な世界を描いた作品なので、改めて時間をかけて味わいたいと思う。

(以下、ブログ「徒然なるままに」から転載)
●【令和考・上巻】

「万葉集」の「梅花の歌三十二首の序文」

 天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。

 時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

 ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。

■現代語訳

 天平2年の正月の13日、師老(大伴旅人・おおとものたびと)の邸宅(太宰府)に集まって宴会を行った。

 折しも、初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。そればかりか、明け方の山の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたようであり、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳に閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。

 そこで一同、天を屋根とし、地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭の歌を詠むがよい。

  *  *  *  *  *

 菊が朗々と読み上げる声に耳を傾けながらギルベルトは赤ワインを堪能していた。

 春分の後の最初の満月の夜は、聖書の暦で過ぎ越しの祭りの日であった。
 イエス・キリストが12人の弟子たちと共に過ごした最後の晩餐の日である。

 日本邸に滞在しているギルベルトの為に、菊は細やかな宴を設けた。
4月半ばの肌寒い夜であったが、障子を開け放し池に映る満月を肴に二人して酒を楽しんでいた。

『令和』

 いい響きだよな、『梅の宴』の下りを読んで聞かせてくれねえか。

 ギルベルトの要望に応えるべく菊は万葉集を紐解き、『梅花の歌三十二首の序文』を読み上げた。

 存外低い菊の声は深みがあって耳に心地よい。半ば陶然とした思いの中、ふと声が途切れた。

普:菊?
日:雨が…
普:雨?

 開け放した庭をさあーっと雨の幕が降りてきた。

日:夏の宵ならば雨もまた風流ですが、さすがにこの季節では寒さが堪えますね。

 菊はそう言って障子を閉めると、膝をついて雪見障子を開けた。

日:せっかくの満月でしたのに…

 少し落胆を含んだ声が言った。

普:雨の庭も悪くねえと思うぜ。
日:そうおっしゃるなら…

 菊は御厨に立ち、しばらくしてお茶と善哉を運んできた。気づかぬうちに体が冷えていたようだ。善哉の椀の温もりに体がぶるりと小さく震えた。

普:なあ、菊?
日:はい?
普:令和が深いって、どういう意味だ?

 新元号が『令和』と発表された時、菊は「何と深い…」と呟いて絶句していた。テレビ画面の向こうで喜びに湧く人々とは打って変わった厳しい横顔が印象的だった。

日:…長くなりますが、それでもよろしければご説明致しましょう。
普:ああ、聞かせてくれるか?

  *  *  *  *  *

 菊は一度居間を出てから本や資料を抱えて戻ってきた。

日:では、先ず、此方を見ていただけますか。

 菊がギルベルトに手渡した資料は、『皇統譜』であった。

普:うん? あれ、これって、皇統が二系統になっていないか?確か、『万世一系』だったよな?
日:それは私が作ったものです。
普:えっ、てことは、此方が正しいってことか?
日:その件についてはまたの機会にでも。今は天智天皇(てんちてんのう)と天武天皇(てんむてんのう)の系図に注目してください。
普:天智天皇の後、皇統は天武天皇に移り、称徳天皇(しょうとくてんのう)を最後に天武天皇の皇統から再び天智天皇の皇統にに戻っているんだな。それからずっと今上陛下に続いているのか、凄いな…
日:何かお気づきになりませんか?
普:あ…、ああ、天武天皇の皇統を丸っと削除しても皇統の一系は変わらないってことか?
日:天武朝は『簒奪王朝』なのです。
普:簒奪王朝…ってことは、正しい皇統じゃないってことか?だが、系図では舒明天皇(じょめいてんのう)と皇極・斉明天皇〈宝皇女〉(こうぎょく・さいめいてんのう・たからのひめみこ)の子供で天智天皇と兄弟になっているが?
日:天武天皇は大海人皇子(おおあまのみこ)と言って、突然歴史に現れた人物です。生年が明らかでなく、ものの記録に因れば、兄の天智帝より年上だったとあります。もう一度、皇極・斉明天皇系図を見ていただけますか?
普:皇極女帝…でいいんだよな?高向王(たかむこのおう)と結婚して漢皇子(あやのみこ)という子供がいることになっているな。そうか、この漢皇子が大海人皇子ってことか!
日:舒明天皇との結婚は再婚になるようです。漢皇子が大海人皇子であるなら、天智帝より年上だったという記録に納得がいきます。『斉明紀』にはこうあります。


【天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は、最初に橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと。用明大王)の孫の高向王(たかむこのおおきみ)にとつがれ、漢皇子(あやのおおきみ)をお生みになられた。のち息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと。舒明大王)にとつがれ、二男一女をお生みになられた】


普:高向王は用明大王(ようめいだいおう)の孫とあるが?大王って天皇でいいんだよな?天皇の孫の子供なら、漢皇子にも皇位の継承権があるんじゃないか?
日:ええ、この記述が正しければですが?何よりも父親の記述がないのが不自然です。用明天皇の孫とは言っても、母方がそうであって、父方は違うため記述できなかったと考えるのが自然でしょう。つまり、漢皇子は、天皇の血統ではない人物である可能性があります。
普:万世一系というのは、天皇である父方の血統によって受け継がれた皇統ということだったよな?
日:おっしゃる通りです。最初の女帝である推古天皇から、天武系の最後の称徳天皇まで、六方八代の女帝がいらっしゃるのですが、何れも父方が天皇である方々ばかりです。そして、皇后であった方以外の女帝は何れも独身です。それは、女帝は皇統を維持する為の中継ぎに過ぎないからです。
普:高向王が天皇の血統でないなら、漢皇子は皇子とは言えないってことだよな?
日:皇后の連れ子とはいえ身分が違いますからね。父方の家に引き取られていたということも考えられますが、母親の愛を忘れてはならないでしょうね。
普:夫が生きている間は日陰の身に置いていたが、母親が天皇に即位したからには息子を取り立ててやらないという選択肢はないよな?
日:突然表舞台に現れたということは、そういうことなのだろうと思います。天武帝が、正統な皇位継承者である天智帝の皇女を4人も娶ったのは、自分の血筋にコンプレックスがあったからではないかと考えられます。
普:正統な血統を受け継いだ皇女たちを妻にすることで、自分や自分の子供たちを正当化しようとしたってことか?
日:本当のところはわかりませんが、初めから皇位を狙っていたと考えられなくもありません。高向王の父親は不明ですが、高向王が皇極女帝の初婚の相手だったということは、それなりに力や財産があった氏族の出と考えられなくもありません。例えば、名のある豪族とか?或いは、野心家が焚きつけた可能性はありますね。例えば、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とか?
普:確か、天智天皇崩御の前に、謀叛の嫌疑を免れる為に吉野に逃げたんだよな?そして、崩御の後に壬申の乱を引き起こし、天智天皇の息子を殺して天皇になったんだよな?
日:大友皇子(おおとものみこ)ですね。
普:その天武帝が逃げた吉野とその勢力圏が怪しいな。
日:尾張氏の後援もあったようですね。
普:藤原鎌足って、乙巳の変〈大化改新〉(いっしのへん)を唆した奴か?蹴鞠の席で中大兄皇子(天智)の脱げた靴を拾って返したのが切っ掛けで親しくなったなんて、何か嘘くせえよな。
日:鎌足は天武帝に娘2人を嫁がせていますが、不思議なことに、親しいはずの天智帝には嫁がせていないのですよ。反対に、天智帝からは、妻女である鏡王女(かがみのおおきみ)や采女(うぬめ)を賜っています。
采女というのは、後宮に仕える地方豪族の娘たちで、大臣と言えども手出しできない高嶺の花です。鎌足は、安見児という名の采女を賜って喜びの歌を遺しています。

