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昼寝ネコの雑記帳

クリスマスにちなみ、私家版・比較宗教論


Faure - Agnus Dei

いつもクリックしてくださり有難うございます。とても励みになっています。

これまでに正面切って、宗教をテーマとして取り上げたことがない。
なぜかというと、特にこれという理由はない。
しかし、今日はクリスマスということもあり、不思議なことだが
改めて宗教というテーマと真剣に向き合うべきだと感じた。

しばしば論争の際には、理論的検証や歴史的検証などと
表現されるように、大体のところで正しさが論証される
ケースが多いと思う。
数学的、化学的、物理学的なテーマの場合、実験や検証を経れば、
ほぼピンポイントで正解値が導き出される。

しかし宗教となると、それらの手法がまったく通用しない。
宗教は人間の内面深くと関わっており、逆に人間の内面に
影響を及ぼさないような宗教には、存在価値がないと考える。

人間の内面は実に多面的であり、常に具体的な形を伴わない
抽象的な概念で表現される要素が多い。
しかも困ったことに、言葉で表現される概念は、
言葉に依存する以上、厳密な定義を追求していくと、
最終的には深い徒労感を味わうという結果に行き着いてしまう。
「伝統的形式論理学」でいわれる「外延」と「内包」の不整合だ。
例えば、幸福、平和という概念には誰でも賛意を示すが、
幸福とは何か、平和とは何か、と具体的・現実的に追求していくと、
完璧に合意を形成するのが不可能なことに気づく。

比較宗教論というからには、主要な宗教の発生史その他を列挙し、
それらの類似点あるいは相違点を説明すべきなのかもしれない。
しかし、その作業は私の能力を遙かに超える分野なので、
宗教研究家の皆さんにお任せしたいと思う。
真善美を求める人間個人にとって、最も重要なのは
「真の宗教」は何か、ということではないかと思うからだ。

しからば、真の宗教とは研究者や学者の膨大な議論の結果
選出された、ある宗教あるいは宗派を指すのだろうか。
その議論には、「人間の存在を超越した創造主」そのものの
存在が欠落している、といわざるを得ない。

では、「人間の存在を超越した創造主」が実際に存在するのだろうか。
さらに突き詰めるなら、宗教とはそもそも何かという壁に突き当たる。
パスカルがその著「パンセ」で述べているように、
パスカルの思考では「神学的発生」、すなわち人間の限界を超えた
存在を認めざるを得ないところに帰結している。

宗教法人とは、宗教法人法で法人格を与えられた宗教団体を総称する。
それは、あくまでも法律的な概念である。
現実社会では、政治的な目的や、他国への工作活動の拠点としての
目的であっても、要件を満たせば宗教法人法では、
宗教法人と認定される。

したがって「真の宗教」を明確に分かりやすく分類するためには、
「人間が創設した宗教」なのか、あるいは
「人間の存在を超越した創造主が創設した宗教」なのかの、
いずれかに大別しても支障はないのではないだろうか。
もちろん異論のある人も存在するだろう。

宗教あるいは宗派の創設者には、カリスマ性があり
人格者である人が多いだろうと思う。
しかし、どれだけ指導力があり、徳が高く、愛が深くても、
人間である以上は、人間としての限界を超えることはできない。

乱暴に聞こえるかもしれないが、
もし「人間の存在を超越した創造主」が存在しないことが分かれば、
宗教は倫理や道徳規範の高度な実践と完成を目指す団体である、
としか考えられない。

奇跡を起こすことを、宗教の正しさの拠り所にするかもしれない。
空中を浮遊したり、重篤な病を癒やしたりする奇跡を
「正しい宗教」の証明書として誇示するかもしれない。

しかし騙されてはいけない。
旧約聖書の出エジプト記で、奴隷の境涯にあったイスラエルの民を
エジプトから去らせることを、エジプトの王・パロに願い出たのは
モーセとその兄アロンだった。
モーセとアロンは、主に命じられたとおり杖を地面に投げると、
杖は蛇になった。
水を打つと、エジプト全土の川の水も、器の水も赤い血になった。
次に、ナイル川にかえるが満ちあふれ、パロや家来の家の
至る所にまで、かえるが満ちあふれ、ついには腐臭に満ちた。
しかし、パロの魔術師は、まったく同じ奇跡を起こすことができた。

