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昼寝ネコの雑記帳

ちはや作【令和考・中巻】時代を超越した鋭い考察〜その2

Japanese Koto さくら変奏曲/Sakura hensokyoku(Theme and Variations on the Sakura Melody)
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●【令和考・中巻】

普:おーい、 菊ーっ! 菊ーっ!

 翌朝、菊が朝食の準備をしていると、ギルベルトが賑々しく菊を呼んだ。

日:はい、師匠?
普:面白いコメントが来ているぜ。

 菊が顔を覗かせると、ギルベルトは嬉々としてノートパソコンの画面を菊の方に向けた。

 『高向王の両親については聖徳太子とその異母妹・酢香手姫皇女(斎宮)説、田目皇子と間人皇女説がありまして、確かにどっちも純血の皇族なんですが公にし辛いですね。前者は母が神聖な斎宮、後者は義理の母子なので…。
 漢皇子=天武だと仮定すると漢一族に養育されたことになるので、その辺りの背景事情も気になる所ですね』
(令和考・上巻のコメントより)

日:これは…、でも、何故?
普:昨夜、菊が話してくれた事を忘れねえように、纏めて俺様日記に載せておいたんだぜ。見返してみたら、コメントが来ていた。さすが俺様、人気者だぜ!
日:何とも興味深い…、痛いところを突かれましたね…
普:このコメントの説明をしてくれるよな?
日:かなり遠回りになりますが、それでもよろしいですか?
普:おう、勿論だぜ!
日:では、朝食を済ませてしまいましょう。