【内大臣藤原卿の采女安見児(うねめやすみこ)を娶(ま)きし時に作れる歌一首

われはもや安見児(やすみこ)得たり
皆人の得難(えかて)にすという
安見児得たり

(わたしは安見児を手に入れることができたよ。宮廷の人々が皆望んでも決して手に入れることの叶わなかった安見児をわがものとしたよ)】


普:うわー、こっぱずかしい!
日:胡麻擂りに必死という感じですね。藤原鎌足は藤原姓を賜るまでは中臣鎌子を名乗っていました。中臣氏というのは、武の氏族でもある物部氏と並んで神事に携わる氏族とされています。この時代は『臣(おみ)・連(むらじ)』という姓(かばね)がありました。連姓を名乗る氏族は、天孫降臨の時に家来として高天原から下ってきた者たちです。臣姓の氏族は、天孫降臨の前から地上世界の有力氏族であった者たちです。
連姓の氏族は家来ですから誼(よしみ)を通じる必要はありませんが、臣姓の氏族は地域の有力豪族ですから、国家を安定させる為には誼を通じる必要がありました。
普:政略結婚だな。
日:はい、そういうわけで、臣姓の氏族だけが天皇や皇子に娘を嫁がせることができたのです。藤原鎌足は中臣連(なかとみのむらじ)の出自ですから、天智帝に娘を嫁がせることが出来なかったのです。しかし、天武帝には2人の娘を嫁がせています。この点からも天武天皇が何者か理解できると思います。
普:天武天皇は天孫降臨の主家ではないということだな。鎌足が采女を貰って大喜びしたのもわかる気がするぜ。
日:鎌足を始めとした藤原一族を、天武天皇擁立の黒幕と考えたのはこの点にあります。乙巳の変(大化改新)の敵役だった蘇我(そが)一族は、後宮に娘たちを送り込み、その子供たちが天皇に即位することで、外戚としての地位を確立し権力を欲しいままにしてきました。聖徳太子一族を滅ぼし、天皇に取って代わろうとさえしたと言われています。娘を嫁がせることが叶わない連姓の者たちは、他所者が権力を握り天孫降臨の主家を好き勝手にするのをどの様な思いで見てきたことでしょう。
鎌足のように上昇志向の強い野心家は、臣姓の者たちを羨むと同時に嫉ましくも思ったことでしょう。同様に、同じ母の腹から生まれながら、父親の身分が違いすぎる為に、日陰者の身分に甘んじなければならなかった大海人皇子と心情は似ていたのかもしれません。
普:成る程な。
日:663年10月(天智2年8月)、百済(くだら)救援の為に派兵した白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗北。
母帝亡き後、称制(しょうせい)のままで即位することなく政治の一線から退いた中大兄皇子(天智)に代わって台頭したのが大海人皇子でした。


【称制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。
日本では飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)と野皇后(持統天皇)の二例が見られるが、どちらも『日本書紀』では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。
日本の場合、摂政と似ているが、摂政の場合は天皇が同時に存在しているが、称制の場合は天皇がいない(称制している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在)のが大きな違いである】


日:これにより、大海人皇子に可能性を見い出だした鎌足は、若き中大兄皇子を唆して乙巳の変を引き起こしたように、大海人皇子に皇位簒奪を唆していたのではないかと考えています。首尾よく皇位簒奪が叶えば、蘇我一族のように後宮を支配し権力や財産を欲しいままにできる。
決して夢ではない、手の届くところに望むものがあるとしたら、後はその時を早めるだけ…
普:暗殺か?
日:時が定まり、668(天智7)年1月に天智天皇は即位されましたが、671(天智10)年12月3日に崩御されています。享年46歳。661年に母帝が崩御されて称制のまま政務を執られた期間は7年、即位してからは3年でした。胃癌で亡くなったとの見立てがありますが、密かに砒素を盛られていたと考えられなくもありません。何故なら、寿命が短かった時代ですよ。鎌足が希望を託した大海人皇子は天智帝より歳上です。
普:時間がなかった?
日:鎌足の時間もです。実際に鎌足は、落馬事故の結果とはいえ天智帝より先に亡くなっています。669年11月没、享年56歳。亡くなる前日に藤原姓を賜っています。


【壬申の乱】

 天武元年(672)壬申の年6月、天智天皇の子・大友皇子と、天皇の実弟・大海人皇子の間の皇位継承権を巡る内乱。争いは約一ヶ月に及んだ。吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、天皇崩御の後、伊賀、伊勢を経て美濃に入り、東国を固めて、別働隊は倭古京を攻め、大友皇子軍を近江国瀬田で撃ち破り、大友皇子は自害した。大海人皇子は翌年即位し天武天皇となった。

 この時、東国へ使者を出した大海人皇子に、家臣が「きっと行く手を遮られます」と言ったので、大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)等に、「駅鈴」を貰ってこい、もし貰えなかったら、志摩はすぐに報告に戻れ、恵尺は大津に行き高市皇子、大津皇子を連れて伊勢で我等に合流せよと命じた。報告は「鈴を得ず」、壬申の乱の幕は切って落とされた。

  *  *  *  *  *

普:余談だか、父系で血統が維持されるという点は、古代イスラエル(ユダヤ)とよく似ているな。聖書にはアダムからアブラハム、イスラエル12部族、そしてダビデ王からイエスまでの系譜が記されているが、全て父系のみの記録だ。日ユ同祖論が唱えられたこともあるが、こうした点も錯誤を生んだのかもしれねえな?尤も、聖書の方は、最初の人間アダムが罪を犯し、その罪の下に生まれた人類を救う為に、救世主イエスが誕生するまで父系で血統を繋ぐ必要があったわけだが、日本が皇統の父系に拘っているのは何んでなんだろうな?
日:神代の昔すぎて、理由は失われてしまったのかもしれませんね。
それでも二千年この方父系で受け継がれて来たのです。父系という絶対的な縛りがあることで、皇統は維持され護られて来たのです。これからもそれは変わらないし変えてはならないのです。我が日本国と皇統はイコールなのですよ。皇統が喪われる時、神代からの日本国も喪われるのです。
普:重いな…
日:ええ、とても…でも、それが我が国ですから。

□平成31年4月30日(火) 1時30分投稿 ちはや記

*上巻をお読みくださり、有難うございました。
 よろしければ、中巻にお進みください。
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by hirune-neko | 2019-05-11 02:25 | 創作への道 | Comments(0)

健全な生活だと、夜は眠くなるようだ

Astor Piazzolla - Oblivion
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 いつもより数時間早く起き、今日の読書課題を読み終え、5000歩を歩いてきた。私としては、優等生の部類である。そのせいか、つい先ほどまで猛烈な眠気に襲われていた。そのまま眠りに入るなら、ますます健全な生活になるのだろうと実感している。

 最近は歩く余裕がなく、しばらくぶりに歩いたため、足の筋肉が衰えて身体を支えるのが大変だった。足がガクガクしながら、なんとか歩いてきた。連日歩き続けると、徐々に楽になることは経験的に分かっている。

