昼寝ネコの雑記帳

2018年 01月 03日 ( 1 )

新しい年への入口を入ってみて


Bill Evans Trio - What is there to say?

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 時間に追われる一年を過ごし、改めて処理スピードを増す必要性を感じた。曲がりくねった道路では、直線道路のように高速で走ることはできないので、方向を確認しながらの低速はある程度やむを得ないだろうと思う。

 なんとか方向は定まったので、今年はそれなりのスピードに加速できるだろうと思う。

 今日も寒い中、歩きながら聴いたのは「共謀罪とパレルモ条約」というテーマの話しだった。「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」の略称がパレルモ条約あるいはTOC条約だと学んだ。かつて、イタリアのパレルモという町の裁判官が、マフィアの犯罪を封じ込めるために各国の警察同士で犯罪者情報を共有する、という目的で創案したのがそもそもの始まりだという。その裁判官と同調した何人かがマフィアに暗殺されたそうだ。

 そのパレルモ条約に批准していない数少ない国のひとつだった日本が、昨年になって批准したため、ようやくテロリスト情報を共有する国際組織の一員となったということらしい。東京オリンピックを控えて、テロリストから一般人を守るという大義名分になっているのだろう。

 昨日、ブログ読者の千波矢さんから紹介されたブログを読んだ。オリジナルは産経新聞の記事だが、それに「荒んでいく世界」のブログ主さんが詳細な説明を加えている。まずは直下に一枚の画像を掲載する。ご存知の方がいらっしゃるかもしれないが、この画像を見てどのような背景をイメージされるだろうか。
c0115242_00211762.jpg
 小さな妹か弟を子守する、感心な男の子をイメージされたかもしれない。以下は、産経新聞の記事からの転載である。

【産経新聞】2018.1.1
 ローマ法王が被爆写真の配布指示 長崎で撮影「焼き場に立つ少年」 ローマ法王フランシスコは、原爆投下後の長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真をカードに印刷し、「戦争が生み出したもの」との言葉を付けて広めるよう指示した。ローマ法王庁(バチカン)が1日までに発表した。法王はこれまでも核兵器廃絶を呼び掛けており、改めて平和を訴えた。
 バチカンは写真について、亡くなった弟を背負った少年が火葬場で順番を待っているところだと説明。「かみしめて血のにじんだ唇により悲しみが表現されている」と指摘した。
 写真は1945年に長崎で原爆が投下された後、米軍の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんが撮影した。カードの裏には法王の署名が入っている。(共同)


 知人は長崎の出身だが、原爆投下時に工場で働いていたお父さんが、直撃を受けて亡くなったそうだ。「今はもういいです」と、水に流す言葉を語っていた。国民性によっては、無垢の数十万人もの人たちを殺害したアメリカという国を、千年以上にわたって恨み続けるのではないだろうか。私は、あっさりと水に流すという気持ちになれるかどうか、自信がない。

 産経新聞の記事にあるように、この画像の男の子は驚愕や悲しみ、恐怖に耐え、無残に殺害された弟を火葬にする責任を果たすことに、全神経を集中しているかのようだ。

 撮影した従軍カメラマンが、どのような経緯でこの画像を公開したか。そして、周囲からの公開反対の圧力を、どのようにはねのけることになったかを、「荒んでいく世界」のブログ主さんが詳細に説明している。

 一瞬の閃光が奪った尊い命。そして良心の呵責・・・人それぞれに背負った心情が、巡りめぐってローマ法王に写真公開の決断を促すことになった。その経緯に、私は天の配剤のような印象を感じている。
 アメリカによる原爆攻撃を知り、敗戦を悟った畑中理(おさむ)さんは、陸軍中野学校の出身であり、残置諜者として国外に残った。そして北朝鮮に渡って、アメリカに原爆を投下するという執念のもとに、北朝鮮の軍隊を指導し、核開発の基礎を創ったと書かれているブログを読んだことがある。(中杉弘の徒然日記「北朝鮮と畑中理(おさむ)https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12266715553.html

