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昼寝ネコの雑記帳

ちはや作【令和考・下巻】時代を超越した鋭い考察〜その3

Japanese Koto 落葉の踊 / Ochiba no Odori (Dance of the Falling Leaves) Composer / Michio Miyagi
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●【令和考・下巻】

[皆様へ]
【令和】シリーズの応援をありがとうございます。

 下巻で終わらせたかったのですが、肝心な話が書けませんでしたので、もう一章おつき合いください。
 【下巻】は『長屋王の変』の話です。お楽しみくださいとは言い難い固い内容で、ほとんど歴史の勉強をし直しているようなものですが、この部分を通らないと、【令和考・中巻】のラストの台詞に辿り着けなくなります。

普:なあ、菊。
さっきの話、何かに似てねえか?
日:…似ていますねぇ。

 嗚呼、『令和』とは、そういうことだったのか!

 この下巻の中に、『令和』に辿り着く為の手懸かりが幾つか隠されています。似ている何か…

 皆様は手懸かりを幾つ見つけられたでしょうか?

  *  *  *  *  *


■長屋王の変

長屋王の変当事者1:長屋王
当事者2:藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)
当事者3:
時代:奈良時代
年代:721年(養老5年)1月1~729年(神亀6年)2月12日
要約:長屋王が藤原不比等亡き後の朝堂の首座となるが、藤原氏の独走(藤原氏の皇后冊立)に反対したため藤原氏に陥れられ長屋王の変の首謀者として抹殺される。
内容:長屋王は、721年1月に藤原不比等の後を受けて右大臣となり朝堂の首班となる。長屋王は壬申の乱の英雄である高市皇子の子である。高市皇子は母の身分が低かった為(持統天皇の策謀により)、天皇とはなれなかったが、極めて天皇に近い位置にいた。その子息である長屋王の政権である。(但し、舎人親王が知太政官事として牽制していたが)


【長屋王の変】

 729年(神亀6年)2月10日、在京の人従七位下塗部君足と無位中臣宮処東人が、朝廷に当時廟堂の最高官であった左大臣長屋王を訴えた。ひそかに左道を学んで国家を傾けようと謀っているという。そこで朝廷ではその夜、式部卿藤原宇合の指揮のもと六衛府の兵をもって長屋王の邸をかこませた。翌日、舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂が窮問に行き、次の日に王を自殺させた。妃吉備内親王および膳夫王ら子息は王と共に自尽し、与党と噂された上毛宿奈麻呂ら97人が捕らわれ、うち7人が流罪となった。

 最高執政官がたった二人の下級役人の密告で即日邸宅を包囲され、謀反の計画や王の弁明も明らかにされず数日で自殺させられるのは不自然である。さらに738年、密告者中臣宮処東人は、かって長屋王に仕えて恩遇を蒙っていた大伴子虫と囲碁に興じた。ところが長屋王の事に及んだとき、子虫は憤激し、駕り、剣を抜いて東人を斬殺したという。そして「続日本紀」は東人は王を誣告(嘘の申告)した人と紹介している。


■なぜ長屋王は突然政界から葬られたのか?

 この事は当時の藤原氏の焦燥に関わりがある。727年、聖武天皇の夫人となった不比等の娘安宿媛が基王を生んだ。そして僅か一ヶ月余りで立太子した。藤原氏の外戚確保の策は計画通りであった。しかし翌年、基王は満一歳にも成らずに死亡した。ところが今度は聖武天皇の夫人県犬養広刀自に安積親王が生まれた。そこで藤原氏は安積親王の立太子を妨げ、権勢を保つため、光明子の皇后冊立を考えた。だが古来より皇后は皇族がなり、それは令の定めでもあった。それは皇后は天皇を輔けて国政に関与し、情勢次第では即位し天皇となる可能性を持つ地位であった。

 強硬に立后反対を唱えたのが、藤原一族の伸長をを嫌う長屋王であった。724年に即位した聖武天皇は、勅して母藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈った。すると長屋王は、先勅には大夫人とあるが、令では皇太夫人である。勅に従えば令に背き、皇の字を削って、令に従えば遺勅になると奏した。聖武天皇は勅を撤回し、文では皇太夫人とし、言葉は大御祖(おおみおや)とせよとした。勅は本来令の規定に優先する。だが長屋王はあえて若い天皇を牽制し、藤原氏の特別扱いに一矢を報いた。