 一昨日、リステリンのトータルケアが切れたので、新たに注文しようとしたら、トータルケア・プラスという名の新製品が紹介されていた。昨日届いたので、早速使用してみた。劇的な効果はないのかもしれないが、良さそうな感じがしている。口腔内のうがい液だ。相当年数にわたり、使用している。

 今日、歩きながら、昨日の手のひらのしびれについて考えた。久しく歩いていなかったので、脳内が重く圧迫感を感じた。そんなときでも、ある程度歩き続けていると、やがて脳内がすっきりするのは、何度も経験している。

 パソコンの前で椅子に座りっぱなしの時間が長いと、当然身体を動かさない。実感として、脳内血管の内側に何か微細なものが、少しずつ付着するような気がする、そのままにしていると、さらに付着物が増えてしまい、血液の通りが徐々に悪くなってしまう。そしてやがては、脳の血管が詰まり気味になり、脳梗塞の症状が出る、あるいは血管に亀裂が入り脳内出血を引き起こしてしまう。

 医学的なことは分からないが、体感的にはそのように感じる。つまり、どんなに忙しくても、半徹夜は止め、最低5000歩は連続して歩く。糖分の摂取はできるだけ少なくする。

 これを実行するだけでも、いろいろな病気の予防になると思う。

 相当量の水を飲むのも習慣化している。電子水、酸素水を欠かさず飲んでいる。手作り酵素も、水で薄めて飲んでいる。

 今日知人が、カゴメのトマトジュースを誕生日のプレゼントとして送ってくれた。「つぶよりの国から」と書かれた説明パンフレットが入っていた。とても新鮮でナチュラルな感じがした。栄養価が高く、野菜の栄養分を吸収しやすい、腸に優しいジュースという感じだ。私の健康を心配して、送ってくださったのだと思う、有難いことだ。

 今日は選曲に迷ってしまった。冒頭のOblivion(忘却)という曲は、ピアソラ作品の中で最も好きな作品なので、出し惜しみをし、あまり掲載していない。今日は、この曲を選び、いろいろな演奏家の演奏を聴いたのだが、正直言ってどれも気に入らず、結局はピアソラ自身の演奏の、この動画にした。


 東日本大震災の後、北海道から福島まで、地方新聞社を駆け足で訪問した。レンタカーで走り回ったのだが、廃墟と化した気仙の海岸線の景観、そして多くの人命を運び去った湾内の海水の色が、強烈な印象として残っている。

 物質的、経済的な支援は被災者の皆さんの、大きな支えになったと思う。復興に向けての基盤になったと思う。しかし、どれだけの予算を配分されても、失った家族は還ってこない。

 その心の痛手を癒し、心に今も残る空虚な隙間を埋めるには、何が必要なのだろうか。・・・そう考えたとき、江戸という時代設定で、気仙出身の女性が非業の死を遂げるストーリーが思い浮かんだ。

 てっきり、陸前髙田という地名は江戸時代にあったと思い、幼少期をその陸前髙田で過ごした少女が、江戸城築城の手伝いに、家族共々江戸に移り住む、という設定にした。ところが調べたら、陸前高田市は幾つかの町が合併したときに、新たに付けられた名前だということが分かった。

 少女は江戸で成長し、やがては恋に落ちる。しかし、父親の上司から結婚相手を決められ、逆らえない父親の立場もあったので、長崎から薬を取り寄せ、病死を装って自害する。その少女が、霊界から舞台に登場し、婆やの独白する回想シーンに合わせて、舞姿を見せる。

 その舞で使われる音楽は、すべてピアソラの曲を使用する。日舞とピアソラ?日舞関係者の方だけでなく、ほとんどの方が驚かれると思う。

 幕開けで使用するのは、Remembrance(思い出)であり、少女が気仙時代に、将棋が強かったことが語られる。江戸の棋士の間では、独自戦法の「気仙流」を指す少女として、名を知られていた。

 そしてラストシーンでは、舞台上から、地上に残したまま別れ別れになった、当時の恋人や家族に対する心情を語る。そのときに使用するのが、このOblivion(忘却)である。あたかも津波に連れ去られた家族が、舞台上に甦った舞う女性を通して、自分たちに語りかけている、という印象を感じていただける演出にしたい。

 語り手の婆や役は、独身時代からの演劇仲間(私は役者ではなく脚本家である)の女性にお願いしている。数十年の付き合いだが、今では実際に婆やの年齢に近づいている。リアルな演技を期待できそうだ。

 で、舞う女は、我が娘に頭を下げてお願いしようと思っている。娘は、自分のことを私がブログで書くのを嫌がっているので、これ以上は書けない。しかし、何年も前に川崎市民劇「枡形城 落日の舞」で、城主の妻で舞う女として舞台で舞を演じさせていただいたときの印象が、強く残っており、娘のイメージで脚本を書きつつある・・・数年がかりになっているが、自称。未完の大作である。

 余談だが、気仙時代に少女が指した将棋の独自戦法を「気仙流」と命名し、これまでに将棋ソフト相手に数百局は対戦している。師匠の堀川修指導棋士五段に相談し、先手のときは初手6六歩である。師匠曰く、プロが指したのを見たことがないそうだ。最終的には立石流四間飛車を目指す戦法である。

 地元大船渡には、日本将棋連盟の支部があり、何度かお邪魔している。いつか、小学生相手に、その気仙流で対戦してみたいものだ。小学生に負けるのなら、まだ格好がつくと思うので。

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by hirune-neko | 2019-03-26 00:17 | 創作への道 | Comments(0)

過去を消された男、過去を失った男・・・単なるドジ


astor piazzola/gary burton-milonga is coming
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 過去を消され、過去を失ったものの、単なるドジだという話である。

 ことの発端は、iMacのタイムマシンとして使っていた、3テラバイトの外付けハードディスクが認識されなくなったことから始まる。新たに同容量のディスクを購入し、念のためAppleサポートに電話して設定の細かいところを教えてもらった。その際、過去十数年に渡るデータを保存していた外付けの2テラバイトのディスクを誤って選択し、初期化してしまった。見事に過去を消され、過去を失ってしまった。注意力が散漫になってしまった、単なるドジな失敗にすぎない。

 今日、メーカーのバッファローに電話して、復旧方法について相談した。どうやら有料で対応してくれそうなので、とりあえずはお願いしようと思っている。そこまで注意力が低下しチェいるのかと、正直言って愕然としてしまった。

 と同時に、過去の記憶を失うのも、ある意味では心の重荷を下ろすことになるのではないだろうか、という解放感も感じた。

 昨日は午後から、約12時間のデスクワークが続いた。途中から、左足の薬指の根本辺りに激痛が走るようになった。歩けば治るかなと思ったのだが、結局その時間を確保することはできなかった。布団に入ってからも、数分おきに激痛が走り、寝るどころではなく、朝を迎えた。さすがに途中である程度は寝たようだが、今日は徐々に治まったのでほっとしている。

 ここ数日、短編作品の創作と、多言語出版に向き合った。改めて、翻訳の難しさについて考えている。鍵は、私の描く世界と文体を感覚的に捉え、さらにはそれぞれの原語を話す人たちの心に伝わる翻訳ができる人との出会いだろう。微妙なニュアンスを持つ表現を、どのような文章に訳すかは、なかなか難しいことだと実感している。

