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昼寝ネコの雑記帳

ちはや作【令和考・上巻】時代を超越した鋭い考察〜その1

Japanese Koto 春の海/Haru no Umi (Spring Sea) Composer/作曲者 Michio Miyagi/宮城道雄
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明治、大正、昭和、そして平成から令和へと元号が改まった。

 これまで、赤ちゃんの名入り絵本は5万3千冊以上を製作しているが、生年月日は最初からずっと西暦を使用してきた。この度の新たな元号「令和」を目にして、5月1日以降生まれの赤ちゃんの絵本には、西暦と元号を並記するよう製作担当の次男に指示した。

 ところが実際には、出産後何ヶ月も経ってから申し込んで来る人が多いため、しばらくは元号ありとなしが混在することになってしまい、製作現場では混乱が生じてしまった。

 元号や天皇制、女系天皇などに関する、いろいろな意見が飛び交っているようだが、ここで改めて、長い歴史を有する天皇制と元号について、その荘厳さを心で感じてみたいと思っている。

 たまたま、ときどきご紹介しているブログ「徒然なるままに」のブログ主・ちはやさんが【令和考】と題して、国を擬人化した小説を完成させた。膨大な文字量ではあるが、新たな令和の時代が幕開けしたのを記念し、全文をご紹介したい。文字数の制限の関係で、分割になってしまうかもしれないが、その場合はご容赦いただきたい。

 時代を十数世紀も遡り、私たちが生きている現代との共通性・いつの時代にも変わらず存在する「陰謀」や「政略」を視野に入れた、歴史ノンフィクションといってもいいのではないだろうか。信憑性はともかく、一考に値する考察だと考える。私には不案内な世界を描いた作品なので、改めて時間をかけて味わいたいと思う。

(以下、ブログ「徒然なるままに」から転載)
●【令和考・上巻】

「万葉集」の「梅花の歌三十二首の序文」

 天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。

 時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

 ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。

■現代語訳

 天平2年の正月の13日、師老(大伴旅人・おおとものたびと)の邸宅(太宰府)に集まって宴会を行った。

 折しも、初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。そればかりか、明け方の山の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたようであり、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳に閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。

 そこで一同、天を屋根とし、地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭の歌を詠むがよい。

  *  *  *  *  *

 菊が朗々と読み上げる声に耳を傾けながらギルベルトは赤ワインを堪能していた。

 春分の後の最初の満月の夜は、聖書の暦で過ぎ越しの祭りの日であった。
 イエス・キリストが12人の弟子たちと共に過ごした最後の晩餐の日である。

 日本邸に滞在しているギルベルトの為に、菊は細やかな宴を設けた。
4月半ばの肌寒い夜であったが、障子を開け放し池に映る満月を肴に二人して酒を楽しんでいた。

『令和』

 いい響きだよな、『梅の宴』の下りを読んで聞かせてくれねえか。

 ギルベルトの要望に応えるべく菊は万葉集を紐解き、『梅花の歌三十二首の序文』を読み上げた。

 存外低い菊の声は深みがあって耳に心地よい。半ば陶然とした思いの中、ふと声が途切れた。

普:菊?
日:雨が…
普:雨?

 開け放した庭をさあーっと雨の幕が降りてきた。

日:夏の宵ならば雨もまた風流ですが、さすがにこの季節では寒さが堪えますね。

 菊はそう言って障子を閉めると、膝をついて雪見障子を開けた。

日:せっかくの満月でしたのに…

 少し落胆を含んだ声が言った。

普:雨の庭も悪くねえと思うぜ。
日:そうおっしゃるなら…

 菊は御厨に立ち、しばらくしてお茶と善哉を運んできた。気づかぬうちに体が冷えていたようだ。善哉の椀の温もりに体がぶるりと小さく震えた。

普:なあ、菊?
日:はい?
普:令和が深いって、どういう意味だ?