 この「焼き場に立つ少年」の画像をご覧になり、これまでの経緯の詳細をお読みになるなら、涙を抑えることができないだろうと思う。改めて思う。国を守り、国民の平和と安全を維持することは崇高な行為である。

【ブログ・荒んでいく世界】
「焼き場に立つ少年」とそれを撮ったジョー・オダネル氏

このブログを何度か開こうとしたが、不安定なのかうまく開けない。せっかくなので、少し長いけれど、全文をコピーして以下に掲載させていただく。
本文中に、いろいろな記事を他から引用されており、判断が困難なのでそのまま転載させていただくことにした。その点をご了承いただきたい。

(以下転載開始)
昭和20年8月9日午前11時02分、長崎に原爆が投下されました。原爆は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させました。被災して亡くなった方々の遺体を焼いているところに、幼い弟(妹?)を背負い、はだしで、歩いてきた少年。

男の子は泣いちゃいけない、精いっぱい、涙をこらえて、直立不動の姿勢をとり、唇に血がにじむほど、歯を食いしばっていた少年。こんなちいさな少年でも、その頃の日本人は立派な、サムライだったのです。

必死で悲しみをこらえている様子に胸がはりさけそうになりました。この写真を撮ったのは、米従軍カメラマンのジョー・オダネル氏です。氏はこの写真に次のようなコメントを残されています。


佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。

少年の様子はあきらかに違っていました。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。足は裸足です。

少年は焼き場のふちまでくると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。私は、背中の幼子が、すでに死んでいることに気づきました。

男たちは幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気づきました。少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。
(インタビュー・上田勢子)
[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]

この写真が公開されるまでには、オダネル氏に大変な心の動きがあったようです。こちらをご覧ください。
 ↓
ジョー・オダネル氏とその息子タイグ・オダネルの物語。
「解かれた封印~米軍カメラマンが見たNGASAKI」


日本人への憎しみ
ジョーは、真珠湾への復讐心に燃えて海兵に入りました。目的は、にっくき敵、日本人を殺すため。
そして広島に原爆が落とされます。そのときのジョーの思いは、『10万人くらい死んだらしい。とにかくこれで戦争は終わりだ』感慨もなにもないものでした。
しかし、撮影班として現地入りしたジョーは、それが戦争の終わりではなく、『生き残った日本人にとって苦しみの始まりだった』ことを目撃していくのです。

被災現場の衝撃
米兵達が「グラウンド・ゼロ」と呼ぶ爆心地。『自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊力だった』

彼は、許可なく日本人を撮ってはならないという軍規に反して密かに撮影を続けます。そして、救護所で見た現実。
『眉も鼻も耳もなかった。顔と言える原型はなく、肉も塊だった』
肉塊と化した彼はジョーに訴えます。『あなたは敵でしょう。私を殺してください』
ジョーは逃げるように彼から離れました。

『この世のものとは思えないものを見た』衝撃は、ジョーの思いを変えていきました。
『傷ついた人々を撮影している内に日本人に持っていた憎しみが消えていった。憎しみから哀れみに変わった』
『なぜ人間が同じ人間にこんな恐ろしいことをしてしまったのか』
組織への失望
帰国したジョーの心は苦しみます。
『被爆者達の体をうごめくうじ、助けを求める声、鼻をつく異臭…。私は長崎で見た光景を思い出すまいとした。しかしその光景は頭から離れず、私をさいなみ続けた』
『眠ろうとして眠れない。悪夢が終わらないのだ。写真を見たくなかった。見ると長崎の悪夢が蘇ってしまう』
―彼は、「絶対に開けるな」と家族に言い渡し、屋根裏に写真が入ったトランクを封印しました。

大統領付の写真家としてホワイトハウスで勤務し始めたジョーが最初に出逢った大統領が、原爆投下を正当化するトルーマン大統領でした。ジョーはある日大統領に訊きます。

『後悔はないか?』
彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこういった。「当然それはある。しかし原爆投下は私のアイディアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ」
このような無責任な決断で、数十万人(被爆後5年間の死者も含めると34万人)もの魂が焼けただれたのだ。
ジョー自身も、背骨の痛みと変形、そして皮膚癌が広がりはじめる。爆心地に向かう兵隊にも放射能の真実を告げず、使い捨てにする米軍への失望。彼は原爆被害を求めて提訴しますが、米国政府は却下します。