 日本語で、「私は昨日までの私を捨てました」と表現したとき、その人の心の変化や生き方に影響を与えた出来事、あるいは人間を視野に入れないと、無味乾燥な逐語訳になってしまうと思う。そこが、翻訳の分岐点なのではないだろうか。

・日本語:私は昨日までの私を捨てました。
・英 語:I threw myself up until yesterday.
・スペイン語:Me vomité hasta ayer.
・ポルトガル語:Eu me joguei até ontem.
・フランス語:Je me suis jeté jusqu'à hier.
・フィンランド語:Heitin itseni vasta eilen.
・ポーランド語:Rzuciłem się aż do wczoraj.
・ベトナム語:Tôi đã ném mình lên cho đến ngày hôm qua.
・ヒンディー語:मैंने कल तक खुद को ऊपर फेंका।
・ヘブライ語:זרקתי את עצמי עד אתמול.
・アラビア語:ألقيت بنفسي حتى أمس.
・中国語:我把自己推到了昨天。
・韓国語:어제까지의 나를 버렸습니다
・ロシア語:Я бросился до вчерашнего дня.
 
 いやあ、実に壮観である。これらはすべてGoogle翻訳によるものだ。いずれも文法的には正しいのだと思う。しかし、短編作品を丸ごとGoogle翻訳したのでは、おそらく体温が感じられず、息づかいも聞こえてこないだろうと思う。

 結論として思うのは、いかにいい感性と表現能力を持つ、ネイティブの翻訳家と知り合いになれるかが、鍵だと思っている。

 判断に迷うのは、紙の本、電子書籍のいずれを重要視するかだ。常識的には、単行本出版の場合は、印刷代、紙代、加工費、製本費、在庫費、送料の発生しない電子書籍を選択すべきだと思う。しかし、名入り絵本のような、思い出と記念の本ならば、やはりいつでも手に取れる、紙に印刷した本の方が、付加価値が高いのではないのだろうか。

 ・・・とまあ、あれやこれや病的にイメージが膨らんでしまっている。妄想もここに至れりである。

 ようやく、足先の痛みが治まってきたので、明日からはまた健全な生活を目指す努力を再開したい。

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by hirune-neko | 2019-01-21 23:10 | 創作への道 | Comments(0)

スペイン語とポルトガル語にも翻訳されることになった

Astor Piazzolla, Aconcagua, II. Moderato
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 昨日の記事に書いたように、昨晩、唐突に心に促しを感じ、南米出身の男性に、ニュージーランド人女性によって英訳された作品を見せ、感想と意見をお願いしようと思った。そこで、国際コンクール用に作成した日本語投稿原稿3作品と、英訳してもらった2作品を印刷した。

 たまたま今日、ある会合で会えたので、お願いして少し時間を割いてもらい、これまでの経緯と今後の多言語出版構想について説明した。言語学を学び、母国語のスペイン語以外に、ポルトガル語、英語を使い分ける彼には、鋭い感性が具わっていることを感じていた。

 勿論、私には多言語出版の経験はなく、初めてのチャレンジである。しかし、まずは日本語を英語に翻訳し、英訳文を起点として多言語化するのが、最も現実的だと考えている。

 状況を把握した彼は、その場ですぐに翻訳を引き受ける、と申し出てくれた。確認したところ、スペイン語とポルトガル語の両方にに翻訳し、1週間後には渡してくれると言う。さすがに、私には翻訳のクオリティを判断する能力はないが、楽しみである。

 帰宅して、改めて英訳された2作品に目を通してみた。おめでたい自画自賛になってしまうが、舞台がアメリカ東部や北欧であることもあり、他言語で読まれる皆さんの心にも伝わるのではないかと、少し自信が湧いた。

 さらに、まだ英訳されていない日本語作品にも目を通してみた。この作品を翻訳依頼しなかった理由は、他の2作品と較べると、多少難解な漢熟語が多く、余程の日本語力がないと、誤訳する危険性が高いと判断したからだ。この作品の主題は、亡き国王の跡を継いだ新国王が、市井で貧しい生活を送る一般女性と出会い、結ばれるまでの数奇なストーリーである。

 なかなか悪くないと、再び自画自賛したのだが、ラストシーンでの、二人が結ばれたことを表現する描写が、日本人の感性だと理解してもらえると思うのだが、ニュアンスが微妙すぎて、外国人にも明確に理解してもらえるような表現に書き換えた方がいいと思った。この作品は2015年の6月に書かれており、当時は日本国内での出版しか視野に入れていなかった。そこで、最後のシーンだけを手直しすることにした。

 以下が、改訂版の作品である。最後の部分だけの手直しなので、すでにお読みくださった方は、最後だけ目を通してくだされば十分である。


創作短編 改訂版「王家の憂鬱とネコの欠伸(あくび)」 

 かつて、東ヨーロッパの東端に、王政の国がひっそりと存在していた。ヨーロッパ列強諸国による、長期にわたっての領土拡張政策の影響を受けずに、文字通り、目立たずに存在し領土を侵されることはなかった。地政学的には、周りを軍事的強国に囲まれており、常に侵略・支配される可能性が高い国だった。  

 王家は世襲制だったが、代々の国王は皆、人格者であり知恵に富んでいると同時に有能な戦略家でもあった。入り組んだ峡谷が、天然の要塞にもなっていたが、何よりも、国民の王家に対する敬愛の情が強く、有事の際には、全国民が一致結束して戦った。なのでいつしか、周辺の列強国はこの王国に畏怖の念を持つようになり、どんな武将でも敢えて戦いを挑むようなことはしなかった。  

 その高齢の国王が、原因不明の病に倒れた。王家や臣民、国民の願いも空しく、国王は還らぬ人となった。国全体が、何日も喪に服したが、悲痛な悲しみはいつまでも空しく国全体を覆っていた。  

 王国では、国王にもしものときは、第一子の男児が王位を継ぐ習わしになっていた。すでに五十歳を過ぎて間もない新国王は、幼少の頃から病弱であり、国の政には関心が薄く、ずっと独り身で過ごしていた。音楽の才能を有し、楽を奏で作曲にも秀でていた。後継者の、およそ統治者らしからぬ姿は、亡き国王と王妃にとっての、唯一の心配であり続け、国の先行きを思う、家臣たちにとっても暗黙の憂鬱となっていた。  

 亡き国王には、何人もの忠実で有能・勇猛な家臣が仕えていた。彼等は、この隙に乗じて他国の軍隊が攻め入ってくることを懸念し、王妃に進言することになった。新国王は幸いに、頭脳明晰であり直感力も鋭かった。なので、家臣達は進言を受け容れた王妃の勅命により連日、国の統治、諸外国との交易、国の防御などについて新国王に進講することになった。  

 新国王の隠れた才覚に期待し、家臣達は心血を注いだ。代々の国王の血筋である新国王には、やはり受け継いだ才覚があり、徐々に頭角を現し始めた。国内外の情勢を的確に把握し始め、ときに発する鋭い問いかけに、家臣達が返答に窮することもあった。いつしか新国王には威厳が具わるようになっていた。  
 進講を受けるとき、王座に座る新国王のヒザの上にはいつもネコがねそべっていた。ネコはときどき退屈そうに欠伸した。全身を白毛に覆われているのだが、両眼の周りだけが真っ黒という、非常に特長ある顔立ちだった。緊迫した内容の進講を受ける、威厳ある新国王と、悪戯描きしたようなネコの顔つきは、いかにも不釣り合いだったが、人との接触を好まない新国王が、生まれたての頃から気を許し、可愛がっていたネコであることをよく知る家臣達に、違和感はなかった。家臣達の努力の甲斐もあり、王国は平和裡に年月を重ねた。  