 過去にこうした経緯のある長屋王が、光明子の立后という前代未聞の挙に首肯する筈がない。猛然たる反撥が予想された。反対を未然に防ぐために、長屋王の変は仕組まれた芝居であった。
長屋王の変から半年後の729年(天平1年)8月10日、光明子は臣下の娘として初の皇后となった。

  *  *  *  *  *

日:これらの資料により、『梅の宴』の凡その時代背景は理解できたと思います。
普:長屋王(ながやのおう)についてもう少し詳しく説明してくれないか?
日:はい、承知しました。
長屋王の祖父である天武天皇は 10人の妻女との間に10人の皇子と7人の皇女を儲けていました。天武天皇の長子を高市皇子と言い、長屋王の父親になります。高市皇子の母親は尼子娘(あまこのいらつめ)で、地方豪族の娘である采女として後宮に仕えていたのではないかと思われます。天武天皇の時代の妻女の身分は、皇族クラスは皇后や妃、中央の豪族や有力氏族クラスは夫人、地方豪族クラスは采女に分けられていました。因みに、天智天皇の時代は、皇族クラスは皇后や妃、中央豪族クラスは嬪、地方豪族クラスは采女の身分があり、采女の内でも子供を産んだ采女は宮人と呼ばれていました。
普:高市皇子の母親は采女だから、妻たちの中では身分が低かったんだな。
日:高市皇子は天武天皇の長男でしたが、母親の身分が低い為に天皇になる可能性はほとんどありませんでした。壬申の乱が起こった原因の一つに、天智天皇の長男であった大友皇子の母親の身分が低かったことが挙げられます。天智天皇の妃や嬪に皇子がおらず、当時の慣習では采女クラスの皇子を皇太子に立てることは難しかったのです。表向きは天智天皇の弟であった大海人皇子(天武)が、皇太弟として皇太子の立場と見做されていました。しかし、親心としては、我が子を天皇にしたいと思うのは無理からぬことで、大友皇子は母親の身分は低いが、大変優秀で天皇になる資格を十分に兼ね備えていると、唐の博士などを召して喧伝させています。
普:あれ、それって…
日:それはまた後ほど。天智天皇は現在の滋賀県、当時は近江と呼ばれていた地方で即位したので、天智天皇の宮廷は近江朝廷と称されていました。皇位が天智天皇側から大海人皇子側に移ると都合の悪い近江朝廷の重臣たちが、大友皇子を担ぎ上げたことで、大海人皇子との衝突は避けられなくなったのです。
普:なあ、それって…
日:師匠、その辺りのことは、後ほど纏めてご説明します。
普:おう、わかった。
日:寄り道が過ぎましたね。母親の身分が低ということで、長屋王の父親である高市皇子は皇位には就けなかったものの、天武天皇の長子として壬申の乱で活躍した功績もあり、政(まつりごと)の場では重んじられていました。


■高市皇子
696持統10年7月10日薨去 (日本書紀)
654白雉5年生?~696持統10年7月没 43歳?(扶桑略記 他)
661斉明7年生 ~696持統10年7月没 35歳 (本稿での主張)
父 天武天皇
母 尼子娘 胸形徳善の娘
妻 御名部皇女 天智天皇皇女。一代要記に長屋王母とある。
夫持娘 本朝皇胤紹運録に長屋王の母とある。御名部皇女のことか?
十市皇女 万葉集
但馬皇女 万葉集
子 長屋王 684天武13年生~729神亀 6年没 46歳(扶桑略記など)
鈴鹿王 690持統 4年生~745天平17年没 56歳(本稿)
矢通王?(一代要記に「大津皇子將謀叛賜死」とある)


