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昼寝ネコの雑記帳

南米チリーの軍事クーデター遭遇の思い出


Astor Piazzolla - Jorge adios


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数日前、ピアソラの曲「サンティアゴに雨が降る」
とともに、南米・コロンビア在住の
El Bohemioさんを紹介した。さらにこの曲が
同名の映画のために作られ、チリー・軍事クーデターが
舞台になっている作品だとつけ加えた。

そのEl Bohemioさんが、クーデター当日
チリーに居合わせた生々しい体験記を送ってくれた。
貴重な記事なので、紹介させていただく。

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南米チリーの軍事クーデター遭遇の思い出                                                                                 El Bohemio・文



 「サンティアゴに雨が降る」は1973年9月11日に南米チリーで起きた軍事クーデターによって崩壊した「人民連合」政府とサルバドール・アジェンデ大統領の運命をドキュメンタリータッチに描いた映画である。この事件は今年で丁度40年を迎えるが、私はその時期にチリーのサンティアゴからクーデターが蜂起されたバルパライソの隣町ビニャ・デル・マールに危険を避難するつもりで来ていた。

 事もあろうにクーデターはすぐそこの隣町から起こされたのだ。今でもその時の生々しい現象を記憶にとどめている。その日はサンティアゴとバルパライソには雨ではなく機関銃の銃弾が降っていたのだ。二、三機のプロペラ戦闘機がモネーダ宮殿を低空飛行体制で銃弾の雨を降らしていた映像を映す白黒テレビの画面を見ていた。

 では当時の記憶を呼び戻してみよう。『40年前の今日(1973年9月11日)朝7時ごろ私はビニャ・デル・マール近くのチョリージョという名の街のアパートで目を覚ました。二階の住人のハンガリー系ユダヤ人に起こされたのだが、、、何事かと聞くとクーデター(ゴルペ)だという。この軍事クーデターはピノチェット率いる陸軍と海軍、空軍及びカラビネーロ(騎兵隊)と呼ばれる警察軍が合同でアジェンデ共産党連合政権に対して起こしたクーデターで、かれこれ2月前に蜂起されたがその時は戦車一台が大統領官邸に向かつたが官邸護衛兵に阻否されて何事も起こらず仕舞いだった。

 しかし、何時か本格的クーデターの蜂起が予測されていた事で“やったか”と一瞬頭に横切る。テレビの映像はモネーダ宮殿を低空に飛んできた戦闘機が爆撃する姿を映していた。既に街は軍隊があふれていた。アパートの下の街路にも戦闘着とヘルメット姿の数名の兵隊が機関銃を山側の貧民窟に銃口を向けそろえていた。一人の若い兵士に近ずいて何故銃口をそちらに向けるのかと訊ねると彼は余り近ずくなと警告しながら、あそこはゲリラ同然の集団の棲家が密集しているからだと早口に説明してくれた。
 ラジオがなにやら喚いているので二階の友人に尋ねたら外国人は近くの警察暑に出頭しろという勧告である。そこで、まず行動したのは勧告に従い大家さんに同行してもらい友人と彼のチリ人の奥 さんと警察暑に行く。出てきたのは若い将校風の軍人が我々を面接したが、その将校と大家さんとなにやら話し合いのやり取りしていた後で私達は何も聞かれずにすぐに家に帰り“外出をするな”といわれただけで放免してくれた。

 その日の夜は近くからダッ、、、ダッ、、ダッと連続音の機関銃の掃射音が聞こえた。翌日の朝早めに起きてビニャ・デル・マール市からバスで20分ほどの港街バルパライソに出かけた。巷にはドイツ人かユダヤ人風の品の良い顔立ちの老人男女が数十名不安な顔つきで警察暑らしき建物の前で行列をしていた。彼らも外国人登録勧告命令に呼び出された人達であった。

 そしてラジオから戒厳令と市民の外出禁止条例が発動されていた中を友人を探しに港に近い余り環境の良くない風俗臭い安ホテル街に急いだ。友人のパックパッカー旅行者I君が黄疸症状が見える様なのでサンティアゴの駐日本大使館の医師に診断してもらうために同行する約束があったからだが、戒厳令で首都サンティアゴ行きは不可能であった。やっと見つけた友人をやむなく急遽受け付けてくれる市内北側に設けられた軍事病院に連れて行く、海兵隊が厳重に警備をしていて、患者はすぐに診察室に通されたが付添は病院内に入る事は許可されなかった。そのまま彼と再会は出来ずにチリーを脱出した。

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 そして、時はたち、数十年後(最近)彼のブログを偶然発見したが今だに彼(I君)の消息を確認していない。I君のブログ文の一部を下記に載せたので参考にしていただきたい。



 【9月11日(火)・・入国61日目(交換義務金1220ドル、所持金1260米ドル)・・今日は、福岡さんが知っている医者(サンチャゴ)のところに行く予定だ。小便をしに廊下にでる。一瞬たじろんだ。いつもは誰もいない、狭くて薄暗い廊下に、人が大勢いる。彼らは一斉にぼくを見た。誰もなにもいわない。トイレから帰り際、彼らを観察した。