 ある日、新国王は家臣を集めて問い質した。亡き国王に対する国民の、敬愛の情が深いことは実感していたのだが、経験も浅く非力な自分に対して国民がどのような気持ちを抱いているの知りたい、ついては何か名案はないのか、と問い質したのである。  

 どの家臣の進言も、新国王が得心できる内容ではなかった。  

 現存する記録によれば、王国の起源はかなり古く、紀元前の時代、ネブカデネザル王の捕囚を逃れた人々が東へ東へと流浪の旅を続け、今の地域に定住することで国を興したとされている。

 古代イスラエルの時代に倣い、王国には代々世襲の知恵者が仕えていた。新国王はある日、その知恵者に謁見を許した。新国王は、家臣と同じように問い質してみた。すると知恵者は、このように答えた。  

 「王よ、この先、末永く国を治めるためには、身分を隠し、誰にも悟られぬよう姿を変えて民の中で3日の間、お過ごしになるといいでしょう。その3日の間に、王はご自分にとって最も貴重で得がたい宝物を得ることになるでしょう」  

 知恵者の言葉を、新国王は由とした。

    *  *  *  *  *  *  *  

 その翌日、市場の外れにある古井戸の近くにみすぼらしい身なりで、すり切れた布袋を担ぎ、力尽きて座り込んだ男の姿があった。道を行き交う人々は皆、せわしなく通り過ぎ、誰も男に関心を払う人間はいなかった。  

 突然、小さな男の子が叫んだ。  
 「見て見て、このネコ。面白い顔だよ」  
 同じぐらいの年格好の女の子が続けた。  
 「ほんとだ。なにこの顔?ねえおじさん、このネコの名前はなんていうの?」  無邪気な子どもたちの言葉に苦笑しながら男は答えた。  
 「この子はね、アヒトペルという名前なんだよ」  

 アヒトペルは眼を開いて子どもたちを見たが、迷惑そうな表情で大きく欠伸すると、また寝入ってしまった。余程ネコの顔が滑稽に思えたらしく、子どもたちは男の側を離れなかった。その時、男は視線を感じ顔を上げた。女は観察するような視線を男に向けていた。意志の強さが瞳に現れていた。男の子も女の存在に気づき、言った。  
 「お母さん、このネコの顔、見て・・・」  
 「子どもたちが失礼をしました」  
 女は男に詫びの言葉を述べた。  

 最初は迷惑そうだったアヒトペルも、諦めたように子どもたちの相手をしていた。  
 「この辺りではお見かけしませんが、旅の方ですか?」  
 「ええ、旅はまだ始まったばかりなんです」  
 「お疲れのようですね」  
 「馴れない旅を続けていますので、まだまだ馴染んでいないようです」  

 明らかにみずぼらしい格好の男に対し、意外にも女は、自分の家で休むように勧めた。思いがけない申し出に男は驚いたが、素直に従うことにした。  

 女と子どもたちの住む家は、質素で小さかった。女は手際よく小麦をこねて瓶の油を混ぜ、パンを焼いてくれた。一緒に出された干しイチジクと一緒に、焼きたてのパンを存分に食することができた。様子を見ていたが、カメの粉は残り僅かであり瓶の油も少なかった。  

 「ご親切にお礼を申し上げます。このような身なりの私に、ご厚意を示してくださり、感謝の気持ちをお伝えします」  
 男は本心からそう言った。  
 「この国では、寄留の人と旅人には親切を施すことが昔からの伝統になっているんです。国王や王家の方々も、率先してそのようにしています」  
 「ほう、国王ご自身も?」  
 「数年前に国王はお隠れになりました。ご立派な方でした」  
 「国王が亡くなられたのですか?」  
 「ええ。今は新国王がこの国を治めておられます」  
 「新国王が?」  
 「王家の血筋のご子息ですから、立派に統治されると誰しもが期待しています」  
 陽が傾いてきたので、男は礼を言い旅を続けようとした。ところが女は制止した。  
 「失礼ながら、体力が弱っていらっしゃるようです。亡くなった兄の部屋が使えますので、今晩ひと晩ゆっくり休んでから出発なさい」  
 男は一瞬戸惑ったが、女に促されその厚意に従うことにした。

    *  *  *  *  *  *  *  

 翌朝、男は礼をいい旅立とうとした。どういうわけか、女はまた引き留めた。余程不健康そうに見えるらしく、しきりに体力を案じせめてもう一日だけ休むよう強く勧められた。本心から心配してくれる女の言葉に従うことにした。

 女は少し出かけると言い、小さな包みを持って家を出た。

 アヒトペルは、子どもたちにすっかりなついてしまい、かわいがられていた。

 しばらくして女は戻ってきた。野菜や果物、粉や油、肉が入った包みを抱えていた。自分の大切な何かを売り払い、市場で買ってきたのは明らかだった。  

 女は決して多くは語らなかった。しかし、兄が戦死してしまい、残された義理の姉が失意と育児の疲れが元で伝染病に負け、亡くなったこと。そして、残された小さな子どもたちを自分が引き取り、育てていることを、ぽつりぽつりと語った。国のために戦死したのだが、国王に対する不満は言わず、かえって、国民のために犠牲になれたことを誇りに思うと語った。  

 やがてまた陽が傾いた。水浴を勧められ、亡くなった兄のものだがといいながら、着替えを用意してくれた。素直に従うことにした。明日の朝は早くから仕事に出てしまうので、ゆっくりしてお好きな時間に出発なさい、と女は言った。旅の途中で食べられるものを用意して、テーブルの上に置いていきますから、ともいった。

    *  *  *  *  *  *  *  

 朝起きると、すでに女の姿はなかった。子どもたちはまだ寝ているようだった。テーブルの上には、女が言ったように食べ物が置いてあった。男は紙を取りだし、お礼の言葉を書き留め銀貨3枚を一緒に置いた。すり切れた布袋を肩にかけ、ネコを抱き上げるとその家を後にした。  

 しばらく歩くと、男は振り返り、しばしその家を懐かしんだ。

    *  *  *  *  *  *  *  

 その夜、新国王は寝所の窓から明かりが点在する街並みを見下ろし、何やら思案していた。なかなか寝付かれず、早朝になり空が白み始めた頃ようやく眠気に包まれた。  

 新国王は、数日前の知恵者の言葉を反芻した。  

 「王よ、この先、末永く国を治めるためには、身分を隠し、誰にも悟られぬよう姿を変えて民の中で3日の間、お過ごしになるといいでしょう。その3日の間に、王はご自分にとって最も貴重で得がたい宝物を得ることになるでしょう」  

 最も貴重で得がたい宝物・・・。  

 新国王はその瞬間、珍しく非理性的な行動に出た。使いの者を、あの女の家に向かわせ、子どもと一緒に謁見しに来るよう命じる手紙を持たせたのだ。いきなり国王からの使者がやって来て、謁見するよう言われたら、さぞかし驚くだろうが新国王は論理的に考えられず、このときばかりは直感的な行動に出てしまっていた。女が謁見に来たとして、果たして何を言おうというのか、自分でも判断がつかない状態だった。  