人間としての決意
ある日、ジョーは反核運動のシンボルを見ます。その彫像に貼られた被爆写真を見て、彼の心は決意しました。
『真実を伝えなければならない』

67歳の時でした。そして、43年間も隠し続けたトランクを開け、封印していた30枚の写真を公表しはじめました。

各地で写真展を開催するも、退役軍人の反対にあい、地元新聞に批判の投書が掲載され、家族が嫌がらせを受けました。写真の出版も持ちかけましたが、出版社すべてに断られました。そして…ついに妻が離婚して去ります。
けれど、ジョーは活動をやめませんでした。ジョーを突き動かした思い。それは

『あの小さな子供たちが何かをしただろうか。戦争に勝つために本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか』

そして、断じます。

『1945年 あの原爆は やはり間違っていた。それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に』
その決意から、ジョーは70歳を過ぎて、体験を語る活動をはじめました。そして、焼き場に立つ少年を捜し続けました。

決意を受け継いだ息子
ジョーは孤立無援で闘い続けました。『嫌がらせの手紙や投稿がどんどん集まってくる。「お前は裏切り者だ」「アメリカが嫌なら日本に行け」と。

ある時娘が教えてくれた。「お父さんの活動に味方する投稿が一つだけあるよ」と。その投稿は次のように訴えていました。

「オダネルを批判する人たちに言いたい。原爆とは何だったのか。図書館に行って歴史を勉強してから批判しろ」
名前を見るとそれは私の息子だった。息子が私が日本にいたときと同じ23歳の頃だった。その息子タイグは次のように言います。

『50年たって僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行ってお父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。平和のために命をかけて写真を伝えていくよ』

タイグはネットで写真を公開しはじめます。批判がきます。8ヶ月後、母エレンからもメッセージが届きました。

『私にはまだジョーがなぜトランクを開け、母国を告発したのかわからないままです。ただこれだけは確かです。彼の写真が多くの人に影響を与えていること。そしてその写真を引き継いだあなたをジョーが誇りに思っていることです』

そして、タイグは父の写真に写っていた背中の焼けただれた少年に逢いました。年をとられたその方は、現在もまだ手術を続けていらっしゃいました。

その後、タイグは子供たちの遊ぶ姿を写真に撮ります。

『いつか長崎で笑顔の子供たちを撮りたい』
―父のその思いを叶えるために。

広がる平和への意志
原爆を目撃してしまったアメリカン人のカメラマン、ジョー・オダネルは言います。
『たとえ小さな石であっても波紋は広がっていく』

『誰かが続いてくれれば波紋はさらに広がっていく』

『そしていつか誰もが平和を実感できる日が来ると信じる』
----------
ジョー・オダネルの魂に一本の背骨を通したのは、あの「焼き場に立つ少年」だったと思います。

理不尽のすべてをのみこんで
涙も流さず
ただ唇を血がにじむくらいに噛みしめて
立ちつくしていた
あの少年―
幼子が焼けるのを見届け
そして
くるりときびすを返して去っていったあの少年

すべて大人がやったこと
地球の子供たちには、何の罪もない

「戦争を終わらせるために原爆は必要だった」「罪悪感はない」「謝る必要はない」…どんな理屈も、どんな言い訳も強がりも、この少年の無言の主張の前では意味をなしません。

ただ、涙があふれるだけです。
ただ、私たち大人が馬鹿でごめんなさい、と頭を下げるだけです。
-----------

社会(体制)の中で生きようとしたジョー。
しかし、彼の中で「焼き場に立つ少年」に植え付けられた種が芽吹き育っていました。そして、43年の時を経て彼の中で大木に育ったのです。
すべてを捨て、孤独になる覚悟がなければ、真実を公開することはできないでしょう。その強さのモデルになったのは、あの「焼き場に立つ少年」だったのだと思います。