 新元号が『令和』と発表された時、菊は「何と深い…」と呟いて絶句していた。テレビ画面の向こうで喜びに湧く人々とは打って変わった厳しい横顔が印象的だった。

日:…長くなりますが、それでもよろしければご説明致しましょう。
普:ああ、聞かせてくれるか?

  *  *  *  *  *

 菊は一度居間を出てから本や資料を抱えて戻ってきた。

日:では、先ず、此方を見ていただけますか。

 菊がギルベルトに手渡した資料は、『皇統譜』であった。

普:うん? あれ、これって、皇統が二系統になっていないか?確か、『万世一系』だったよな?
日:それは私が作ったものです。
普:えっ、てことは、此方が正しいってことか?
日:その件についてはまたの機会にでも。今は天智天皇(てんちてんのう)と天武天皇(てんむてんのう)の系図に注目してください。
普:天智天皇の後、皇統は天武天皇に移り、称徳天皇(しょうとくてんのう)を最後に天武天皇の皇統から再び天智天皇の皇統にに戻っているんだな。それからずっと今上陛下に続いているのか、凄いな…
日:何かお気づきになりませんか?
普:あ…、ああ、天武天皇の皇統を丸っと削除しても皇統の一系は変わらないってことか?
日:天武朝は『簒奪王朝』なのです。
普:簒奪王朝…ってことは、正しい皇統じゃないってことか?だが、系図では舒明天皇(じょめいてんのう)と皇極・斉明天皇〈宝皇女〉(こうぎょく・さいめいてんのう・たからのひめみこ)の子供で天智天皇と兄弟になっているが?
日:天武天皇は大海人皇子(おおあまのみこ)と言って、突然歴史に現れた人物です。生年が明らかでなく、ものの記録に因れば、兄の天智帝より年上だったとあります。もう一度、皇極・斉明天皇系図を見ていただけますか?
普:皇極女帝…でいいんだよな?高向王(たかむこのおう)と結婚して漢皇子(あやのみこ)という子供がいることになっているな。そうか、この漢皇子が大海人皇子ってことか!
日:舒明天皇との結婚は再婚になるようです。漢皇子が大海人皇子であるなら、天智帝より年上だったという記録に納得がいきます。『斉明紀』にはこうあります。


【天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は、最初に橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと。用明大王)の孫の高向王(たかむこのおおきみ)にとつがれ、漢皇子(あやのおおきみ)をお生みになられた。のち息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと。舒明大王)にとつがれ、二男一女をお生みになられた】


普:高向王は用明大王(ようめいだいおう)の孫とあるが?大王って天皇でいいんだよな?天皇の孫の子供なら、漢皇子にも皇位の継承権があるんじゃないか?
日:ええ、この記述が正しければですが?何よりも父親の記述がないのが不自然です。用明天皇の孫とは言っても、母方がそうであって、父方は違うため記述できなかったと考えるのが自然でしょう。つまり、漢皇子は、天皇の血統ではない人物である可能性があります。
普:万世一系というのは、天皇である父方の血統によって受け継がれた皇統ということだったよな?
日:おっしゃる通りです。最初の女帝である推古天皇から、天武系の最後の称徳天皇まで、六方八代の女帝がいらっしゃるのですが、何れも父方が天皇である方々ばかりです。そして、皇后であった方以外の女帝は何れも独身です。それは、女帝は皇統を維持する為の中継ぎに過ぎないからです。
普:高向王が天皇の血統でないなら、漢皇子は皇子とは言えないってことだよな?
日:皇后の連れ子とはいえ身分が違いますからね。父方の家に引き取られていたということも考えられますが、母親の愛を忘れてはならないでしょうね。
普:夫が生きている間は日陰の身に置いていたが、母親が天皇に即位したからには息子を取り立ててやらないという選択肢はないよな?
日:突然表舞台に現れたということは、そういうことなのだろうと思います。天武帝が、正統な皇位継承者である天智帝の皇女を4人も娶ったのは、自分の血筋にコンプレックスがあったからではないかと考えられます。
普:正統な血統を受け継いだ皇女たちを妻にすることで、自分や自分の子供たちを正当化しようとしたってことか?
日:本当のところはわかりませんが、初めから皇位を狙っていたと考えられなくもありません。高向王の父親は不明ですが、高向王が皇極女帝の初婚の相手だったということは、それなりに力や財産があった氏族の出と考えられなくもありません。例えば、名のある豪族とか?或いは、野心家が焚きつけた可能性はありますね。例えば、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とか?
普:確か、天智天皇崩御の前に、謀叛の嫌疑を免れる為に吉野に逃げたんだよな?そして、崩御の後に壬申の乱を引き起こし、天智天皇の息子を殺して天皇になったんだよな?
日:大友皇子(おおとものみこ)ですね。
普:その天武帝が逃げた吉野とその勢力圏が怪しいな。
日:尾張氏の後援もあったようですね。
普:藤原鎌足って、乙巳の変〈大化改新〉(いっしのへん)を唆した奴か?蹴鞠の席で中大兄皇子(天智)の脱げた靴を拾って返したのが切っ掛けで親しくなったなんて、何か嘘くせえよな。
日:鎌足は天武帝に娘2人を嫁がせていますが、不思議なことに、親しいはずの天智帝には嫁がせていないのですよ。反対に、天智帝からは、妻女である鏡王女(かがみのおおきみ)や采女(うぬめ)を賜っています。
采女というのは、後宮に仕える地方豪族の娘たちで、大臣と言えども手出しできない高嶺の花です。鎌足は、安見児という名の采女を賜って喜びの歌を遺しています。