パロは頑なで、それでもイスラエルの民を去らせなかったため、
主はモーセとアロンに命じ、手をさしのべて地のちりを打つと、
エジプト全土のちりがブヨとなって人や家畜に害を与えた。
パロの魔術師は同じようにしようとしたができず、
・・・魔術師らはパロにいった、「これは神の指です」。
   (出エジプト記8-19)

この後も続くが、奇跡を行う人物、あるいは宗教・宗派が
魔術師同様必ずしも正当で真理ではないということを心に留め、
慎重にならなかればならないと思っている。

私自身は、宗教そのものを醒めた目で見ていることを自覚している。
さりとて宗教そのものを否定しているわけではない。
学生時代、サルトルとカミュに傾倒し、キリスト教その他
宗教を否定する、いわゆる無神論的実存主義を信奉するようになった。
勢い余ってキリスト教会に乗り込み、宣教師と議論するだけでなく、
いかに宗教が間違っているかを「説教」したのを、今となっては
懐かしく思い出している。

あれから半世紀近く経つが、「人間の存在を超越した創造主」
とは直接出会っていないものの、その存在を肯定的に捉えている。
したがって、真の宗教は人間が議論で規定するものではなく、
「人間の存在を超越した創造主」が受け容れる宗教・宗派こそが
真の宗教であり宗派なのだろうと考えている。

どんな人間にも、一生の間には間違った言動や罪深い行いがある。
しかし、反省して自己向上を目指して努力している人に対し、
いつまでも過去の言動を責め立てるのは正当なことだろうか。

真の宗教の根底には、自分に敵対する人をも赦す寛容さ、
他者のために、時間と労力を惜しまない犠牲の精神、
さらには、必要とされれば自分の命をも差し出すほどの
「信仰心」など、ある種の厳しさが求められるのだとも思う。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教など
異なる発生史を有する宗教があるが、
一生涯をかけても、一つの宗教すら究めきることは困難だろう。
なぜそのように思えるのだろうか。

宗教的観点では、知識が豊富にあることが、人間の完成ではない。
知識や教えを実生活で応用し、実践しなければ意味をなさない。
自分に敵対し、憎悪する相手を避けたり罵倒することなら
誰にでもできる。
しかしそのような相手に対しても、寛容さ、慈悲の気持ちを持ち、
赦し受け容れるとなると、単なる知識を遙かに超越した、
自制心が必要であり、しかも一朝一夕では身につかない特質なので、
長い年月をかけて自分を研磨する必要がある。
しかし不思議なもので、もしかしたら最初のうちは
苦痛に思えるかもしれないが、ある時期を境に、気がついたら
自分自身の心の中に平安と癒やしを感じるようになる。

私はキリスト教についてしか勉強していないが、
そのキリスト教の根底には、主イエス・キリストの購い(あがない)
もしくは贖罪(しょくざい)という教えがある。
自らの命を、人類のために捧げ、人間の罪を一身に引き受けることで、
人間には悔い改めを条件に、赦しが与えられる。
この場合の赦しとは、恩着せがましく「赦してやる」
というのではなく、文字通りその人の罪を忘れてくださる、
という意味である。

キリスト教の神と、ユダヤ教の神と、イスラム教の神が
それぞれ地上に降りてきて、
「我こそが神である」
といって、互いにいい争う姿を想像できるだろうか。

神が存在するとすれば、神はただ一人だろう。
かなり以前、脳出血で倒れた中東専門の大学の先生の
論文の校正を、知人から間接的に頼まれた。
その論文では、サミュエル・ハンチントンの著作
「文明の衝突」が紹介されており、これからの時代は
宗教的な対立が深刻化すると、予測していた。
また、イスラム教のマホメッドの言葉として、
「われわれのアッラーの神と、キリスト教の神は
もしかしたら同一人物かもしれない」
といったという記述内容も記憶している。

宗教のみならず、政治の世界でも自己の正当性を主張し、
相手を非難・否定する風潮が高まっている。
もちろん、論理的あるいは歴史的検証など、論理的で
理性的かつ建設的な議論は歓迎したいと思う。
しかし、個の人間の存在を大切に考えるという思想は、
左右いずれの側の人たちにも、見失って欲しくない要素だ。

