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確信は、論理性の対局に存在することが多い 人生では、誰もが選択の岐路に立つ経験をする。選択肢が複数存在し、決断できない場合もあれば、選択肢が2つに絞られたにもかかわらず、どちらを選択して良いのか判断できないこともある。 一見すると、理論的に考えたら結論が導き出されるように思える。しかし、単に理屈で考えて大事な決断を下そうしても、何か不安が残ってしまうことがある。 何かいい例えはないかと考えてみた。ここに2人の人がいたとしよう。1人は博学で、相当豊富な知識を持っている。もう1人は、相手の気持ちを推し量ることができて、知恵に富んでいると思える人だ。 たとえ、いくらその人に豊富な知識が備わっていたとしても、コンピュータにはかなわないだろうと思う。一方、知恵のある人には人格も備わっており、信頼感や安心感を持てるというイメージがある。 次々と新しい局面が展開し、実態を掌握したり判断することが難しい時代に、私たちは生きている。声の大きい人の意見に従うか、多数意見に従う、という選択をする人が多いだろうと思う。そこには、判断を誤りたくないし、誤った選択をしたくないという心理が働くのだろうから、それはそれで理解することができる。 今日あれこれ考えていて、人間にとって「内なる声」というのがとても重要ではないかと思った。決して論理的ではないが、声なき声を聞くような、あるいは印象のようなものを感じるというイメージだろうか。それは感覚的な領域、あるいは感性で捉える、としか説明することができない。 つまり、目に見えないものや、耳に聞こえない声によって促される、というイメージだ。もちろん、大切な判断をするためには、それなりに情報を収集して考える必要はあるだろう。何もせずに、ただいたずらに不思議な訪れを待つのは、さすがにちょっと怠惰だと思う。 どうやら、確信を持つというのは心の中で完結するものなのだろう。人間は誰でも生まれながらにして心を持っている。しかし、心というのは体から取り出して手に取ったり、目で見ることができない。 心ない言葉、心が腐っている、心が痛む、心に突き刺さる、心が満たされる、など心に関わる表現は実にたくさんある。問題は、心の状態がどのような時に声なき声を聞き、目に見えないものを見ることができるか、ということなのではないだろうか。 仏教の言葉だと思うが、「喜捨」どういう表現がある。人のために、たとえ大切なものでも自分から離す、という寛大な気持ちを表しているのだろう。キリスト教にも、「赦す」という教えがある。 自分を憎み、あるいは自分に敵対する人のために祈り、赦すように教えられている。 個人的には、そのような心を持つ人たちの内面では、なにやら神聖な領域が醸成されているのではないだろうか、と思う。そのような人たちは、理論を超越した何かを、心の中で感じることができるのだと思っている。 その対極にあるのは、物欲や名誉欲、さらには情欲が心に満ち溢れていたり、あるいは相手に対する敵対心、憎悪、恨む気持ちをずっと持ち続け、そこから解放されない心なのではないだろうか。そのような心に囚われた人は、おそらくは平安な気持ちを持つことが難しく、常に感情に左右されてしまうような気がする。そのような状態の心には、優しい語りかけは届かないような気がする。 とどのつまりは、正義・公正・慈悲などと呼ばれる要素が、どの程度自分の心の 中にあるかということが、選択の連続を経験する私たちの人生の明暗を分けるようになるのだろうと考えた。 ■
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by hirune-neko
| 2017-02-04 01:13
| 心の中のできごと
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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。 ・1969年 中央大学経済学部入学 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。 ・1974年 同大学卒業 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。 ・2006年 現在に至る プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。 ・2010年 宇宙の旅 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。 ・現在 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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