【内大臣藤原卿の采女安見児(うねめやすみこ)を娶(ま)きし時に作れる歌一首

われはもや安見児(やすみこ)得たり
皆人の得難(えかて)にすという
安見児得たり

(わたしは安見児を手に入れることができたよ。宮廷の人々が皆望んでも決して手に入れることの叶わなかった安見児をわがものとしたよ)】


普:うわー、こっぱずかしい!
日:胡麻擂りに必死という感じですね。藤原鎌足は藤原姓を賜るまでは中臣鎌子を名乗っていました。中臣氏というのは、武の氏族でもある物部氏と並んで神事に携わる氏族とされています。この時代は『臣(おみ)・連(むらじ)』という姓(かばね)がありました。連姓を名乗る氏族は、天孫降臨の時に家来として高天原から下ってきた者たちです。臣姓の氏族は、天孫降臨の前から地上世界の有力氏族であった者たちです。
連姓の氏族は家来ですから誼(よしみ)を通じる必要はありませんが、臣姓の氏族は地域の有力豪族ですから、国家を安定させる為には誼を通じる必要がありました。
普:政略結婚だな。
日:はい、そういうわけで、臣姓の氏族だけが天皇や皇子に娘を嫁がせることができたのです。藤原鎌足は中臣連(なかとみのむらじ)の出自ですから、天智帝に娘を嫁がせることが出来なかったのです。しかし、天武帝には2人の娘を嫁がせています。この点からも天武天皇が何者か理解できると思います。
普:天武天皇は天孫降臨の主家ではないということだな。鎌足が采女を貰って大喜びしたのもわかる気がするぜ。
日:鎌足を始めとした藤原一族を、天武天皇擁立の黒幕と考えたのはこの点にあります。乙巳の変(大化改新)の敵役だった蘇我(そが)一族は、後宮に娘たちを送り込み、その子供たちが天皇に即位することで、外戚としての地位を確立し権力を欲しいままにしてきました。聖徳太子一族を滅ぼし、天皇に取って代わろうとさえしたと言われています。娘を嫁がせることが叶わない連姓の者たちは、他所者が権力を握り天孫降臨の主家を好き勝手にするのをどの様な思いで見てきたことでしょう。
鎌足のように上昇志向の強い野心家は、臣姓の者たちを羨むと同時に嫉ましくも思ったことでしょう。同様に、同じ母の腹から生まれながら、父親の身分が違いすぎる為に、日陰者の身分に甘んじなければならなかった大海人皇子と心情は似ていたのかもしれません。
普:成る程な。
日:663年10月(天智2年8月)、百済(くだら)救援の為に派兵した白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗北。
母帝亡き後、称制(しょうせい)のままで即位することなく政治の一線から退いた中大兄皇子(天智)に代わって台頭したのが大海人皇子でした。