 男たちは十数人。毛布をひろげて、そのうえでカード遊びをしている男、カーテンの脇から外を覗いている男、携帯ラジオを耳にあてている男。灰色の作業服に長靴の男たち・・・。彼らが、なぜここにいるのだろう。突然、『バーン』と爆発音が聞こえた。男たちは、一瞬ひるんだ後、窓からこっそり外をうかがっている。
 部屋に戻っても、彼らのおびえた目つきが気になる。

 ガラス越しに外を覗く。ドラム缶にゴミをくべて暖をとっている労働者も野菜を少しのせた荷車を引っ張っている少年の姿もない。新聞売りの『コレヒヨ、コレヒヨ』の呼び声もなければ、石畳の鋪道を掃くじいさんも会社や工場に急ぐ人々もいない。ときたま動いていたクレーンも長いアームをたれたまま。すべてが止まっている。福岡さんは、何時に迎えにくるのだろうか?

 どのくらい寝たのだろうか? ドアが激しく叩かれた。尾崎とグローリア、セシリアも一緒だ。
「ゴルペよ」
「ゴルペ!」
「何をぼんやりしているんだ。クーデターだ。クーデターが起こった」
 やられた。ついに起こったか。まだ大丈夫だろうと心の底のどこかで楽観していた。
「急いで!」
「どこに行くの」
「プエルトよ」
「サンチャゴで起こったんだろ。ここは安全じゃないの」
「なに言っているんだよ。クーデターはこの街から起こったんだぞ」
「いま何時?」
「10時40分」
「急いで、貴重品だけまとめて」
「もうすぐ戒厳令がひかれるだってよ。誰も町を歩けなくなる」
 彼らの慌てぶりは普通ではない。クーデターだ。殺し合いだ。街角でいつ撃ち合いが始まるかわからない。彼らが、ぼくを呼びに来たのもかなり危険な行動のようだ。ホテル・ヘラスコにいたら町の店はすべて閉鎖のため、食事に困る。どこかに連れていかれてもそれっきり、誰にもわからない。人殺しだって頻繁に起こる。いま安全なのはできるだけ大勢と一緒にいることだ。】 (石原記チリー28項から)

 昼寝ネコ注・「本文の福岡さんはEl Bohemioさんと同一人物」

      *   *   *   *   *


 図らずも同じ様な境遇にいた二人の体験の違いは明らかだ。チリーに来た理由は両者共に共通する様でもあったが、全くかけ離れた境遇に出合っている。私は危険な場面にはほとんど遭遇していない。私は彼らのグループから何時も一歩離れて交際をしていたから・・・ただし、ある程度は知り得た現地の巷の噂として、また新聞記事で知った情報†おして彼らに提供はしていた。クーデターが突発した日。この情報をある程度は得ていたが、やはり突然で驚いた。そこで考えたのはいち早くチリーから脱出する事であり、実際に行動に移した。

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by hirune-neko | 2013-09-25 01:45 | 現実的なお話し | Comments(5)
Commented by El Bohemio at 2013-09-25 03:38 x
この文を読んだ人はおそらくどうしてそんな所にのほんといたのだろうと思うでしょうね。ただ通りすぎのつもりだった。アルゼンチンに行く為にね。当時のチリーはサルバドール・アジェンデ大統領が統治する共産国であった。そこへ何も事情のわからない外国人が入り込んだ。そして、外国人旅行者に毎日滞在費として高額のドルを交換義務を強制していた。これが果せないためにずるずると蟻の巣に落ちたようにもがいているうちに、起きるべきして起きた軍事クーデター。私は冷静に考えて、クーデターにより倒されたアジェンデを美化しない。共産主義の汚い人民を騙す手段をそこで見た。ピノチェットの軍事弾圧も非人道であった。が、、、あのクーデターはやはり内戦であり、アジェンデ政権が続いたとしても内戦は避けられない状況になる事は目に見えていたのである。

Commented by hirune-neko at 2013-09-25 12:56
El Bohemioさん

解説を有難うございました。
よくご無事でしたね。
Commented by papabubure at 2013-09-25 20:42
まさに歴史を体感されたんですね。
映画の解説みたいでした。
Commented by hirune-neko at 2013-09-25 22:03
papabubureさん

ねっ、私もそう思いましたよ
戦争を体験したようなものですから
本当に貴重な体験だったですね。
Commented by El Bohemio at 2013-09-26 04:03 x
Papabubure さん、昼寝ネコさん、

お二人の言われるように戦争でしたね、、、
しかし私は何時も危険に遭遇していないのですよ
友人I君の体験談を付け加えてありますが、ことらの
方が危険迫り彼らの友人が警察に拷問受けている
生生しい記録を書いています。彼はその時未来の
妻となる人に救われていますが、、、
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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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