 やがてしばらくして、女が子どもたちを連れて謁見に来たとの報せがあった。女と子どもたちは、緊張の表情で謁見の部屋の床に跪いていた。国の習わしで、国王に謁見する時は決して国王に対し視線を向けてはならなかった。なので三人とも、顔を下に向けたまま新国王の到着を待っていた。  

 新国王は、謁見の部屋に向かいながら、依然として何を伝えたらいいのか決めかねていた。  

 新国王の到着を待って、謁見の部屋の扉が開けられた。新国王は、女と子どもたちの姿を認め、謁見の椅子に向かった。彼が席に着くと、侍従の者が声を発し、女と子どもたちは深々と頭を下げた。新国王は家臣たちが見守る中、一体自分が国王として目の前の国民に対し、何をいうべきなのか、まだ逡巡していた。  

 そのとき、いつものように新国王の膝の上で眼を閉じて寝そべっていたネコが、突然予想外の行動に出た。新国王の膝から飛び降りると、そのまま駆けだして、床に跪き頭を下げている二人の子どもたちに向かったのだ。さらには子どもたちに擦り寄り、甘えた声を上げた。家臣たちはすっかり驚き、一瞬どのように対応していいか我を失ってしまった。子どもたちも何が起きたのか、分からなかったのだが、全身が白い毛で覆われ、両眼の周りが真っ黒の特長あるネコを見て、思わす声を上げてしまった。  
 「お前はアヒトペル!」  
 男の子が叫んだ。  
 「どうしてお前がここにいるの?」  
 女の子も叫んだ。  
 さすがに女は視線を新国王に向けた。あのみずぼらしい男の姿と、謁見の椅子に座す新国王の姿を重ね見て、ようやく得心がいった。どのような理由で、なんのために身分を偽り、姿を変えて街中に現れたのか、その理由は分かろう筈もなかったが、今、目の前で何が起きているのかは理解することができた。

    *  *  *  *  *  *  *  

 「その3日の間に、王はご自分にとって最も貴重で得がたい宝物を得ることになるでしょう」という知恵者の言葉どおり、新国王は国を治めるという難事業の佳き助け手と出会うことができた。
 国を統べるという難事業を遂行する上で、信頼し心を許せ、親身に接してくれる強い信念の伴侶の必要性を、新国王は認識した。驚愕の表情を浮かべながらも、女は新国王に寄り添い、国と国民のために生涯を捧げる決心をした。

 長い間続いていた、王家と家臣の憂鬱はいつしか雲散霧消し、王国は今もなお、東ヨーロッパの東の外れでひっそりと、しかし平和な国として存続している。  

 それと、ネコのアヒトペルは未だに長寿健在であり、日に何度も欠伸をしながら、新国王夫妻の子どもたちの遊び相手をしている。・・・決まって迷惑そうな顔をしながら。 完 (2019年1月20日改訂)

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by hirune-neko | 2019-01-21 00:55 | 創作への道 | Comments(0)

応募作品第2作目の英訳原稿初稿

Doble Concerto para Bandoneón y Guitarra Astor Piazzolla II. Milonga
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 福岡に住む、ニュージーランド人の女性に、短編作品2編の英訳を依頼していた。世界中から創作短編作品を募集していると聞いて、応募しようと思ったからだ。応募は日本語のままで良かったのだが、かなり以前から自分の作品を、海外で出版したいという願望があったため、英語でどのような作品に変貌するか試してみたかった。

 翻訳してくれている女性は、アメリカ在住の作家の方に英訳文を見せ、意見を聞きながら仕上げてくれている。第2作目は、サンタクロースの起源についての、私の妄想である。

 ブログには字数制限があるので、欲張って和文と英文の両方を掲載できるかどうか分からない。試してみるが、字数制限にひっかかった場合は、英文だけにして最後部には、オリジナルの作品にリンクを張るようにしたい。


【子どもの夢を壊す物語

「ニューヨーク・サン新聞の記者様、サンタクロースって本当にいるんでしょうか?」

 ・・・たくさんの大人たちが子どもの無邪気なこの質問で始まる作品を読んだことがあると思います。誰だって子どもには夢を持ち続けてほしいと願うものです。なので、子どもの夢を壊さないよう、決まっていうのです。「ああ、サンタクロースは本当にいるんだよ」って。

 サンタクロースについては、いろいろな伝説があります。ですが、誰も本当のことなど知りはしないのです。
 私は知ってるんですよ。でもね、本当のことをいうと、新聞社の記者様がやれ、子どもの夢を壊しただのと書き立てて、悪者扱いするに決まっていますから、黙っていました。

 人間は歳を重ねると、だんだん秘密を持ち続けるのが苦痛に思えるものなんです。私は、紀元前からかれこれ三千年近く生きていますので忘れたくても忘れられないことや、いいたくてもいえないことが実に多くなってしまいました。なので、少しずつ人にいえないような真実を公開しようと決心したのです。

 今日はとりあえず、サンタクロースの発祥の本当のお話をしたいと思います。私のお話を聞けば、子どもの夢を壊すだなんていう非難がましいことはいえないだろうとも思うからです。

 前置きはこれぐらいにしましょう。

 とてもとても古い時代のお話しです。北欧の、しかも北極圏に近い雪深い地方に
赤茶色の石でできた小さな建物がありました。正確なつづりは忘れましたが「サン(聖)・クロース」という名前の学校でした。

 その学校に入学できるのは、先祖代々、ある一族の血統の子どもたちだけだったんです。伝統と格式を重んじ、厳格な教育方針でした。学校制度でいえば、小学校1年生から6年間の授業を受けます。
 いくつもの外国語、いろいろな国の歴史、世界中の地理、植物学その他、大人でも大変と思えるようなカリキュラムでした。しかも、6年目の冬には卒業試験があったんです。

 子どもたちは、それぞれの家から歩いて30分ほどの試験会場に集められました。
試験会場といっても、着いてみたら子どもたちなら誰もが欲しがるようなトナカイの毛で編んだセーター、北極熊の毛皮で作った温かい靴、焼きたてのお菓子、オーロラを凍らせたような飴菓子、白樺の木の皮で作った防寒ジャケットなどがずらりと並んでいたのです。ですから集まった子どもたちは目をみはりました。

 さて、当時の卒業試験の様子をお教えしましょう。まず、試験を受ける子どもたち全員に大きな袋が渡されるのです。麻で編んだ袋で頑丈なのですが少し重いんです。試験官の先生は、欲しいものを袋に入るだけ詰めるように命じます。そして、それを自分の家に持ち帰り、自分のものにしていいといいます。大喜びの子どもたちは、歓声を上げ、ひとつひとつ選んでは袋に入れました。袋が大きくふくらんだことはいうまでもありません。そこで試験官は卒業試験の内容を告げます。

1.村まで歩いて約30分の距離ですが、袋が重いので
 休み休み歩き、きっかり1時間以内に家に戻るように。
 そうすれば、袋の中に入れたものは全て自分のものになる。
2.家に帰る時間が、1時間をちょっとでも過ぎてしまったら
 袋の中身はあっという間に空になってしまう。
3.ソリやスキーを使わずに、必ず自分の力で
 家まで歩いて帰ること。