  *  *  *  *  *

 朝食の後、菊の要望でコーヒーを入れたギルベルトは、わくわくしながらノートパソコンを開いた。

日:先ず、聖徳太子と酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)の説明からしましょうか。皇統譜の用明天皇の系図を見ていただけますか、子供に聖徳太子の名前があると思います。
普:聖徳太子か…、おっ、見つけたぜ。
日:では、その系図を遡ってください。
普:蘇我稲目宿禰(そがのいなめすくね)で行き止まりだ。
日:では、もう一度、用明天皇の系図を見ていただけますか?子供に酢香手姫皇女の名前があるので…
普:おっ、見つけた!遡ると…、葛城直岩村(かずらぎのあたいいわむら)か。
日:葛城氏は葛城王朝説が唱えられるくらい古くから力のあった一族で、五世紀頃が最盛期と言われています。我が国では大和時代に相当し、古墳が数多造られた時代でもあったことから古墳時代とも呼ばれています。天智・天武天皇の頃は明日香の地を中心として栄えたので明日香時代と呼ばれています。もうこの頃は、葛城氏の力は衰えていましたが、名門であることには変わりありません。そして、蘇我氏というのは、葛城氏の別れなのです。系図にある蘇我稲目宿禰はなかなかの遣り手で、後宮に娘たちを送り込み、後の蘇我一族の繁栄を築いた人物です。
普:ということは、聖徳太子も葛城氏系ってことか。
日:そして、天智天皇は葛城皇子とも呼ばれています。当時は乳母、或いは後見人になった氏族の名前で呼ばれることが多く、天智天皇は葛城氏が後見人になっていたと考えられます。葛城氏の子供たちである乳兄弟は将来の片腕となり、葛城氏の私兵は皇子の私兵ともなって皇子を守ります。生涯に亙る強い絆で結ばれることになるのです。
普:つまりどういうことになるんだ?
日:仮に、高向王が聖徳太子と酢香手姫皇女の子供だとしたら、天智天皇とは氏族を同じくする義兄弟のようなものです。高向王の息子の漢皇子(天武)は、実際に腹違いの義兄弟だったわけですが、天智天皇が4人もの娘を嫁がせて誼みを通じる必要があったということは、決して近しい関係ではなかった、警戒すべき人物だったということではないかと思います。
普:成る程な。
日:そして、一番の疑問は、高向王が葛城氏の一族であったなら、壬申の乱の時に葛城氏が天武天皇(漢皇子)を後援しなかったのは何故なのかということです。実際、葛城氏は壬申の乱の後に没落しています。
普:確かに、権力を握ったら、自分の一族を取り立てるのが普通だよな。聖徳太子・酢香手姫皇女説は否定か…
日:記録がない以上、否定はし切れませんし、そうした説があるということは、そういう噂があったということでもありますからね。
普:火の無いところに煙は立たないって言うからな。次は、田目皇子(ためのみこ)と間人皇女(はしひとのひめみこ)だな。二人は義理の母子みてえだが、この時代、腹違いの兄弟姉妹は結婚できたんだよな?義理の母子でも結婚できたのか?
日:古代には父の妻を娶るということは、そう珍しいことではなかったようです。確か、9代の開化天皇(かいかてんのう)は、父の妻を娶って崇神天皇(すじんてんのう)が生まれています。
普:へえー…
日:さすがに明日香時代の頃は、眉を顰める事態だったとは思いますが?さて、その田目皇子ですが、母親は蘇我稲目宿禰の娘の石寸名(いしきな)です。田目皇子は用明天皇の長子だと思われますが、用明天皇は田目皇子を我が子とは認めていなかったと言われています。
普:女房が浮気したってことか?
日:通い婚の時代でしたから、父親が知らない夫がいたのかもしれませんね。用明天皇とは政略結婚で、気に沿わない結婚だったのかもしれません。石寸名との間の子供は田目皇子だけですから、用明天皇も余り関心を持っていなかったのかもしれませんね。
普:お互いに気に沿わない結婚だったのなら気の毒だな。
日:そういう時代でしたからね。でも、石寸名(いしきな)は蘇我氏の娘で資産家でしたから、夫が無関心でも生活には困らなかったのではないかと思います。
普:うん?
日:実は、田目皇子と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が結婚したのは、それが理由だったのではないかと考えられるのです。
普:田目皇子の母親は資産家だったってことだから…
日:はい、田目皇子はお金持ちだったのです。母親と4人の子供を引き取っても何不自由なく養って行けるくらいに。
普:でも、間人皇女は用明天皇の皇后だったんだろ?暮らしに困ることなんてあるのか?
日:用明天皇の即位年数は2年ほどなのです。蘇我一族の皇子ですから、蘇我稲目宿禰の息子の馬子(うまこ)が後見人であったはずなのですが、どうも小姉君(おあねのきみ)系の子供たちとは仲が余り良くなかったようなのです。
普:小姉君?
日:蘇我稲目宿禰が29代欽明天皇(きんめいてんのう)の後宮に送り込んだ娘は、小姉君と堅塩媛の2人です。欽明天皇は堅塩媛を寵愛して13人の子供を儲けており、用明・推古(すいこ)天皇がいます。小姉君とは5人で、間人皇女・崇峻(すしゅん)天皇の他に3人の皇子がいましたが、一番有力と目されていた間人穴穂部皇子(はしひとのあなほべのみこ)は謀殺されています。蘇我氏の系図では、馬子・堅塩媛・小姉君の関係がよくわからないのですが、もしかすると馬子と堅塩媛は同母兄姉で小姉君は異母兄姉なのかもしれません。
普:有りがちだな。
日:まだ十代と思われる聖徳太子を筆頭に4人の子供を抱え、未亡人となった穴穂部間人皇女は生活に困窮することになったのだと思います。
頼るべき兄弟はなく、再婚するにしても皇女が臣下に嫁ぐなど考えられず、ましてや穴穂部間人皇女は皇后でもあったわけです。それなりに相応しい相手となると…、難しかったかもしれませんね。そして、そこに持ち上がったのが田目皇子との再婚話しで、推古天皇の勧めだと言われています。
普:育ち盛りの4人の子供を抱えては背に腹は代えられず、世間的には夫の子供である義理の息子との結婚を承諾したってことだな。
日:遠回りをしましたが、仮に、高向王の父親が田目皇子と穴穂部間人皇女の子供だったとしても、田目皇子が用明天皇の息子とは認められていないわけですから、皇統の血統に疑問符がつきます。ただ、乙巳の変(大化改新)の敵役は、蘇我馬子の息子と孫の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)一族でしたから、蘇我馬子系と知られるのは危険だと判断し、父親の名前を隠したと考えられなくもありません。
普:敵の生き残りだとすると、大化改新の立役者の下では生きにくいかもな?結局どちらの説も玉虫色ってことか。
日:記録がない以上、どの様な説を並べようと仮説にしか過ぎませんからね。
普:でもな、わざわざ『用明大王の孫』と付け足しているのが、却って怪しいんだよな。その一言がなければ、疑われずに済んだのに、その一言がある為に、怪しんでくださいと言っているようなものだろう?
日:まあ、そうですね。無理に正当化しようとしているように見えなくもないですね。
普:日本書紀を編纂したメンバーは、なんでああいう書き方をしたんだろうな?
日:…彼らなりの良心かもしれませんね?

