昼寝ネコの雑記帳

最後の弔問者

Piazzolla Ave Maria Tanti Anni Prima Ballade



私が最後の弔問者だった。

横浜での会合が終わったのが午後7時。
急死した知人の通夜は
午後6時からと聞いていたが、斎場に電話で確認したら
午後9時には、家族の皆さんも引き上げてしまうという。
時計を見ると、午後7時20分。
雨脚が強くなっている。
間に合うだろうか。
高速1号線の、まだ羽田の手前だった。
途中、どこかで標識を見過ごし、
常磐道に入るべきなのに、結局は入谷で出た。
旧式のカーナビはおっとり過ぎて、頼りない。

南柏駅近くの斎場に到着したのは、
午後8時45分頃だった。
玄関で何人かの弔問客がタクシーに乗ろうとしている。
なんとか間に合ったと思ってロビーに入ったら、
彼らは弔問客ではなく、帰宅しようとする
ご家族と親族の皆さんだった。
「済みません、仕事が終わって駆けつけてきました」

空席の椅子ががらりと並び、もう誰もいない。
斎場の係の男性が、焼香を勧めてくれたので
真っ直ぐに祭壇へ。
遺影の前で立ち止まり、
棺を見ると、顔の部分がガラス張りになっていた。
無言の別れを告げ、仏式の焼香に倣った。

振り返ると、喪服姿の女性が立っている。
「奥様ですか?」
「はい、有難うございます」
こういうときは、なんて言えばいいのだろうか。
舞台上で台詞を忘れてしまった役者以上に、困惑が拡がる。

彼は高校の同期生なのだが、高校時代
一度も言葉を交わしたことがない。
数年前に、卒業後約40年にして初めて同窓会に出席した。
そのときは
「野球部でしたか?」
「バスケ部でしたよね?」
という簡単な会話だけ。
交換した名刺で、勤務先の会社を知った。
名の通った大手企業の業務部長だった。

高校生の私は、登校拒否などではなかった。
普通に登校し、出席点検が終わると窓から抜け出て
当時、室蘭には一軒しかなかった「ジャズ喫茶」に行った。
ジャズ愛好会が組織され、毎月研究会が開かれる、
今考えると、なかなかアカデミックなジャズ喫茶だった。
そこでコルトレーンやエヴァンスと出会い、
その付き合いは、今でも続いている。
学校を抜け出したのは、月に数度ではなく
毎日だった。
ジャズ喫茶に行って音楽を聴きながら
弁当を食べ、最終バスで家に帰る・・・
文字通り、それが当時の私の日課だった。
そんな学生だったので、ずっとずっと
自分は落ちこぼれの、はみだし人間だという
ある種の負い目を持ち続けていた。
なんて殊勝な性格だろうと、今でも思う。

卒業後の彼の経歴は知らなかったが、
周りの同期生の女性たちの話しを総合すると
かなりファンが多かったらしく、真顔で
「ずっと憧れていました」とか
「再婚することがあったら、私を選んでください」だってさ。
これらは、当時60歳近い女性たちの言葉だ。
物静かな雰囲気の彼は、ちょっとうつむき加減に
そして穏やかに黙殺したものだ。

その後、同期生何人かで富士五湖への
泊まり込みの旅行をしたときも参加したらしい。
来週の土曜日に、登別温泉のホテルで
同期生の宿泊宴会が予定されているらしいが、
彼はそれにも参加を予定していたそうだ。
私と違って、付き合いのいい男だったようだ。

とくに深い会話をした訳でもなく、
個人的な付き合いが生まれた訳でもなかった。
今夕の打ち合わせは、かなり前から予定されており
内容的にも、私が欠席する訳にはいかなかった。
それに、訃報を知らされたのは昨日だったので
通夜をパスしても決して非礼には当たらなかったと思う。
でも、昨晩からずっと気にかかっており
最期のお別れをしようと考えて、強行軍を決めた。
行って良かったと思っている。

彼の奥様は気丈に振るまい、何よりも驚いたのは
香典返しの中にあった挨拶状だった。
普通は、葬儀屋さんが用意した定型文が多いのだが
奥様からの、彼に対する思いが綴られている。
夫の急死の、おそらくはその日のうちに
書かれた文章なのだろう。
もしかしたら、文章を書く仕事をなさってるのでは、
そう思わせる、自然で心のこもった言葉の数々だった。
別れ際に、残されたお子さんの人数をお聞きして
「月並みですが、お力落としのないように」
と、ご挨拶するのが精一杯だった。
一瞬だが、かろうじて支えていた感情のバランスが
崩れそうになったのを見逃さなかった。

ピアソラのほとんどの曲は、暗い曲想だ。
フォーレのレクイエムでも聴こうかと思ったのだが、
記憶にある唯一の、ピアソラらしくない
実に穏やかな曲「アヴェ・マリア」を
私からの最後のメッセージとして
彼に送りたいと思う。

じゃあな。
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by hirune-neko | 2012-06-10 23:52 | 心の中のできごと | Comments(4)
Commented by papabubure at 2012-06-11 14:08
なんかジ~ンとしました。

同年齢で逝かれるといろいろ考えさせられます。
まだこれからでも新しく始められることがあるのだろうかとか・・・

わたしも最後の弔問者の経験があります。
仕事を終えてから駆け付けたのでギリギリ間に合いました。
そのお方の訃報はお知らせいただいた訳ではありませんでした。
普段は気にしない新聞の死亡欄、著名な方でしたので新聞の記事で
確認できました。
偶然?でしょうか・・、実はすこしだけ関わりを持たせていただいた方でしたので。
あれから20年。当時3,4才だったお嬢様のお父様の記憶はお写真の中だけだそうです。

Commented by hirune-neko at 2012-06-11 14:34
papabubureさん

似たような経験でしたね。
先月は、被災地を回り、結果的に
何人もの過酷な状況にある方々と
直接お話しをする機会がありました。
それと、気仙や三陸の海岸線に拡がる
鮮烈な景観の印象がまだ残っており
人間の死に対する思いが、ある意味で
敏感になっているようです。
Commented by romarin at 2012-06-14 03:26 x
実は私も同級生の訃報を受けたのが、約2週間前でした。
主人とも同級の友人のチェリストです。
フランスから帰るときは主人のために送り迎えまでしてくれ、
チェロを持たずに来たときは貸してくれると言う、本当に得がたい友人でした。

肺血栓で倒れたらしいと言うメールをやはり同級生からもらい、
大丈夫か、と気遣っていた矢先に訃報。

未だに信じられない思いです。

つらいですね。
昼寝ネコさんも同じ経験をなさったのを見て、なんと偶然なのかと
驚いたしだいです。

心よりご冥福をお祈りいたします。
Commented by hirune-neko at 2012-06-14 12:13
romarinさん

そうでしたか。
高校の同級生はすでに数人が亡くなっています。
今までは、死というのは重く遠い存在でしたが
被災地を回り、家族を亡くされた方たちと話し、
絵本用の死者からのメッセージを考えるうちに、
どちらかというと、死者に近い視点を持つようになったと
不思議な変化を感じています。
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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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