長くなってしまったが、真善美を求め、あるいは
「真の宗教」を必要とする方のために、私の独善的な考えだが、
いくつか提言させていただきたい。

1.万物の創造主が存在するか、あるいはしないかのどちらかである。

2.人間が創設した宗教団体で、創設者に対する崇拝・傾倒を
 勧める宗教は要注意である。

3.宗教団体が特定の政党・政治家・法案に対して支持や反対を
 求める宗教団体は、要注意である。

4.集団に帰属することで守られ、あるいは便宜を図ってくれる
 という安心感と、信仰心とは区別すべきである。
 真の宗教は、しばしば孤立を恐れず信念を貫くことを求める。

本当に長い文章になってしまった。
しかし、これは約半世紀にわたって試行錯誤を繰り返し、
あれこれ失敗しながら考えてきた、私の個人的な見解である。
たびたび指摘しているが、最優先すべき国家安全と並行し、
最も大切なのは、国家の最小構成単位である人間個人と家族である。
個人と家族が、平和で安全な、そして充実した人生を目指し、
判断力と洞察力を適切に育んでいけば、
国家そのものも、健全で永続性の高い資質を有するようになる。

いつになく、演説調の真面目な文章を書いてしまった。
聖書研究者によれば、イエスの生誕は12月ではなく4月だという。
誕生日がいつであれ、果たして死から復活したイエスが
救世主すなわちキリストとして、地上に再降臨されるのか、
そして福千年という特別な時期を迎えるかどうか、私自身も
引き続き興味を持って注視したいと思っている。

長い駄文をお読みくださり、お礼申し上げる。


いつもクリックしてくださり有難うございます。とても励みになっています。

by hirune-neko | 2016-12-25 19:04 | 心の中のできごと | Comments(5)
Commented by hirune-neko at 2016-12-25 22:20
きいろ香さん

コメントを有難うございました。

書き終わって文字数を数えたら、あまりにも多すぎて
自分でもびっくりしました。

日本人は基本的に、道徳心とか公徳心とか、非利己的な
国民性だと思っています。
日本・ユダヤ同祖論がありますが、日本人はちょっと
特殊な人種かもしれませんね。
動乱の社会情勢になればなるほど、本領を発揮するような気がします。

仏教に関しては手つかずで、勉強できていません。
きいろ香さんは、いろいろよくご存知ですね。

今年もカウントダウンですが、佳き新年をお迎えください。
・・・まだちょっと早いですね。
Commented by konron at 2016-12-26 07:56 x
ヒマラヤの奥地でチベット密教の宗教に用いる法具などの民族資料を収集していました。実際の悪魔払い儀式も立ち会いました。黒魔術の呪い儀式も側で観察しました。それは呪詛された者が腹痛を訴えて手術すると体内から錆びた鏃が出てきました。医者はこれは自分たちの仕事ではないラマ僧に相談したほうがいいと告げられて、呪いを返す黒魔術の儀式を行いました。
見えない世界や霊は存在するというのが私の確信です。
同じ領域に暮らすそれらの見えない存在とどのように円滑につきあうのかというのがヒマラヤでの宗教の意味のように思えました。見えないので知らずに怒らせてしまうと枉事が起こり、人々はラマ僧に相談して対処してもらいます。詳細なマニュアルのようなものがあります。何百という霊が分類されています。私自身も何度もラマ僧に助けられたことがあります。
個々人の何千年という体験が重なって体系が生まれたのでしょうか。ヒマラヤの急峻な地形は文化を孤立させ時間を止めるような働きがあるように思えました。村々で独特な文化と時間が流れていて、生きた標本のようにも感じられました。70年代の大昔なので現在はもう違っていると思います。
Commented by hirune-neko at 2016-12-26 11:39
konronさん