 さあ、一休みしましょう、と言って菊は御厨へと立って行った。

  *  *  *  *  *

(コメント)

『漢皇子=天武だと仮定すると漢一族に養育されたことになるので、その辺りの背景事情も気になる所ですね』

普:確か、皇子たちは乳母や後見人一族の名前で呼ばれるんだよな?
日:必ずしもそうとは言えませんが、大方はこのコメントに書かれている通りですね。
普:この『漢』って、Chinaと関係があるのか?
日:漢(あや)氏は秦(はた)氏と並ぶ朝鮮半島からの二大渡来氏族と言われています。


■漢氏
 『阿知使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点とした。大和に居住する漢氏は東漢氏(東文氏)となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏(西文氏・西書氏)となった。
織物工芸に長けていたため、両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませている。
 n東漢氏の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している。
『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたことを記している。
系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる』

■秦氏
 『「新撰姓氏録」によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでない。
秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化したという説もある』


普:秦氏はユダヤ人説があったよな?
日:よくご存じですね。
普:しかし、漢氏も秦氏も出自を詐称しているんだな。
日:異国で生きて行く為の方便と見逃してやってください。
普:つまり、漢皇子(あやのみこ)は半島からの渡来人一族に育てられたってことか。
日:蘇我馬子の配下に東漢氏がいたようですから、高向王の父親は蘇我系の皇子と考えてもいいのかもしれませんね。
普:コメントの『背景事情』って何だ?
日:コメント主の意図していることとは異なるかもしれませんが…
遣隋使・遣唐使と言って、推古天皇の時代から船で大陸の隋や唐と交易をしていたのですが、天武天皇の時代になってからは大陸との関係が薄れ、半島との交易が盛んになっています。
普:ああ、そういうことか。半島系が皇位を乗っ取ったってことだな?
日:はい、ですから、天武天皇は漢皇子である可能性が高く、その血統には疑いがあるわけです。
普:だから『簒奪王朝』なのか。
日:しかし、神々は天照大神の子孫ではない者の皇位簒奪をお赦しにはなりませんでした。天武朝は後宮を支配した藤原一族の飽くなき権勢欲によって、天武天皇の皇統は断たれ滅亡へと追い込まれたのです。皇統は天智天皇の子の施基皇子(しきのみこ)の子である白壁王(しらかべのおう)・第49代光仁天皇(こうにんてんのう)へと引き継がれ、本来の正しい皇統に戻ることになったのです。そして、天武朝の滅亡の原因となった藤原一族は、その後も閨閥によって千年の栄華を誇ることになります。
普:それ、変じゃねぇか?菊の説だと藤原鎌足が天武天皇を唆したんだよな?なのに何故、藤原一族は滅ぼされることなく栄華を誇ることになったんだ?
日:鎌足の後に藤原一族の栄華を築いたのは、息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)ですが、彼は天智天皇の御落胤説があるのです。不比等の母親は車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)で、後宮の采女(うぬめ)だった可能性があります。その御落胤説の元となったのが『竹取物語』です。
普:かぐや姫の話だったか?
日:はい、おっしゃる通りです。古事記・日本書紀の編纂に寄与したとされている記憶の天才『稗田阿礼(ひえだのあれ)』が書いた物語ではないかと推測されています。物語は、竹から生まれたかぐや姫が、3人の男たちの求婚を機知によって退け、故郷の月に還って行くというものです。実際には、宮廷を乱し謀略を企む者たちを非難し訴えるものなのです。求婚者に車持皇子(くるまもちのみこ)という狡猾な人物がいるのですが、それが不比等だと言われています。
普:不比等の母親と同じ名前の皇子か、成る程な。鎌足とは関係のない血筋、天智天皇の血統だったから赦されたのか…
日:釈然としない思いは残りますが、結果として、藤原一族は簒奪王朝である天武朝を滅ぼし、正統な皇統に繋ぎ渡したのですから、神々は結果良しとされたのではないかと思います。
普:日本の神々は合議制だから、そういう事もあるんだろうな。
日:キリスト教の神のように、絶対的な善悪という概念はないのですよ。改心し善行を積めば赦されるのです。
尤も、あの一族が改心したことなどありませんけどね。
日:さあさ、少し早いですけどお昼にしましょうか。
普:俺様も手伝うぜ。

  *  *  *  *  *

 流しで芋の皮を剥きながら、ギルベルトはふと思った。

普:なあ、菊。さっきの話、何かに似てねえか?
日:…似ていますねぇ。

 
 嗚呼、『令和』とは、そういうことだったのか!

  *  *  *  *  *

□令和元年5月2月 (木) 19時50分投稿 ちはや記

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by hirune-neko | 2019-05-11 02:29 | 創作への道 | Comments(0)
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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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