 たったそれだけの試験内容だったのです。あまりにも簡単すぎて、子どもたちはあっけにとられました。6年間、頑張って勉強したごほうびなのだろうと誰しもがそう考えました。その日は12人の子どもたちが、試験を受けました。

 さて、やがて号令がかかり、子どもたちは喜び勇んで家に向かいました。でも、12月のその時期は雪が深く積もっておりなおも降り続く雪が、子どもたちの足をさらに重くしました。誰もが5分も歩かないうちに、息が切れ手がかじかみ、足の感覚もなくなってきたのです。休み休み、時間を気にしながら家に向かいました。

 村に帰る途中、道ばたに座り込んだおばあさんがいました。歩けなくなったようで、あまりの寒さのために目を閉じていました。 サローヤンという男の子が、そのおばあさんの前を通りました。1時間以内に家に帰らないと、袋の中のものは空になる。そう思ったので、黙って通り過ぎました。 でも気になって振り返ると、雪がおばあさんの肩や頭を覆い始めていました。サローヤンは、その様子を見て引き返しました。そして袋の中から、トナカイの毛で編んだセーターを取り出すと、おばあさんが着られるように手を貸しました。さらに、森でとれた乾燥果実をたっぷり入れて焼いた、まだ温かいフルーツケーキをおばあさんに手渡しました。おばあさんは何もいわず、でもサローヤンを笑顔で見つめました。

 さあ時間がない。サローヤンは雪道を家に向かいました。吐く息が白くなって見えました。雪で視界も遮られました。少し歩くと、小さな男の子と女の子が泣いており、そのそばには、お母さんらしき人が子どもたちを抱きかかえるようにしているのが見えました。お母さんは、すぐそばのお店で買った木彫りのリスを手に抱えていました。三人とも何か悲しそうだなとサローヤンは思いましたが、家まではまだ距離があります。重い袋を背中に担ぎ、三人の前を通りかかりました。

 そのとき、お母さんが子どもたちにいうのが聞こえました。
 「ごめんね。お父さんの薬を買ったので、木彫りのリスはひとつ分しかお金が残っていないんだよ」
 サローヤンの耳には、お母さんの言葉がはっきりと聞こえました。と同時に、袋の中に入っている木彫りのリスのことを思い出しました。一瞬、いくつかの考えが頭の中を駆け巡りました。時間が無い、袋の中が空っぽになってしまう、木彫りのリスをふたつ買ってあげるって約束してたんだろうな、お父さんは病気なんだ。
 ・・・ほんの一瞬のためらいはありましたがサローヤンは袋を足許に下ろし、中からリスを取り出しました。そして三人に近づき何もいわず、お母さんに手渡しました。三人は驚いたまま、感謝の言葉をいうこともできませんでした。

 サローヤンは複雑な気持ちでした。自分の弟や妹、それに父親や母親にあげようと楽しみにしていた袋の中の品物を、すでにいくつか見知らぬ人にあげてしまったからです。

 村に向かって歩くサローヤンに、さらなる試練が何度も待ち受けていました。どういう訳か、見過ごすことのできない人たちが、次々とサローヤンの前に現れるのです。その都度、サローヤンは袋を開けてその中から、その人たちが必要とするものを差し出したのです。子どもでしたから、自分のものがどんどん減っていくことを実感し、徐々に心が重くなりました。でも、その分、背中の麻袋はどんどん軽くなりました。当たり前ですよね。

 やがて自分の家が見えるところまでやって来ました。サローヤンの背中には、空っぽの麻袋がだけがありました。出会う人たちのために時間を使い果たしので、約束の1時間はもうすでに過ぎてしまっていました。
 時間には遅れてしまい、家には何も持ち帰ることができなかったのです。卒業試験は大失敗でした。そう考えると、悲しくて悔しくて、サローヤンは泣きながら家に入りました。

 お父さんもお母さんも、何もいわずサローヤンを迎え入れました。お母さんは背中をさすってくれました。
 「ごめんなさい、みんなに何も持って帰れなくて」
 そこまでいうのが精一杯で、サローヤンは声を上げて泣き出してしまいました。妹が、残念そうに、麻袋の中をのぞきこみました。そして手を入れ、袋の中から何かを取り出すとお父さんに手渡しました。小さな封筒でした。
 お父さんは中を確かめず、サローヤンに手渡しました。怪訝な表情でサローヤンが封筒を開けると、中には小さなカードと一緒に、純金のプレートが入っていました。プレートには文字が刻まれていました。

 「サン・クロース基礎コース修了証」

 そしてカードには、このように印刷されていました。

 「自分のことだけを考える人は自分を失い人のことを思いやる人は自分を見いだす」

 サローヤンは、何が何だか分かりませんでした。でも、お父さんとお母さんは卒業試験の本当の目的をちゃんと分かっていました。サローヤンが、道ばたで出会った人たちを無視するかあるいは自分の大切なものを、その人たちに分けてあげるかをテストされていたのです。

 これで、卒業試験のお話しを終わります。他のほとんどの子どもたちは、袋の中の宝物を時間内に家に持ち帰ろうとして、途中で出会う人たちの困苦を視野の外に追い出しました。でも、重い袋を背負い、降りしきる雪の中を、時間内に家に辿り着くことなどとてもできないことだったのです。ですから時間を過ぎて家に入った途端、袋の中は空っぽになりました。もちろん、袋の中のどこを探しても純金の修了証を見つけることはできませんでした。

 クリスマスにプレゼントを持って来てくれるサンタクロースは、商魂たくましい百貨店の企画部の人たちがたくさんの人がプレゼントを買いに来てほしいと考え、
上手に創り上げた存在なのであって、トナカイのそりに乗った、赤い帽子と洋服のサンタさんなんて、もともと存在していないのです。

 サローヤンはその後、「サン(聖)・クロース」という名の学校で学び続け、無事に高等部まで卒業しました。世界の何カ国かで実地訓練を受けて、正式な資格の認定を受けました。なんの資格か知りたいですか?

 世界中で、苦難に遭い苦しむ人や、弱り果てた人たちが一番必要とする大切なものを無料で届けているんです。12月のクリスマスの時期だけではありません。
真夏の酷暑のときだって、早朝や深夜だって、いつでも人が望むときには、駆けつけてくれるんです。

 世界中でたくさんの「サン(聖)・クロース」卒業生が今でも毎日、熱心に働いているんです。

 これが本当のサンタ・クロースの姿なんですよ。でも、彼らは人には見えないように、そっと訪れてそっと帰ってしまうので、誰も見たことがありません。でも確かにサンタ・クロースは存在しているんです。

 さて、事実を語ることで私は子どもたちの夢を壊してしまったでしょうか?今どきの子どもたちは、大人よりずっと世の中の仕組みをよく知っているようですよ。

 もしかしたら、皆さんの周りで普通に暮らしている人の中に「サン(聖)・クロース」卒業生がいるかもしれません。私?私のような寒がり、暑がりのねぼすけが
そんな厳しい卒業試験に合格する訳がないでしょう? (2014-01-13 01:42


Translation -Short Stories- タイトルは未訳

“Dear Editor of the New York Sun, Is there a Santa Claus?”

…I am sure many adults have read the story that starts with this innocent question from a child. Everyone hopes that children will hold on to their dreams, so there is almost a conspiracy not to destroy the dreams of children. “Yes, there is a Santa Claus”.