【称制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。
日本では飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)と野皇后(持統天皇)の二例が見られるが、どちらも『日本書紀』では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。
日本の場合、摂政と似ているが、摂政の場合は天皇が同時に存在しているが、称制の場合は天皇がいない(称制している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在)のが大きな違いである】


日:これにより、大海人皇子に可能性を見い出だした鎌足は、若き中大兄皇子を唆して乙巳の変を引き起こしたように、大海人皇子に皇位簒奪を唆していたのではないかと考えています。首尾よく皇位簒奪が叶えば、蘇我一族のように後宮を支配し権力や財産を欲しいままにできる。
決して夢ではない、手の届くところに望むものがあるとしたら、後はその時を早めるだけ…
普:暗殺か?
日:時が定まり、668(天智7)年1月に天智天皇は即位されましたが、671(天智10)年12月3日に崩御されています。享年46歳。661年に母帝が崩御されて称制のまま政務を執られた期間は7年、即位してからは3年でした。胃癌で亡くなったとの見立てがありますが、密かに砒素を盛られていたと考えられなくもありません。何故なら、寿命が短かった時代ですよ。鎌足が希望を託した大海人皇子は天智帝より歳上です。
普:時間がなかった?
日:鎌足の時間もです。実際に鎌足は、落馬事故の結果とはいえ天智帝より先に亡くなっています。669年11月没、享年56歳。亡くなる前日に藤原姓を賜っています。


【壬申の乱】

 天武元年(672)壬申の年6月、天智天皇の子・大友皇子と、天皇の実弟・大海人皇子の間の皇位継承権を巡る内乱。争いは約一ヶ月に及んだ。吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、天皇崩御の後、伊賀、伊勢を経て美濃に入り、東国を固めて、別働隊は倭古京を攻め、大友皇子軍を近江国瀬田で撃ち破り、大友皇子は自害した。大海人皇子は翌年即位し天武天皇となった。

 この時、東国へ使者を出した大海人皇子に、家臣が「きっと行く手を遮られます」と言ったので、大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)等に、「駅鈴」を貰ってこい、もし貰えなかったら、志摩はすぐに報告に戻れ、恵尺は大津に行き高市皇子、大津皇子を連れて伊勢で我等に合流せよと命じた。報告は「鈴を得ず」、壬申の乱の幕は切って落とされた。

  *  *  *  *  *

普:余談だか、父系で血統が維持されるという点は、古代イスラエル(ユダヤ)とよく似ているな。聖書にはアダムからアブラハム、イスラエル12部族、そしてダビデ王からイエスまでの系譜が記されているが、全て父系のみの記録だ。日ユ同祖論が唱えられたこともあるが、こうした点も錯誤を生んだのかもしれねえな?尤も、聖書の方は、最初の人間アダムが罪を犯し、その罪の下に生まれた人類を救う為に、救世主イエスが誕生するまで父系で血統を繋ぐ必要があったわけだが、日本が皇統の父系に拘っているのは何んでなんだろうな?
日:神代の昔すぎて、理由は失われてしまったのかもしれませんね。
それでも二千年この方父系で受け継がれて来たのです。父系という絶対的な縛りがあることで、皇統は維持され護られて来たのです。これからもそれは変わらないし変えてはならないのです。我が日本国と皇統はイコールなのですよ。皇統が喪われる時、神代からの日本国も喪われるのです。
普:重いな…
日:ええ、とても…でも、それが我が国ですから。

□平成31年4月30日(火) 1時30分投稿 ちはや記

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by hirune-neko | 2019-05-11 02:25 | 創作への道 | Comments(0)
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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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