コメントを有難うございました。

日本人としては、とても特異な経験をされたと思います。
ラマ僧には対面したことはありませんが、
私も不思議な力が存在することは、受け容れられます。

おっしゃるように、地形的に人が近づきにくく、
ずっと隔絶された独自文化が温存されているのでしょうね。

貴重な体験談を読ませてくださり、有難うございました。
Commented by hirune-neko at 2016-12-26 11:43
きいろ香さん

コメントを有難うございます。

きいろ香さんは、あれこれ良くご存知ですね。
私はなんでも偏食傾向が強いものですから
無意識のうちに、新しい情報や知識を遮断しているようです。
年齢的にも、限られた分野にしか好奇心が働かないようです。

ですので、こうして私の知らないことを教えていただくと、
刺激になって有難いですよ。

有難うございました。
Commented by hirune-neko at 2016-12-27 02:22
きいろ香さん

いえいえ、知らない分野のことは自分で調べようがありませんので、
いいしげきになっていますよ。
きいろ香さんは、とてもいい感性をお持ちですので、
感想をいつも楽しく拝読しています。

佳き新年をお迎えください。
また遊びにいらっしゃってください。
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妄想から始まり、脳内人格を与えられた不思議な存在

by hirune-neko
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昼寝ネコのプロフィール
・1951年
 小さいころ、雨ざらしで目ヤニだらけの捨てネコを拾ってきては、親から小言をいわれる。小学校低学年の音楽と図工は通信簿が「2」。中学からバスケを始めるも、高校2年で部活を止め、ジャズ喫茶通いが日課となる。授業が退屈でがまんできず、短編小説を書いては授業中のクラスで強制的に回覧させ、同級生の晩学を妨げることしばしば。早く卒業してほしいと、とくに物理の先生が嘆いていたようだ。ビル・エバンス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンに心酔。受験勉強をすっかり怠り、頭の中は浸水状態。

・1969年 
 中央大学経済学部入学
 まぐれで合格するも、東大安田闘争・70年安保闘争などの影響で神田界隈はマヒ状態。連日機動隊がやってきて大学はロックアウト・封鎖の繰り返し。すっかり希望を失い、大いなる時間の浪費が始まる。記憶に残っているのは、ジャズを聴いたこと、大学ノートに何やら書きなぐったこと、ぼーっと考えごとをすること。数限りなく、雑多なアルバイトをやったこと。一応は無難にこなした・・・はずだ。いろいろ本を買いあさったが「積ん読状態」で、ただ、アルベール・カミュの作品には衝撃を受ける。それと、寮生活だったので、嫌いだった納豆を食べられるようになったのは、収穫だった。

・1974年 
 同大学卒業
 1年留年し、5年かけてなんとか卒業。理由は単位を落としたからだが、結局5年間の学生生活で授業に出席したのは、おそらく数十日ではなかったろうか。毎回レポート試験で単位をいただいたが、ほとんどは寮生仲間に「餃子ライス」を報酬に、作成を代行してもらった。今さら卒業証書を返還せよといわれても、もう時効だろう。白門同窓生の恥部であることは、重々自覚している。
     
・2006年 
 現在に至る
 プロポーズしたら1週間待ってくれという。そんなに待てないといったら、翌日ハート型のケーキを焼いて待っていてくれた。世の中には奇特な女性がいるものだ。おまけに4人も子どもを産み育ててくれて・・・育児放棄の夫に寛大な女性で・・・おまけに子どもたちは・・・三人の息子と息子のような娘が一人なのだが・・・父親を反面教師として、なんとか実社会に順応している。大したものだ。わが家には、「親の七光り」など存在せず、「子の七光り」で恩恵をいただいているようなものだ。

・2010年 宇宙の旅
 人生も、それなりに辛抱して生きていれば、悪いことばかりではないなと思っている。2010年には、どこで何をしていることやら。宇宙のチリになっているのか、地中に埋もれているのか、はたまた相変わらず時間を見つけては昼寝三昧なのか、こればかりは全く予測がつかない。

・現在
 このブログを始めた頃、2010年なんてずっと未来の存在だった。でも、気がついてみたら2010年はすでに過去のできごとになってしまった。2013年になり、もうじき2014年になろうとしているこの時期に、改めてブログに書き残された何編もの雑文が、自分の心の軌跡という遺産になっていることを感じている。6年前に「昼寝ネコの雑記帳」という単行本を出版した。最近は「続・昼寝ネコの雑記帳~創作短編集」を発刊しようと、密かに機会を窺っている。
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