■長屋王
684天武13年生まれ~729神亀6年没 46歳
(扶桑略記、一代要記、公卿補任等)
676天武 5年生まれ~729神亀6年没 54歳(懐風藻)
父 高市皇子
母 御名部皇女 一代要記 に「母近江朝天皇女御名部皇女」とある。
夫持娘 本朝皇胤紹運録に「母夫持娘。御名部親王女」とある。
妻 吉備内親王 草壁皇子と阿閇皇女(後の元明天皇)との子
子 膳夫王(かしわで)、桑田王、葛木王、鉤取王ら 729年没
(以下略)


普:長屋王の母親は一応御名部皇女「(みなべのひめみこ)でいいのか?
長屋王の妻は、母親の妹の阿閇皇女(あへのひめみこ)、後の元明天皇と皇太子草壁皇子(くさかべのみこ)の娘の吉備内親王(きびのないしんのう)。妻の父親の皇太子草壁皇子は、天武天皇と皇后の*野讃良皇女(うののささらひめみ)、後の持統天皇(じとうてんのう)の皇子。 (*慮+鳥)
母親の御名部皇女と元明天皇は同母姉妹で、持統天皇は異母姉で…、全員天智天皇の皇女か…あー、ややこしいー!

 皇統譜を見比べながら、人間関係を把握しようとギルベルトは四苦八苦していた。

日:こちらは藤原不比等の息子で藤原四兄弟です。長屋王を謀叛の罪で自殺に追い込んだ首謀者です。

 菊は更に資料を追加した。


■藤原四兄弟
藤原不比等の息子
長男 藤原武智麻呂(むちまろ)(680-737)
二男 藤原房前(ふささき)(681-737)
三男 藤原宇合(うまかい)(694-737)
四男 藤原麻呂(まろ)(695-737)
武智麻呂→藤原南家の始祖
房前  →藤原北家の始祖
宇合  →藤原式家の始祖
麻呂  →藤原京家の始祖


普:お前、無情だな!

資料の束を手に、ギルベルトは恨めしげに菊を睨んだ。

日:何をおっしゃるやら、あなたが説明してくれとおっしゃったんじゃありませんか。資料はこれで終わりですから、ちゃんと見てくださいね。

普:うーっ…

日:では、天武天皇の系図を見ていただけますか。説明しますので目で追ってください。皇后持統天皇との子供に草壁皇子と、その妻元明天皇の名前を確認できると思います。二人の子供に元正天皇(げんしょうてんのう)、文武天皇(もんむてんのう)、吉備内親王の名前が確認できますか?元正天皇は文武天皇の姉で、吉備内親王は妹で長屋王の妻です。文武天皇の妻に宮子の名前が確認できると思います。
普:確認した。
日:宮子は藤原不比等の娘です。
次に、文武天皇と宮子の子供に聖武天皇(しょうむてんのう)と妻の藤原安宿媛(あすかべひめ)、後の光明皇后(こうみょうこうごう)の名前が確認ができると思います。安宿媛も不比等の娘です。二人の子供に孝謙・称徳天皇(こうけん・しょうとくてんのう)と基王(もといのおう)が確認できると思います。基王は異例中の異例で、生後わずか32日で皇太子に立てられ、翌年生後1年に満たずして夭逝しています。
普:確認した、ここで天武天皇の系図は終わりだな。
日:はい、系図上の説明は以上です。さて、藤原不比等の娘、宮子と安宿媛ですが、宮子は聖武天皇を出産した後、心的障害に陥り36年間病が癒えぬままでした。長屋王の謀殺の原因になったのが、安宿媛の『立后』を巡る確執にありました。聖武天皇と安宿媛の息子の基王が夭逝し、皇位が聖武天皇のもう一人の妻、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の息子である安積親王(あさかしんのう)に移るのを阻む為に、安宿媛を皇后に立てようとしたのです。しかし、皇后には皇族が就くとの法令があり、臣下の娘である安宿媛は皇后にはなれない決まりでした。
そこで、立后に反対するのが確実な左大臣長屋王を排除する為に策を弄し、夭折した基王を呪詛したとして謀叛の罪を着せたのです。


