六ちゃんの恋(第3話)
休む間もなく、翌日から父と母それぞれには仕事が待っていた。父には紺色のブレザーとネクタイがあてがわれ、母にはエプロンが用意されていた。
転校の手続きを終えていない六ちゃんは、家に独り残って窓からお屋敷の方を眺めていた。夜だったので前夜は気づかなかったが、敷地内はまるで森のようにたくさんの木が生い茂っていた。好奇心を駆り立てられた六ちゃんは、そっと家を抜け出し、敷地内の探索に出かけた。 六ちゃんたちの住まいは、敷地の北西角に位置していたので、ちょうどお屋敷の裏手に住んでいたことになる。門から見た建物の外観はどんなだろう。そう思うと、敷地の塀に沿って門の方まで歩いていった。徐々に全体像が見え始める。 大きな家だった。これが洋館というのだ。室蘭の製鋼会社が所有する接待用の建物が、煉瓦道を上りきったところにあり、何度か遊びに行ったことがある。庭もあり、大きな洋館だったが、このお屋敷はその何倍もある。それと、古びた感じはするが、おそらく西洋の建築士の手になるのだろうと、漠然と考えた。 玄関に大きな黒塗りの車が近づいていく。見たこともない大きさだ。どうやら父が運転しているらしい。昨夜のご主人が乗るのだろうか。大きな木に身を隠しながら、玄関に近づいていった。 黒い洋服に白いエプロンを身につけた女の人が、何人か出てくる。じっと眼を凝らした。渋い色のスーツを着たご主人が出てきた。車に向かって数歩進むと、立ち止まって後ろを振り返る。誰かが一緒に行くのだろうか。 ご主人の視線の先から、真っ白な洋服の女の子が、うす茶色の革カバンを手に歩いてきた。豊かな黒髪がピンクのリボンでまとめられ、軽やかに、まるで踊りのステップを踏むように歩いてくる。 ご主人が笑顔を向けている。きっと娘さんなんだ。父がドアを開けて待っている。一列に並んで頭を下げる何人もの「使用人」の前を、女の子は何事も無かったかのように、まっすぐ前を向き、車に乗り込んだ。姿勢がいい・・・立ち姿がきれいなのに圧倒される思いだった。 車が動き出し、ゆっくりとこちらに向かってくる。木の陰から、車の動きを眼で追う六ちゃんの前を、父の運転する車が通りすぎた。一瞬だったが、女の子を間近で見ることができた。軽く微笑んだ横顔だった。年齢は、六ちゃんとそんなに違わない「子ども」だったが、はっきりと、まぎれもない「女性」を意識した。自分とは性が異なり、自分には無い柔らかさと気品のある「女性」が、たった今、目の前を通った。 その「女性」と同じ敷地に住むことになった自分の運命を、気恥ずかしい違和感を伴って、心の中で受け止めた。 電話の音が鳴った。少しうとうとしていたのかもしれない。長女からだった。なぜか急に悲しみと寂しさがこみ上げてくるような気がした。 「お父さん、大丈夫?もう寝てたの?」 「いや、ぼんやり考え事をしてたみたいだ」 「今、家に着いたからね。本当に大丈夫なの?」 「ああ、なんともないよ。そろそろ寝ようと思っていたところだよ」 「そう。何も食べなくて大丈夫?」 「ああ、あまり食欲がないなあ」 「シロにはエサをやっておいたから。それと今日は特別。台所にあんドーナツを置いてあるからね。でも、食べ過ぎないように」 ふと見ると、シロが私たちの会話の様子をじっと伺っている。 長女とは血のつながりがない。知っているのは、妻と私だけ・・・今では私だけしか知らない。このまま、そっと誰の記憶にも残らないよう、静かに消えて行って欲しい。六ちゃん本当にそう願っていた。 「本当に大丈夫なの?じゃあ、明日またね。午後から寄るから」 電話を切ってからも、しばらく受話器を置く気になれなかった。 やがて六ちゃんはまた、回想の世界に戻っていった。 両親は、ご主人の娘さんのことを「お嬢様」と呼ぶよう言われていた。六ちゃんには遠くから眺めることしかできない存在だった。 夜の7時過ぎになると、お嬢様のピアノの練習が始まる。1階の客間のひとつに、グランドピアノが置いてあった。大きなコンサートホールに置いてあるのと同じものだそうだ。週に3回、ピアノの先生がやって来る。 その時間になると、六ちゃんは部屋の窓をそっと開け、木々の間を縫って聞こえてくるピアノの調べに耳を傾けた。なんの曲か知らなかったが、お嬢様の指が奏でる音だと思うだけで、心深く伝わってきた。芸術性の開眼なのか、はたまた単なる憧れなのか・・・おそらくその両方だったのだと思う。 「ふむふむ・・・」と思われなくても、クリックをお願いします。 実際、最近は皆さまの応援が、励みになっているのです。 人気blogランキング
by hirune-neko
| 2008-08-13 18:43
| 創作への道
|
Comments(4)
こんばんは♪
短いお盆休みなのに、一日だら~っとブログをいじくり倒しておわってしまいました^^; 相変わらず関西は暑いです。 関東のほうはいかがですか? ネコ先生も夏バテには十分お気をつけ下さい。
0
Commented
by
hirune-neko at 2008-08-15 21:48
>フォアグラ肝臓さん
いやあ、こちらも暑いですよ。 近距離でも熱中症を用心して バスの一日利用券を買い、歩かないようにしています。 おまけにぎっくり腰になってしまい まだまだ快復していないんです。 ふんだりけったりです。 あとでブログを見に行きます。
Commented
by
romarin
at 2008-08-18 04:52
x
おひさしぶりです。
本格的な小説ですね。 楽しみ! こちらは涼しくて寒いくらいです。 ちょっと寂しい感じはしますが、暑すぎるよりはいいです。 ぎっくり腰ですか? 大変ですね。 お大事になさってください。
Commented
by
hirune-neko at 2008-08-21 00:02
|
検索
ライフログ
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング
以前の記事
2024年 03月
2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 昼寝ネコのプロフィール
・1951年
小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。 ・1969年 中央大学経済学部入学 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。 ・1974年 同大学卒業 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。 ・2006年 現在に至る プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。 ・2010年 宇宙の旅 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。 ・現在 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。 お気に入りブログ
ファン
ブログパーツ
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||