彼がトランクを開けたとき、感情を持つことを“禁止”されていた心亡き写真家から、「人間」に戻ったのです。トランクを開けるとは、閉ざされていた「心を開く」ことに他なりませんでした。

そして、孤立無援の父を支えたのは、息子のタイグでした。ジョー・オダネルに背骨を与えて心を持つ人間にしたのは「焼き場に立つ少年」。そのジョー・オダネルの人間としての闘いを支えたのは息子タイグ。

ジョーは二人の少年に支えられ、受け継がれて85歳でこの世を去りました。亡くなったのは、折しも8月9日。「焼き場に立つ少年」の思いを、私もまた受け継いでいきたいと思います。
---(ここまで)---

この写真、そして、YouTube動画にもある映像に触れ、今一度考えたいと思います。それと同時に、「正しい真実の日本の歴史」について勉強していこうと思いました。そして捏造されたものではなく、「真実の歴史」を伝えていきたいと…。

先日次のような記事がありました。
 ↓
毎日新聞 発信箱: 2011年11月23日
焼き場に立つ少年の写真

焼け野原に裸足の少年が立っている。おんぶひもで背負った赤ん坊は、すでに息がない。幼い兄は、川のほとりで小さい弟を焼いてもらうため、じっと順番を待っているところだ。きつく結んだ口もと、正面を見据える目、ぴんと伸びた指先。

原爆投下後の長崎で、米軍カメラマンのオダネル軍曹が撮った有名な写真は、人種も言葉も超えて万人の胸を打つだろう。 と思ったら、それは甘かった。スイス・ジュネーブの国連欧州本部に11日新設された 原爆常設展示。準備段階で長崎市がこの写真を提案したところ、国連職員たちの委員会審査であっけなく却下された。

「直立不動の姿勢が軍隊みたいだ」「この子は悲しいのに泣いていないじゃないか」。そんな物言いがついたらしい。そもそも長崎市は「まず被爆の悲惨さを知ってほしい」(田上富久市長)と考え、背中一面焼けただれた写真など十数点を用意したが、国連側から「子供の見学者も来るので、ショッキングな内容は困る」と退けられた。焼き場の少年の写真は窮余の一策だったが、それもダメだという。
やり取りを交わすうち、国連内の議論の実情が漏れ伝わった。「悲惨な目に遭ったのは原爆だけじゃない」「ホロコースト(ナチスのユダヤ人大虐殺)の常設展も申請がある」「南京虐殺はどうる……。」
結局、全体は国連の軍縮・核不拡散の歩みを紹介する展示となり、原爆の記述は11枚のパネルのうち2枚にとどまった。使われた写真は、広島・長崎の焼け跡と、衝撃度の少ない被爆者の後ろ姿の3枚である。
他の惨事と比べられない被爆の特殊性。表に出さないほどに深い悲痛。どちらも日本の常識が、国連では通じない。それを分からせるのが外交だが、事のてんまつに、なぜか外務省は登場しない。(ジュネーブ支局)
・・・・・・・
これって、国連のトップば朝鮮人だから?と思ってしまった私です。そして、消し去られそうな「先人がつくりあげてくれた本当の日本の歴史」を子供たちに伝えていくことが、私たち大人の大切な「役目」だと強く感じました。
私たちは、決して先人たちのことを忘れてはいけない。
この少年のことをいつまでも記憶し、後世に語り伝えなければならないのです。
日本の未来のために精一杯生きた先人たちのことを・・・。

関連動画・記事
【感々学々】永井隆「長崎の鐘」に思ふ[桜 H21/8/15]
※「6+9=15」これは8月6日の広島と、8月9日の長崎の原爆投下を表す国際共通語である。今回は長崎の原爆投下について、永井隆の「長崎の鐘」を御紹介しながら振り返­ってみます。

・ジョー・オダネル『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』(小学館)

・福島県三春町交流館「まほら」:原爆展:「トランクの中の日本」よりhttp://local.election.ne.jp/poppy/6795.html

・ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと(極東ブログ)http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/08/joe_odonnell_6972.html

・焼き場の少年


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by hirune-neko | 2018-01-03 00:31 | 心の中のできごと | Comments(0)



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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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