There are many legends about Santa Claus. However, no one knows the truth. I know. I have kept quiet because I know I’ll be treated as the bad guy and written up by newspaper reporters as the person who destroyed the dreams of children.
As people get older, it gradually becomes painful to hold on to secrets. I have been alive since before the time of Christ, for nearly 3000 years, so there are things that I can’t forget even if I wanted to, and so many that I can’t talk about even if I wanted to. So I have decided to gradually tell people the truth.
Today, to start with, I think I want to tell you the real story behind the origins of Santa Claus. Because, I think, if you listen to me you won’t be accusing me of destroying the dreams of children.

That’s enough of a preface.


It is a story from a very, very old time. In Northern Europe, actually close to the deep snowy regions of the Arctic Circle, there stood a little reddish brown stone building. I forget the correct spelling, but it was a school named “Saint Claus”. The only pupils who were allowed to enter were those whose ancestors were of a certain bloodline. The education policy was very strict, with heavy emphasis on tradition and social status. The school system was the equivalent of grades 1 to 6 of elementary school. The curriculum would have been hard for an adult – several foreign languages, the history of various countries, the geography of the world, study of plants etc. And in the winter of the 6th year, there was a graduation examination.

The children walked about 30 minutes from their homes to gather at the examination place. When they got there it was full of things that any child would want – sweaters knitted out of reindeer fur, boots made of polar bear hide, freshly baked cookies and cakes, candy that looked like the aurora had frozen, warm jackets made of silver birch bark, and much, much more. The children couldn’t take their eyes away.
Now, let me tell you about the graduation examination. First, each child who was to sit it was given a large sack made of heavy linen. The teacher who was the examiner told them to fill their sacks with whatever they liked from the things there. And they could take it home and it would be theirs to keep. The children gave great shouts of delight and started choosing things to put in their sacks. The sacks gradually grew fuller and fuller. Then the examiner explained the content of the test.
  1. Although they were about 30 minutes’ walk from the village, no doubt with heavy laden sacks they would take rests of the way back. Even so, they only had one hour to get to their homes. If they succeeded in that, the contents of the sacks were theirs to keep.
  2. If they took even a little longer than the one hour, the contents of the sacks would disappear in to thin air.
  3. The use of a sleigh or skis was forbidden. They must walk home by themselves.
That was the test. It seemed so simple and easy that the children were taken aback. They thought it must be a reward for having studied so hard for 6 years.
That day 6 children were taking the examination.
The start signal sounded and the children started for home, full of joy, However, in December, the snow is deep, and was still falling. The children’s feet got heavier and heavier. Everyone was out of breath after just a few minutes, and their hands were numb. And they started to lose feeling in their feet. Worrying about the time, they took short breaks as they headed for home.

On the way back to the village, an old woman was sitting by the side of the road. It was so cold she had closed her eyes. A boy named Saroyan passed by in front of her. “I must get home within the hour, otherwise everything in the sack will disappear”. His mind was full of these thoughts, so he walked past the old woman. But, worried, he glanced back at her and saw the snow starting to build up on her shoulders and head. When he saw that, Saroyan turned back. From his sack he pulled out a sweater knitted from reindeer fur, and helped the old woman to put it on. Next he gave her a cake still warm from the oven, baked with dried fruits gathered in the woods. She didn’t say anything, but smiled up at Saroyan.

Time was running out. Saroyan started off again along the snowy road to his house. His breath was white. The snow blocked his field of vision. After walking a short distance he saw a small boy and girl crying, while someone who appeared to be their mother hugged them. The mother was holding a squirrel carved of wood she had bought at the shop there. Saroyan thought how sad they looked, but he still had a way to go before his home. He lifted up the heavy sack onto his back again and walked past them. As he did so, he heard the mother say to the children “I’m sorry. We had to buy medicine for your father, so there was only enough money left over to buy one carved squirrel.”

Saroyan could hear clearly what the mother said. At the same time he remembered the carved wooden squirrel in his sack. In that instant, many thoughts went through his head. There’s no time, the sack will be empty, she must have promised to buy two squirrels, their father is sick. After only a brief hesitation, Saroyan put his sack down, and took out the squirrel. He approached the family and silently handed it to the mother. The three of them were so surprised that they couldn't even say thank you.

Saroyan’s feelings were complicated. Already many of the things in his sack that he had been looking forward to giving to his parents and younger brothers and sisters had been given away to strangers. As he continued to walk towards the village, many further challenges awaited Saroyan. For some reason, he kept meeting people he couldn’t ignore. Each time he opened his sack and gave them what they needed. He was still a child, so his heart grew heavier and heavier as he realized that he was giving away his things. Which also meant that the heavy linen sack on his back was of course getting lighter too.
Finally he got to the place where he could see his home. On Saroyan’s back the linen sack hung empty. He had used up the time with each person that he met, and he was over the one hour limit. Not only was he late, but he wasn’t able to bring anything home. He had failed his graduation examination badly. When he thought about that he was sad and disappointed, and Saroyan started crying as he entered his house.

His mother and father welcomed him without saying anything. “I’m sorry, I wasn’t able to bring you anything”. That was all he was able to say before he started crying in earnest. His younger sister looked sadly into the sack. Then she put her hand in and pulled out something and handed it to her father. It was a small envelope. Her father handed it to Saroyan without opening it.
Saroyan opened the envelope with a wary expression. Inside there was a small card along with a pure gold plate. Some letters were etched on the plate. “Certificate of Completion for the Saint Claus Basic Course”. And on the card it said; “People who only think of themselves will lose themselves. People who think of others will find themselves”.

Saroyan didn’t understand what was going on. But his mother and father knew the real purpose of the graduation examination. They knew that he was being tested to see if he would ignore the people he met by the roadside, or if he would be willing to share his precious things with them.
Here end the story of the graduation examination. Most of the other children tried to take all the treasures in their sacks home within the time limit, and so ignored the people they came across on the way home. But to carry such heavy sacks within the time limit was not possible, so the instant they entered their homes everything in the sacks vanished. Of course no matter how hard they searched they couldn’t find any gold certificate plates.

The Santa Claus who brings lots of presents is of course a clever creation of the aggressive salesmanship of department stores, trying to get lots of people to come in and buy presents, and the Santa in red clothes and hat, riding on a sleigh pulled by reindeer never existed in reality.

After that, Saroyan continued to study at the school called “Saint Claus”, and graduated the high school division. After receiving training in many countries around the world, he was awarded the official qualification certification. And do you want to know what that qualification is?

It is to deliver to people who are weak or suffering anywhere in the world the thing they need the most at the time they need it most. This is not only at Christmas in December. Even in the extreme heat of summer, or in the early morning or in the middle of the night, wherever people need help they will help. Throughout the world there are many graduates of “Saint Claus” school working hard every day even now.

This is the true form of Santa Claus. But they visit and go home again quietly so that no one notices them, which is why no one has ever seen them. But Santa Claus is real.

Maybe there is someone around you living a normal life who is actually a “Saint Claus” graduate. Me? I hate the cold, and the heat, and always want to sleep in. There`s no way I could possibly pass that graduation examination, is there?

 おお、なんとか和文と英訳文の両方を保存できたようだ。やれやれであるが、こんな長文を目の前に突きつけられる読者の方には、とんだ災難で申し訳なく思っている。