【724年に即位した聖武天皇は、勅して母藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈った。すると長屋王は、先勅には大夫人とあるが、令では皇太夫人である。勅に従えば令に背き、皇の字を削って、令に従えば遺勅になると奏した。
聖武天皇は勅を撤回し、文では皇太夫人とし、言葉は大御祖(おおみおや)とせよとした。
勅は本来令の規定に優先する。だが長屋王はあえて若い天皇を牽制し、藤原氏の特別扱いに一矢を報いた。
過去にこうした経緯のある長屋王が、光明子の立后という前代未聞の挙に首肯する筈がない。
猛然たる反撥が予想された。反対を未然に防ぐために、長屋王の変は仕組まれた芝居であった。
長屋王の変から半年後の729年(天平1年)8月10日、光明子は臣下の娘として初の皇后となった 】


日:『長屋王の変』と呼ばれているこの事件で、長屋王、吉備内親王と子供たち(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)が亡くなっています。
普:権力争いは熾烈で非情だが、子供が連座したのは痛ましいな。
日:この後、737年に九州で天然痘が流行し、それは瞬く間に都にも及び、藤原四兄弟は相次いで亡くなりました。長屋王の変の8年後の事でした。巷では長屋王の祟りではないかと怖れたそうです。
普:一度に兄弟全員死んだのか。神は藤原一族にも罰を下していたんだな。
日:お天道様が見ていますから。
普:ああ、納得した。

 ギルベルトは再び、菊が説明した通りに天武天皇の系図を目で追い、ぽつりと呟いた。

普:侮れないな…
日:…?

 首を傾げた菊に、苦笑まじりにギルベルトは言った。

普:…女は怖いって事だ。
日:はあ、まあ…?
普:一言で言えば、天武天皇亡き後の天武朝は、天智天皇の娘たちが仕切っていたってことだな。天武朝と言うより、天智朝の続きみたいだよな。
日:本当はそうだったのかもしれませんね。そして、自分の息子を皇位に就けたい女たちのエゴと、天皇の外戚として権力を我が物としたい藤原一族の男たちのエゴによって、天武朝は滅んだと言っていいのかもしれませんね。
普:天智朝を乗っ取ったはずなのに、結局は天智天皇の手の平の上だったってことか。結果から見ると、天武朝っていったい何だったんだろうな?
日:天武朝の皇統を丸ごと削除しても万世一系の皇統に変わりはない。
それが、答えですよ。
普:つまり…、『嘘の皇統』ってことか?
日:さすがは師匠、鋭いですね。
さて、それでは、梅の宴の主役である大伴旅人(おおとものたびと)ですが…


【梅の宴】
梅花の宴は、730年(天平2年)正月13日に、今の福岡県、大宰府にあった万葉集を代表する歌人、大伴旅人の邸宅で催された。
太宰府展示館によると、当時、九州全体を司る役所が太宰府にあり、大伴旅人はそのトップとして派遣されてきた「中央官僚」だった。
彼を中心に優れた歌人としても知られた山上憶良ら計32人が集まり、酒に酔い、邸宅に咲き誇った梅の花をめでたという。

■大伴氏
 『大伴氏は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏(ともうじ)に改称。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。
 摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)
 「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。
 また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。
 なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた』


日:大伴旅人は武人として左将軍や大将軍を務め、天皇からも信頼の厚い人物だったようです。左大臣であった長屋王とも親しかったようですね。そして、旅人が太宰府に遣わされた翌年に長屋王の変は起こっています。
普:大伴旅人はわざと遠ざけられたってことか?
日:当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事との見方もあるようですが、余りにもタイミングが良すぎるように思います。やはり、謀(はかりごと)と考えるのが自然でしょう。
普:長屋王の変の翌年正月に、梅の宴は催されたんだな。
日:長屋王一家の死を悼んで…、かもしれませんね。冤罪とは言え、謀叛の罪により死を賜ったわけですから、公には偲べなかっなのでしょう…

  *  *  *  *  *

時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。
しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。
 庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。
言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。
淡然自ら放し、快然自ら足る。
もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。
よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。

□令和元年(2019)年5月8日 0時30分 投稿 ちはや記

ー…ー…ー

【主な参考文献】

■長屋王の変1
www.page.sannet.ne.jp

■天武天皇の年齢研究-系図・妻子一覧
www7a.biglobe.ne.jp

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by hirune-neko | 2019-05-11 02:35 | 創作への道 | Comments(0)
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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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